第37話 アスリートに限界なんてものはない(4)
「また、レースに集中できなくなったようだな……。それはお前自身もはっきりと分かっているはずだ」
「はい……」
世界競技会からオメガに戻った翌日、ヴァージンは早くもトレーニングセンターに入った。そこでマゼラウスが首を横に振りながらヴァージンにそう告げると、ヴァージンは小さな声で返事した。
「せっかく、サイクロシティでいいタイムを出してきたと思ったんだけどな。機構の一声で、お前が目標を見失っているのも、そのせいで出せるはずの実力が発揮できないというのもよく分かる」
マゼラウスの目は、怒っている様子ではなかった。だが、その言葉は、いつになく震えていた。
「ただ、これだけはもう一度考えてくれ。お前は、何のために走るんだ。トラックに立つんだ」
「コーチ……。それは、ライバルを追い抜くためです……。ずっとその気持ちは変わりません」
「口では、お前ならそう言うだろう。ただ、レースで不安になるようでは、お前の気持ちは揺らいでいると言うしかない。抜きたいはずのライバルも、実力を考えればもういないからな」
「ヒーストンさんは……、まだ互角だと思っています」
ヴァージンは、遠くに行ってしまったライバルたちの姿を一人ひとり思い浮かべながら、マゼラウスにそう告げた。しかし、マゼラウスはそこでも首を横に振った。
「ニュースを見たか。ヒーストンも、女子5000mにはもう出たくないと言ってるようだ」
「もしかして、世界記録を止められたことで、ですか……」
「半分以上そうかもしれない。走り終わっても、10000mの時のような達成感はないし、ウォーレットもメリアムも、そしてお前も、だめになってしまったとか言ってるんだ……。だから10000mしか出ないそうだ」
「そんなこと……、私はヒーストンさんを見てて、思いもしなかったです……」
ヴァージンは、突然の冷たい風に身震いさえした。メドゥに続き、ヒーストンにまで言われてしまった。
「お前は、ここまで女子5000mを引っ張ってきた。お前のイメージが、種目のイメージに変わる。世界記録を取れなくなった今、お前の作り上げてきたステージが一気に崩れようとしている。そこは止めないといけない」
マゼラウスの口調が徐々に強くなっていくのを、ヴァージンはその耳に焼き付けていた。
「ヴァージンよ。お前は、13分台を諦めてしまったのか。今の国際陸上機構が認めてくれるかは分からないが、そのタイムを出すことは、そのタイムを公認することとは違うはずだ。挑む価値はあるだろう」
きっぱりと言い切ったマゼラウスに、ヴァージンは再び身震いがした。心の中で、小さな炎が燃え上がった。
「13分台は……、諦めてなんかいません。絶対に諦めるわけにはいきません!」
「そうだろうな。それが、お前自身の抱いた目標だろ。レースでそれを意識しないでどうするんだ」
ヴァージンは、マゼラウスの問いかけに、大きくうなずいた。
(少しだけ、勇気をもらったような気がする……)
その日ヴァージンがトレーニングから高層マンションに戻り、バッグからウェアを取り出すとき、その持つ手が熱くなっているのを感じた。マゼラウスの目の前で誓った13分台という言葉が、何度か記憶の中で蘇る。
(私は、こんなところで止まってはいけない……。1年以上、ウォーレットさんにすら追いつけてないのに……)
次の瞬間、ヴァージンの目はレース用のシューズが入った箱に向かっていた。輝くような赤に染まった「マックスチャレンジャー」から、シューズを履いていないにも関わらず、パワーが溢れているように見えた。あの時フラップの「ヘルモード」にアタックし続け、激走の末に力尽きたそのシューズが、再びその力を取り戻しているかのようだった。
(私が世界競技会のレースで諦めすら見せたとき、「マックスチャレンジャー」が泣いていたような気がする……。気持ちがだめになったとき、シューズの挑む気持ちも一気に0になってしまう……)
エクスパフォーマ――それは、パフォーマンスを極限まで高めることを目指したスポーツブランド。2年近くにわたって、ヴァージンはそのモデルアスリートとしてエクスパフォーマを背負っている。自らの弱気で、その製品にすら傷をつけてしまうことは、あってはならなかった。
(次こそ……、もしかしたらウォーレットさんの記録を上回れるかもしれないのに……)
ヴァージンは目を細めながら、もう一度シューズと向き合った。そして、そのままの勢いでパソコンに向かい、国際陸上機構から世界記録を止められたその日から全く開けなかったメールボックスを、素早くクリックした。
(私の世界記録を、もう一度見たいと言う人は……きっといる。そう信じたい……)
そうヴァージンが心に決めた瞬間、目に飛び込んできたのは、これまでほとんど見たことのない件数のメッセージだった。この3週間ほどの間に、ヴァージンを心配し、そして支えてくれるメールが何千件にも上っていた。
――女子5000mの世界記録が二度と出ないなんて、その走りを見る限り、絶対ありえないと思います!
