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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第5話 遠いメドゥの背中(1)

 セントリック・アカデミーでのトレーニングも数ヵ月が過ぎ、暦の上では新しい年が始まろうとしていた。ヴァージンは17歳になったものの、アカデミー内外のトレーニングや、借り物のウェアの洗濯、掃除、その他アスリートの卵であることとは関係なく必要になる様々な仕事に、ついに彼女は誕生日の当日中にそのことを気付くことはなかった。

 マゼラウスがほぼ休むことなくヴァージンのトレーニングを見てはいるものの、ワンルームマンションに帰れば一人。12月3日という記念すべき日を、今年は初めてジョージにも祝ってもらえずに過ごしたのだった。

 しかし、1週間ほど経って、宿舎のメールボックスに珍しくチラシ以外のものをヴァージンは見た。宛先の下に、親愛なる愛娘へ、と書いてあった。

(父さん……)

 アイシングをしても足の疲れが取れないほど過酷だった一日の疲れは、そこで吹き飛んだ。見慣れた筆跡に、ヴァージンは封筒を持った右手を思わず高く掲げて、飛ぶように自分の部屋へと戻った。



 ヴァージン・グランフィールド 17歳おめでとう


  元気でやっているか。

  一人のアスリートとして、アメジスタを立ってから数ヵ月。

  きっと、あのコーチに何度も怒られてると思うし、ヴァージンもそれで成長していると思う。

  父さんも、寝る時も一人でいる生活に少しずつ慣れてきた。けど、寂しい。

  だから、こうして17歳になったヴァージンに、すごくお金かかっちゃうけど、想いを伝えたくなった。

  ヴァージン、誕生日おめでとう。

  帰ってこれるときには、いい話を聞かせて欲しい。



「父さん……」

 思わず涙がこぼれたヴァージンは、それを手紙の文面ににじませることがないように必死に拭う。しかし、薄汚いあの家に一人にさせてしまっていることを考えると、どうしても涙が止まらなかった。さらに、父の見せるいくつもの表情に混ざって、アメジスタの人々や自然が記憶の中で甦り、ヴァージンはその度に何度も体を震わせていた。

「私は、これでも何とかやっているから……」

 届くわけもない言葉を、届くわけもない大きさの声でヴァージンは呟いた。そして、同時に返す手段がないことに気が付き、ヴァージンは住み慣れた部屋の天井を仰いだ。

(これ、返せない……)

 アカデミーで知り合った別種目のアスリートが言うには、母国からのメールは返すのが当然だということだった。しかし、電子メールはおろか、一般家庭には電話すら存在しないアメジスタにメッセージを伝えるには、高い金を払ってエアメールを母国に送るしかなかった。

 通信手段は、世界の常識に比べて何周も遅れている。それが、世界一貧しい国の宿命だった。

「父さん、ごめん。でも、いつか私は、いい成績を残して父さんに会うから!」

 その声は届かなくても、ヴァージンは自然のうちに覚えたアメジスタの方角を向いて、大きく首を振った。


 大会に出て、もっと世界に認められないと。

 止まりかけていたヴァージンの鼓動は、少しずつ動き出していた。


「コーチ、ちょっと相談があります……」

「どうした?」

 翌日の昼休み前、400mダッシュ10本を終えたヴァージンは、クールダウンの運動をしながらマゼラウスに話を持ちかけた。珍しくヴァージンの方から始まった言葉のキャッチボールに、マゼラウスは灰色の髪を軽く揺らしながらヴァージンに近づいてきた。

「今まで、私の次の照準は来年3月のジュニア春季大会、ってコーチに言われてきました。私もそれに照準を合わせてきたつもりですが……、その前に何度か実戦を積み重ねたいと思うんです」

「実戦……。例えば、どこに出たい」

「冬の……室内選手権」

「ほぅ……。君は随分と大胆な決断に出たな」

 15歳から19歳までが出場できるジュニア大会は、夏のジュニア陸上大会の時期に立て続けに行われるだけで、それ以外の時期には気候の穏やかになってきた春にしか開かれない。一方、雑誌でよく見かけるトップアスリートたちは、年が明けるとすぐに室内選手権に出場して、春先から始まる屋外でのシーズンに備える。実戦の間隔を開けないように、寒い時期にも合わせるべき照準を自ら作っているのだった。

 ヴァージンは、たしかにアカデミーのトラックでは、不定期でライバルのアカデミー生・グラティシモに勝負を挑み、相変わらずの完敗を喫し続けている。しかし、ヴァージンのタイムそのものはジュニア大会で自分の出したものを何度か上回るようになっていた。

