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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界記録の重み
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第37話 アスリートに限界なんてものはない(6)

 世界競技会の後にレースの予定がなかったヴァージンは、メリアムと競った翌日、ガルディエールとマゼラウスに次のレースの相談を持ち掛けた。ヴァージンが非公式とは言え14分05秒のタイムを出しことを言うと、すぐにでもレースを申し込みたいとガルディエールから返事があった。

 そして、エントリー〆切間近だった、オメガ国ネルスでのレースが、ヴァージンの次の実戦に決まった。

「ネルスって……、私が初めて世界記録を叩き出したところですね……」

「そうだね。狙ったわけじゃないけど、君にとっては思い入れが深いところに違いないと思う」

「ありがとうございます、ガルディエールさん……。そこで、新たな記録を打ち立てるリスタートの場所にしようと思います!」

「そうこなくっちゃ。君が、ウォーレットのあの記録を上回るのを、この目でぜひ見てみたいものだよ」

 国際陸上機構が世界記録にストップをかけている今、そこで新たなタイムを出しても世界記録として認められるかは分からなかった。それでも、ヴァージンには今すぐにウォーレットの記録を抜きたい気持ちに満ちていた。

(私は、ようやく本気で走れるまでに戻ってきた……)


 10月、ネルスの空は高く、透き通ったスカイブルーがスタジアムを眩しく照らしていた。ヴァージンは、心地よい陽の光に後押しされながら、スタジアムに入った。このレースには、ウォーレットやメリアムは勿論、先日10000mのみに絞ると発表したヒーストンもいなかった。それどころか、これまで優勝を争った選手が、このネルスのレースには一人も出場していなかったのだ。

(誰もライバルがいない……。追う相手がいなくて、私の優勝は間違いない……。だから私は、本気になれなかった。でも、今はもう迷わない。自分の力を、誰が相手であろうと見せつけるだけ……)

 ヴァージンは、自分にそう言い聞かせながらロッカールームへと向かい、レーシングトップスに身を包んだ。ライバルの誰かに出会うことの多いこの場所も、この日に限ってヴァージン一人だった。

 だが、最終調整をしようとサブトラックへと足を運んだ時、その向かう先にダークブラウンの髪の毛が揺らいでいるのが分かった。膝をかばうように地面を突き出す松葉杖と、その顔の形から、そこに誰がいるか分かった。

「ウォーレットさん……。こ、こんなところで、何やってるんですか……」

「見ての通り、今日はグランフィールドのレースを見に来たの」

 そう言いながら、ウォーレットは松葉杖を軽々しく動かしながら、ヴァージンのもとへと一歩ずつ近づく。

「怪我は大丈夫ですか……?たしか、脛骨の真ん中を骨折したと聞いたような気がするんですが……」

「復帰できるかは……、まだまだ分からない。ここを骨折すると、相当時間がかかるって言うから。でも、グランフィールドだけは、私を追いかけて……、ほとんど一人で女子5000mを引っ張っているような気がするから、その姿を見たら、簡単に諦めるわけにはいかなくなった……」

「分かります、その気持ち。私だって、ウォーレットさんが世界記録を持っていなかったら、目標が完全になくなって、レースでも本気で走れなくなってしまいます……」

 ヴァージンは、ウォーレットの目を見て小さくうなずいた。いま女子5000mの世界記録を持つアスリートは、別人のように選手生命を取り戻すべく日々の生活を送っている。いま、再びその世界記録を上回る瞬間を、ヴァージンは掴みかけていたのだった。

 ウォーレットは、ヴァージンを見たまましばらく考えた。しばらく間を置いて、ゆっくりと口を開いた。

「グランフィールド……。いま思えば、フォームを変えたのは失敗だったと思う。知らない間に、足や膝に負担をかけて、世界記録と引き換えに膝をだめにしてしまったのだから……」

「そんなことないですよ……、ウォーレットさん。ウォーレットさんだって、一生懸命走っていたの、私はレースで何度も見てきたのですから」

 ヴァージンがそう言うと、ウォーレットは首を素早く横に振った。

「そう言ってくれるとありがたいんだけど、私が脛骨を痛めた以上、自分のどこかに無理があったことに変わりはないの。グランフィールドの持っていた世界記録を5秒縮めても……、それをもう一度更新しても、今の変わり果てた自分を考えるたびに、苦しくなってくるの」