――たしかに、ウォーレット選手も、メリアム選手も、無理な方法で世界記録を目指しました。けれど、グランフィールド選手だけは、本当の意味で世界記録に挑み続けてきたと信じています。
――その力強い両足で、14分04秒48より速く走れるはずさ!今まで何度も世界記録を破ってきたんだから!
――ヴァージン・グランフィールド。それは世界記録に挑む力強いファイター。初めて世界記録を叩き出した時からずっと見ていますが、私はその走りを見て、いつもそう思っています。だから、あんなことを言われても、ライバルが次々といなくなっても、世界記録に挑むことを諦めないでください。
――ウォーレットとメリアムが出なくなった今、女子5000mの世界記録はもうあなたしかいません。長距離を走る全ての人々にとって、あなたは最後の希望なのですから……。
一つ読んでは涙ぐみ、そして涙を拭えば次のメールでまた涙ぐむ。ヴァージンは、時が経つのも忘れかけるほど、彼女自身を支えてくれるメッセージに見入った。ヴァージンは、一つ一つのメッセージに返信せず、いくつもの宛先にまとめて「支えてくれてありがとう」とだけ言葉を返しつつ、全てのメッセージに目を通した。
そして、名前をよく知る二人だけメッセージを未読にして残し、それ以外に未読がなくなったのを確認してから、まず「アーヴィング・イリス」と書かれたメールに手を伸ばした。
(イリス君……。リバーフロー小学校で一緒に走った、陸上選手を目指す男の子……)
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ヴァージン・グランフィールド先生、お元気ですか。
3年前、学校のみんなと一緒に走ったことを、今でも忘れられません。今は、オメガ南部のケルビスという街で、中学校の陸上部に入っています。この前100mで、全国の中学生で3位に入りました!
先生が来てくれた日から、テレビで女子5000mとか10000mの放送があると、先生が映っていないか気になって必ず見るようにしていて、先生の姿がテレビに映ると、それだけで勇気がもらえるような気がします。
先生が守り続けてきた世界記録は、あっさりとウォーレット選手に追い越されてしまいました。それでも、ウォーレット選手を懸命に追い続ける先生の姿に、思わず「頑張れ!」って声を上げました。それから先生が、その世界記録の壁に跳ね返され続けても、僕はレース中声が嗄れるまで、今まで以上に先生を応援し続けています。
走り、そして挑み続けることへの夢や希望を、その力強い足は持っていると思います。だから、先生。次こそ世界記録を上回ってください。
アーヴィング・イリス
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(イリス君……。勇気や希望を、私は与えた……。他のメールよりも、気持ちが伝わってくる……)
ヴァージンは、ついに膝の上にまで涙をこぼした。その涙の向こうに、3年前ヴァージンに本気で挑んだ彼の表情がはっきりと思い浮かぶ。
(私はまだ……、終わってなんかいない……。ここで立ち止まったら、本当に勇気や希望を失ってしまう……)
そう誓って、ヴァージンは最後の未読メールに手を伸ばした。それは、幻の世界記録を出したメリアムだった。
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グランフィールド、久しぶり。
私は、まだドーピングの制裁が解除されていないけど、毎日5000mを走り続けている。
図られたようにサプリメントを飲まされた自分が、やっぱり許せなくて。
レースに出られないのに、それでもタイムは14分11秒ぐらいまで伸ばしている。
最近、グランフィールドがタイムも気力も落ち込んでいるような気がするし、私だって勝負がしたい。だから、郊外の陸上競技場を借りて、二人だけでレースをしない?
グランフィールドがその気なら、私も本気で挑むから。
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(メリアムさんと……、一緒に走れるなんて!)
目にたまった涙の先には、メリアムの姿があった。ヴァージンはすぐに、「お願いします」と返した。