「えぇ……。早く、みんなと勝負がしたいんです!3月まで待ってられない……んです」

「そうか……」

 そこまで言うと、マゼラウスはゆっくりと腕組みを始めた。ここまで腕を組むのは、ヴァージンにはあまり記憶がなかった。

「君が本気で練習に取り組んでいるのには、私はいつも驚かされている。君の実力も、このアカデミーでかなり伸びている。……だが、17歳になったばかりの君が、トップアスリートの集う大会に出るとなれば、それは相当な勝負になる」

「覚悟はしています。それでも、私はこのままじゃいけないんです!」

 ヴァージンは、右手の拳を丸めて朱色のウェアに軽く乗せた。その目は、まだ見たことのないライバルたちを見るかのように細めていた。

「たしかに、私の自己ベストは、例えばメドゥさんやグラティシモさんと比べたら、遠く及びません。けれど、その壁を越えてこそ、セントリックで成長をしたってことになると思うんです」

「ヴァージン……」

「いつまでも、ジュニアチャンピオンのままでとどまりたくない……。それが、今の私です」


(私は、もっと強くなりたい……)


「いいだろう。君の次の照準は、とりあえず2月のアムスブルグ室内大会だ」

「ありがとうございます!……どうしても、言いたかった」

「君らしい。……ただ、そう決まった以上、私も妥協はしないからな」

「はい」

 ヴァージンは、マゼラウスの話が終わり午前中の練習から解放されると、飛び跳ねるようにして建物の中に戻った。そして、これで何度目か分からないメニューの昼食を口に運んでいる間にも、脳裏には彼女が「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で見続けてきたアスリートたちの真剣な顔が映し出されていた。

「アムスブルグ、アムスブルグ……」

 ヴァージンは、男女さまざまなアカデミー生が近くにいるにも関わらず、無意識に出場する大会の名を軽々と呟いていた。隣にいた、ヴァージンより年下の男子が軽くヴァージンの方に目をやるのに気が付いて、そこでようやく口を閉じた。だが、その時ヴァージンは、自分の隣にやや背の高い女性が座るのを感じた。

「すごいじゃない。インドアに出るなんて」

「グラティシモ……さん!」

「だって、今の時期にアムスブルグと言ったら、2月のインドアしかないでしょ」

 ツインテールの髪を見るまでもなく、その落ち着いた声でグラティシモと分かったヴァージンは、勝ち誇ったかのような笑顔を見せた。それを見て、練習中はほとんど表情を変化させることのないグラティシモも軽く笑ってみせた。

「グラティシモさんも、室内選手権に出るんですか?」

「もちろん。1月のウッドランドに始まり、2月のジェミニア、それにアムスブルグ。年が明けたら、私のスケジュールはいつも本番よ」

「2ヵ月で、本番が3回……」

 ヴァージンは、思わず体を前のめりにしてグラティシモにせり出した。

「グランフィールド。それくらい、私には普通よ。苦しいスケジュールと言う人もいるけど」

「でも、本当に大丈夫なんですか」

 ヴァージンが言うと、グラティシモは首を軽く横に振って、再びヴァージンの目を見る。

「いい機会だから、あなたに言うわ」

「……はい」

「大会ごとに、コンディションを完璧にできるのが、一流の選手よ。次の大会までの残り日数、自分が何をしなければいけないか、逆算して考える」

「……まだ実感湧きません」

 それは、何度か雑誌のインタビューで目にする言葉ではあったが、これまで与えられた練習にだけ専念してきたヴァージンには、そのことを考える余裕すらなかった。

「そうね。まだほとんど大会に出たことなかったわね。じきに、それが分かるわ」

「じきに……」

「じきに、よ」

 ヴァージンは、少しうなって、思いついたようにグラティシモに言った。

「グラティシモさん。その話で……」

「何?」

「やっぱり、大会までの間にグラティシモさんに一度は勝たないといけないと思うんです」

 ヴァージンは、目を大きく開けてグラティシモに言葉を投げる。

「……だから、グラティシモさん。コーチに言うんで、毎日でも……勝負させて下さい!」


 刹那、ヴァージンは、グラティシモの口がゆっくりと開くのを見た。

 断る、と。


(そんな……)


 その後、雰囲気を変えるように、グラティシモは様々な話を始めた。アムスブルグがオメガ国から遠く離れたネザーランドという国にあること、室内選手権のスタジアムの話、その国のおいしい料理の話。だが、ヴァージンはその話に盛り上がるものの、一息つくごとに心臓が震えていた。

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