第37話 アスリートに限界なんてものはない(5)
メリアムからの予想すらしなかったメールを受け取って10日、ヴァージンは周囲に自主トレと断って、オメガセントラルの郊外にある陸上競技場に行った。あれからメールでやりとりをするうちに、話はとんとん拍子で進み、二人だけのレースにまでこぎつけたのだった。
メリアムが手配した会場の入口に着くと、紫色の髪が夏の終わりの風になびいているのがヴァージンにはすぐ分かった。
「グランフィールド、すごく久しぶりね……。まさか、この場所に本当に来てくれるなんて思わなかった」
「メリアムさんが、私を動かしてくれたんですよ。世界競技会で自分の走りができず、ずっと落ち込んでたんで」
「やっぱり、落ち込んでたのね……。私も見てて、あの世界記録禁止令はないと思う」
両手を頭の上で組みながら、メリアムは競技場の中へと足を進める。ワンテンポ遅れて、ヴァージンもメリアムの後について行った。
「私も、あれは泣きたくなりました。従わなきゃいけないと分かっていても、許せないです」
「たしかに、上が決めたことなんだけど、なんかグランフィールド一人を狙い撃ちにしている感じがして……、国際陸上機構が裏で誰かに操られている感じもする。勿論、私のドーピングの話も」
「ドーピング……。たしかに、エクスパフォーマの女子3人だけがあの封筒を送られたというのが、1年近く経つのに引っ掛かります。メリアムさんも、あのメールに飲まされたとか書いていましたし……」
「飲まされたというかな……、送られてきた量を考えれば、グランフィールドを蹴落としたかったような気がする。国際陸上機構を操っている人って、私はグランフィールドが頂点にいるのが嫌だと思ってる人だと思う」
メリアムは、声こそ暗くなっていないが、その表情はヴァージンを心配しているかのようだった。ヴァージンの脳裏で、オリンピックからの1年に起きたあらゆる出来事が繋がり始めていた。
「メリアムさん。もしそうだとしたら……、一番怪しい人が一人います」
「それは……、もしかして……」
「フラップのマックァイヤさん。何度か冷たい言葉で私を傷つけに来ているし、そもそもエクスパフォーマのライバルメーカーです。私から世界記録を何としても奪うことを、一番に考えると思うんです」
ヴァージンがそう言ったとき、競技場のロッカールームに続く廊下で、メリアムが一枚のポスターを指差した。
「グランフィールドがいま言ったこと、100%間違ってない……。ほら、あそこのポスター……」
(うそでしょ……。こんなところに、スポーツメーカーの広告を出していいの……?)
ヴァージンの目の前に現れたのは「『ヘルモード』世界最速モデル」とでかでか書かれたポスターだった。スポーツメーカーが競技場の外や観客の通るところに広告を出すことはあるが、既にメーカーと契約している人も多い、選手の通り道でこのようなポスターを見かけたことは初めてだった。
「フラップがこんなところに『ヘルモード』のポスターを出している意味が分かりません……」
「おそらく、国際陸上機構に働きかけて、ポスターを全国の競技場に貼るようにした。ここ最近の出来事を悪く考えれば、そうなるような気がする。しかも、他の製品ではなく、あえて『ヘルモード』をもってきたところが」
そのポスターには、ウォーレットがゴールラインを駆け抜けるシーンと、力強い一歩が映し出されていて、その下にはシューズの性能が書かれてあった。「一世代前のシューズM」と比較されていて、5000mのラップタイムがちょうどオリンピックの時に見せた、ウォーレットとヴァージンの実際の走りに重なったのだった。
「これ……、完全に私です。4000mあたりから失速しましたもの。ウォーレットさんは、こう上がってます」
「なんか、ものすごく悪意に満ちたポスターにしか見えない。しかも、この一言を堂々と書けるところが」
その言葉を言うが早いか、メリアムは人差し指をまっすぐ、ポスターの一番下に伸ばした。
「女子5000mの世界記録は、永遠に破られません。この『ヘルモード』が文句なしに世界最速のシューズです……って、完全に私たちを見下しているような感じしかしないです」
ヴァージンは、その場に立ち尽くしたままポスターをにらみつけた。もともと、「マックスチャレンジャー」を研究され、後出しじゃんけんのように「ヘルモード」を出された時から、ヴァージンの脳裏にあったやりきれない気持ちが、全て繋がったその時に、一気に爆発した。
「私だってそう思ってる。だから、グランフィールド。これ以上、フラップに負けちゃいけない。今日は、グランフィールドの本気を取り戻すために、私は呼んだの。勿論、この後の5000mタイムトライアルも」