 ウォーレットは、そこまで言うとヴァージンに右手を差し伸べ、ヴァージンの肩を軽く叩いた。

「グランフィールド……。あなたは、本当の意味で世界記録を持つべき人。私よりもはるかに力がある」

「ありがとうございます……。ウォーレットさんのその言葉、必ず現実のものにします」


 ネルスのスタジアムに集まった観客は、女子5000mのスタートラインに集った15人の選手に目が釘付けになった。トップ選手がヴァージンしかいないこの場所で、スタンドにいる誰もが最低限ヴァージンの優勝を予想していた。だが、本当に見たいのはそれではないとさえ、スタート前のヴァージンには見えた。

(私は……、ウォーレットさんの世界記録と戦う……。そのために、ここまでトレーニングを重ねた)

 数多くのメールに励まされ、メリアムの本気に刺激され、ウォーレットからも言葉を掛けられた。その間、トレーニングで出すタイムは、ヴァージンの気持ちが落ち込んでいた頃と比べれば飛躍的に伸びていた。14分05秒台も2回叩き出している。ウォーレットの世界記録を上回ることは、十分可能だとヴァージンは信じていた。

「On Your Marks……」

 号砲が鳴ると同時に、ヴァージンは何度も意識し続けてきたラップ69秒のペースで先頭集団のトップに躍り出る。5人ほどの選手がヴァージンのペースについて行くように、彼女は足音で感じたが、それもすぐにフェードアウトしていき、1000mを過ぎたあたりからはヴァージンの独走状態へと変わった。


(私は……、去年のオリンピックで世界最速じゃなくなった……。その時に、ひどいことも言われて……、心が折れそうにもなった……)

 ヴァージンのタイムは、世界競技会が終わるまでほとんど低迷していた。懸命に挑むも、最後までパワーがもたず、得意のスパートが沈んでしまっていた。だが、それでもヴァージンはウォーレットの背中を追い続けた。

(でも、もう今の私は違う……。ずっと世界記録ばかりを追い続けてきた時よりも、少しだけ成長した)

 タイムもさることながら、世界記録を追い続けることの意味、そして強い意思を、この1年でヴァージンは感じていた。失って、初めてそのことに気が付いたようにさえ思えた。

(私は……、今の私は……、もっとタイムを上げられる……。きっと、誰も見たことのないタイムも出せるはず!)


 ラップ69秒のペースで3000mを駆け抜けたときには、後続のライバルは直線にすら差し掛かっていない。タイムは8分37秒。スパートさえうまく決められれば、今のヴァージンには十分ウォーレットの記録を上回れる自信はあった。

(少しずつ、スパートに近づけていこう……)

 ヴァージンは、足に宿ったパワーで力強く次の一歩を踏み出した。前に誰もいないトラックでも、「マックスチャレンジャー」がヴァージンに力を送っているように感じられた。爆発的なパワーを頼りに、ヴァージンは1周、また1周と少しずつペースを上げていった。

 そして、最後の1000mを駆け抜けたのが、体感のタイムで11分28秒。ここから、ヴァージンは普段と同じようにスパートをかける。ストライドをやや広めに取り、これまでよりも力強く、その一歩を踏み出していく。

(65……、31……、57……)

 ラップ69秒でのペースで、ヴァージンは未だにこの三つの数字を守り切ったことがなかった。だが、少しずつスパートにも力が入るようになり、少しずつその目標に近づけることはできた。トレーニングでも、特にラスト1周が60秒切れるかどうかで、フィニッシュのタイムも目に見えて変わってくるのだった。

 この日のヴァージンも、スタジアムを駆け抜ける風に乗り、一気にスピードを高めていった。

(いける……。今の私だったら、ウォーレットさんの記録に勝てるはず……!)

 最後の1周を告げる鐘も、ヴァージンの耳にはほとんど入っていかない。それだけ、その足が解き放つスピードに集中していた。

 その足がトップスピードを感じたとき、ヴァージンは完全に「勝利」を確信した。スピードを落とすことなくカーブを曲がり切り、最後の直線をこれまでにないほど体の重心を前に傾け、突き進んでいった。

(私は……、もう一度世界最速に……、返り咲く!)


 多くの観客が息を飲み込む声が、ゴールラインを駆け抜けたヴァージンにはっきりと聞こえた。それは決して歓声ではなかったが、何かに驚いたような声を発していることに間違いはなかった。

 ヴァージンは、その声に後押しを受けながら、記録計に映る彼女のタイムを見た。


 14分04秒47

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