第37話 アスリートに限界なんてものはない(3)
女子10000m決勝から2日後、女子5000mの予選が行われ、ヴァージンは予選2組をギリギリ1位で通過した。だが、予選とは言えタイムは15分台、しかもメドゥとヒーストン以外に目立ったライバルが出てこない中にあって、ヴァージンのタイムはこれまでとは全く別人のようだった。
(走りたい……。そして、走るための力が欲しい……)
当たり前のようにあった「次の世界記録」が消えた今、ヴァージンは闇雲にその「力」を探すしかなかったが、それを見つけることなく、5000m決勝の日を迎えてしまった。
「グランフィールド、あまりいい走りを見せられなくなったみたいだけど……、大丈夫?」
決勝の号砲が鳴るまで1時間を切ったロッカールームで、ヴァージンはヒーストンとばったり出会った。既にレーシングウェアを身に着けていたヒーストンは、ヴァージンを下から見上げるように覗いていた。
心配そうな表情を浮かべているヒーストンに、ヴァージンは首を小さく縦に振って答えた。
「大丈夫です……。私は、これ以上ショックを引きずりたくないですから……」
「そうグランフィールドがやせ我慢を見せているところ、私はすごく心配。レース前まで引っ張ってるし……」
「やっぱり……、私はそう思われてしまいますね……」
ヴァージンは、ヒーストンに見えないようにため息をついた。それすらもヒーストンには気付かれてしまった。
「気持ちは分かるけど、モチベーションが上がらないアスリートは、ただの人間としか思われない。グランフィールドは誰もが認める、女子陸上選手のスターなんだから、そこで評価を落としてはいけないと思う」
「そうですね……。私は、この5000mを走っている間だけは、真面目に戦わないといけないです……」
そう力強く言おうとしたヴァージンの言葉に、普段見せるような力強さはなかった。ヴァージンがもがいている様子を、遠くからメドゥが見つめているのが、ほんの1秒だけヴァージンの瞳に焼き付いた。
(ダメだ……。私、本番を前にして弱気な自分を見せている……)
ヴァージンは、バッグからレース用の「マックスチャレンジャー」と、アメジスタ国旗の3色を使った、エクスパフォーマの新しいレーシングトップスを取り出した。
(私は……、戦うしかない……。どんなことがあっても、本番で実力を出すのがアスリートなんだから……)
ヴァージンはシューズでロッカールームの床を軽く踏みしめ、やや早足でサブトラックへと向かった。それでも、ヴァージンの体に闘志が燃え上がるような感触はなかった。
「On Your Marks……」
世界記録が更新されることのない、これまでと比べれば注目度が相当落ちたレースが始まろうとしていた。少なくとも世界最速から陥落する前はいくつも掲げられていた横断幕が、このレースでは一つも見当たらなかった。ヴァージンの名を呼ぶ声もなかった。
(私は、これ以上潰されたくない……。今の実力なら、私しか優勝候補がいないはずなのに……)
この時のヴァージンには、ただ一つだけ目標があった。それは、これまで一度も手にしたことのない、ビッグタイトルでの5000mの金メダル。オリンピック1回、そして世界競技会は4回とも、ヴァージンは全て敗れている。昨年のオリンピックで、マックァイヤにそのことを言われた悔しさは、彼女の中で未だに残っていた。
「よし……」
ヴァージンは小さくそう言い、うなずいた。その瞬間、ヴァージンの運命を決める5000mのレースが始まった。
(私は……、前に出ていくしかない……!)