「そうだったんですか……。ありがとうございます」
ヴァージンは、メリアムに頭を下げ、レーシングトップスに着替えた。
二人きりのレースなので、観客は誰もいない。たった二人だけの女子5000mのレースが始まる。
「メールでも言ったけど、私はドーピングに手を染める前よりも速くなったから」
「分かってます……。でも、私だって今日負けるわけにはいきません」
ヴァージンは、右足をスタートラインの手前に置いた。そして、右手につけたストップウォッチに手を伸ばす。
「On Your Marks……」
ヴァージンとメリアムが、息を揃えて始まりの時を告げた。そして、その数秒後に同時にトラックへと駆けだした。メリアムのイエローと、ヴァージンのレッド。2色の「エクスパフォーマ」が軽やかに足音を奏でる。
(やっぱり、いつもの戦術は変わらないか……)
メリアムは、ラップ68秒のペースでヴァージンよりも一歩前に飛び出し、力強く引き離していく。一方のヴァージンは、トレーニングで意識し続けてきたラップ69秒のペースで様子を見ることにした。
(最近、このペースで走れていない……。でも、今日はものすごく足が軽いような気がする……)
シューズが見せる戦闘本能とは別に、爆発的なパワーがヴァージンの足に宿っているように思えた。足の力とシューズの力が共鳴しあうとき、ヴァージンは軽くメリアムに追いつけそうな気がした。400mごとに6mほど引き離されるが、この日のヴァージンはそのような差に全く怯えることがなかった。
(私なりの走りをすれば、いいタイムは出せるはず。メリアムさんだって……、ウォーレットさんにだって追いつけるはずだから)
この1年近く実戦経験のないメリアムに、この1年近くもがき続けるヴァージンが負けるわけにはいかなかった。最近にしては珍しく本気を出せるようなレースで負ければ、メリアムが呼んだ意味もなくなってしまう。
2000mを過ぎたとき、ヴァージンはやや細い目でメリアムを見つめた。見える敵が、そこにはいた。
(最後の1000mで伸びていくか……、その前から仕掛けるか……)
メリアムは、相変わらずラップ68秒のペースを保ち続けている。それに呼応するように、ヴァージンもペースを守り続けた。そして、そのまま3200mまで突き進んだ。
その時、メリアムが少しだけスピードを上げたように、ヴァージンの目には見えた。
(メリアムさんが勝負に出た……!)
ここでペースアップをするということは、かなりの可能性でメリアムがこの非公認の場で世界記録を狙おうとしている。ウォーレットも、後半ややペースを上げて、それで二度も世界記録を掴んだ。この時のメリアムの走りは、完全にそれを意識していたようだった。
ヴァージンも、ついに「マックスチャレンジャー」を強く踏みしめた。足の裏にわずかな衝撃を感じ、ヴァージンはシューズと一体になる。
(私は、本気になれる……。決して、ここから失速なんかしない……!)
ヴァージンのペースが、徐々に上がっていく。体感的にはラップ68秒をわずかに上回るペースで、メリアムの背中に挑んでいく。ペースがほぼ均衡し、ヴァージンとメリアムはその差50mを保ち続けた。
(勝負の1000m……、きっと私は追いつける!)
4000mを11分29秒で駆け抜け、ヴァージンはここで一気にスピードアップした。メリアムを追い抜くために、ここでの不完全燃焼は決して許されない。ヴァージンの跳ね上がるようなスパートが、少しずつメリアムとの差を縮め、残り200mのカーブ手前でヴァージンの手の届く位置にメリアムを捕らえた。
(私は……、これ以上負けられない!)
執念で、ヴァージンはその足をメリアムよりも前に出した。直線で食らいつくメリアムをスピードで振り切り、ヴァージンはゴールラインを駆け抜けた。
その時、ヴァージンのストップウォッチには、彼女にも信じられない数字が刻まれていた。
「14分05秒89……。これ……、私、一気に世界記録が近づいたような気がします!」
「私も自己ベストを軽く上回った……。なんか、今日が本番ならよかったのに、って感じがする」
メリアムがそう言うと、ヴァージンは首を横に振った。
「今日本気で走れたのですから、私は次のレースでもっと速く走れます」
「さすが、本当の意味での世界女王、グランフィールド!」
ヴァージンは、メリアムとがっしりと握手を交わした。メリアムが復帰した時、再びトラックでともに戦えることを。そして、ヴァージン自身が次のレースでかつての自分の立ち位置を取り戻すことを。