ヴァージンは、トレーニングで身に着けてきたラップ69秒のペースで足をトラックに叩きつける。一歩、また一歩と、これまで何度も取り続けてきたストライドで、ヴァージンはメドゥやヒーストンよりも前に出た。
(とにかく、自分のできる限りの走りを見せること……。レースに挑む身として、最低限それだけは……)
最初の1周を69秒で走り切り、それを2周、3周と重ねていく。ヒーストンやメドゥもヴァージンのペースについていこうとしていたようだが、徐々に足音が小さくなっていく。ガルディエールの言っていたように、今の女子5000mでは、実力を考えれば完全にヴァージンの独走状態だった。
だが2周、3周とレースが過ぎ去るうちに、足が少しずつ前に押し出す力がなくなっているように、ヴァージンは感じ始めていた。これまでのレースなら、ウォーレットに挑もうとする力が、体から湧き出していた。だが、前に誰もいない状況はトレーニングと同じで、意識したスピードを出すことしかできない。
ヴァージンは、不安だった。そして、その不安がラップを重ねるごとに、徐々にその体を蝕み始めた。
(なんか……、気持ちよく走れない……。足が悲鳴を上げているわけじゃないのに……)
2600mを過ぎたとき、ヴァージンは首を横に振り、自らを奮い立たせた。残り約半分、少なくとも走り終えるまではレースに集中していたかった。
だが、彼女の不安はそれを待たずに襲い掛かる。3000mで記録計に8分38秒という数字が刻まれるのを見た瞬間、ヴァージンは思い出したかのように、頭の中でこう問いかけてしまった。
――このまま走り続けても、私には何も目標がない……。目指すものがない……。あるのは、周りから当たり前とされた優勝だけ……。
ライバルを追い抜くこともできなければ、世界記録の壁に挑むこともできない。この2週間、ヴァージンには目標というものが全く存在しなかった。レースに出ることだけが、ヴァージンをここまで動かしていた。だが、出たところで、そこで何をしたいのかも分からなかった。無心に走るしかなかった。
本気で走ったところで、その先にヴァージンが掴めるものは何もなかった。
(そんなこと、考えちゃいけないのに……)
ヴァージンは、叫ぶようなトーンで、弱気の自分自身に声をかけようとした。だが、一度弱音を吐いた心に、体全体が正直に反応していく。ストライドが徐々に小さくなり、「マックスチャレンジャー」から力を感じられなくなる。そして、ついに体全体が重くなったようにも感じたのだった。
(完全に、ペースダウンしている……。普通に行けば優勝できるはずなのに……)
背後から、一度は引き離したはずのヒーストンやメドゥの足音が聞こえてくる。そこだけは何としても守らないといけないラインだったが、ヴァージンが足を奮い立たせようとしても力が入っていかない。ラップ70秒どころか、体感的にラップ72秒まで落ちたその体は、4000mに入る直前であっさりと二人に抜かされてしまった。
(勝負はここから……。私は残り1000mで、いつも本気の走りを見せてきた……)
ヴァージンは、もがき苦しむ自分を打ち破ろうと、右足を大きく前に出し、ペースを取り戻そうとした。それでも、その強いはずの意志に、次の一歩すらついていかなかった。それどころか、突然のペースアップに、右足が悲鳴を上げた。
(追いつくことすら……、私の足はできなくなっている……。レース中にあってはいけないはずなのに……)
一気に上がっていくはずのスピードは、この日のヴァージンにはなかった。前の二人に追いつくどころか、最後の1000mで10m以上引き離され、そのままヴァージンはゴールラインを通り過ぎた。
(終わってしまった……)
14分38秒89、3位。ヴァージンの実力を考えれば最悪と言っていい結果に、トラックの内側に入ると首を激しく横に振った。このレースの、この世界競技会の何もかもを忘れたかった。レースに出るたびに、一つ、また一つと何かを失っていくように思えてならなかった。
(私は、目標を見失った……。目標が消えて、自分の走る意味すら失っている……)
アメジスタの人々を勇気づけるために――世界に飛び立つ力となったその目標しか、今の彼女にはなかった。それが最後の目標だった。それでも、世界記録という過去の栄光を失い、それ以外に走る目的をも失ったいま、彼女をアメジスタのために動かす力は、もうどこにもなかった。
ヴァージンがしばらく呆然と立ち尽くすと、久しぶりに優勝を果たしたメドゥが、まるでヴァージンを心配するような表情で近づいた。少なくとも、勝利した時の喜びをその顔から感じることはできなかった。
「メドゥさん……。おめでとうございます……」
先に小声で言ったヴァージンに、メドゥは抱きしめることもせず、こう短く告げた。
「私の見てきたヴァージンは、もっと勇敢だった。世界記録に挑む姿こそ、ヴァージンだったはずなのに……、今日の走りに、その面影すら感じられない……」
(メドゥさん……)
そう言い残して立ち去った大先輩を、ヴァージンは遠目で見るしかなかった。その背中もまた、遠くなっていくように感じた。
(私だって……、目標さえあれば本気になれるはずなのに……!)