第37話 アスリートに限界なんてものはない(2)
ガルディエールから国際陸上機構の決定事項を告げられたヴァージンは、自宅のドアを閉めた瞬間、玄関で泣き崩れた。落ち込んだ表情を誰にも見せないように街を歩き続け、それでも涙がこぼれそうで、ヴァージンは泣く以外の全てのことを考えることができなかった。
(私は、これからどうすればいいの……。何を目標にすればいいの……)
あと少しで、再び自らの手に取り戻せるはずの世界記録は、二度と更新されないようにされてしまった。そして、いまその世界記録を持っているライバルも、ドーピングに手を染めてまで世界記録を狙おうとしたライバルも、しばらくトラックに戻ってくることはない。
(ガルディエールさんの言う通り、今の私は間違いなく優勝するはずなのに……、それでいいんだろうか……)
ヴァージンの前から、目標としていたものが何もかも消えていった。そして、ヴァージンは一人、真っ白な空間に取り残されたように感じた。自宅の玄関にいるはずなのに、無の世界をさまよっているかのようだ。
(こんなんじゃ……、モチベーションが上がらない……。トラックに立っても本気になれない……)
世界競技会まで、残された時間は2週間ほどしかない。今こうして立ち止まってしまう時間など、ヴァージンにとってはないに等しかった。だが、次の一歩を踏み出す勇気すら、ヴァージンにはなかった。少なくとも、この落ち込んだ状態で本番を迎えれば、久しぶりの予選敗退もあり得るところまで来ていた。
(こんなんじゃダメだ……。気持ちを落ち着かせないと……、私は本当に走れなくなる……)
ヴァージンは、四つん這いになってリビングに向かった。やっとの思いで椅子に座り、無意識にテレビをつけた。しかし、そこに待っていたのは、見たくもなかった名前だった。
(国際陸上機構……、デゲール会長……)
ちょうど、スポーツニュースの特集をやっている時間にぶつかってしまったようだ。しかも、女子5000mの世界記録見直しのニュースをやっていて、デゲール会長の会見の模様が流れていた。
――陸上選手は、己の実力の中で、ベストな状態を維持できるか。それに全てがかかっています。選手の体に過度な負担をかけたり、選手のバイオリズムを無視したようなフォーム改造をしたり、勿論これは論外ですが、薬物に手を染めたり……。過度と言わざるを得ない競争と、人間らしさを無視した記録の向上。私たちは、女子5000mという種目に蔓延する病理が取り除かれるまで、世界記録を永遠に停止することといたしました。
(言ってしまった……)
中身を聞かされていたとは言え、ヴァージンは聞きたくもない言葉を完全に聞いてしまった。アナウンサーが現在の世界記録と、それを出した選手のいまを伝えているが、ヴァージンの視界は再び真っ白になりつつあった。
(私は……、ちゃんと走って……、世界記録を出し続けてきたのに……)
ヴァージンの手がリモコンを叩き、テレビのスイッチは切られた。この状況下でネットのニュースも見たくなかったが、今のヴァージンを落ち着かせるのはパソコンしかなかった。
(メールが1件届いている……。あれ、アルデモードさんだ……)
ここ最近、メールの届かなかったアルデモードから、久しぶりにメッセージが届いた。ヴァージンは「アメジスタのスーパーアスリート ヴァージンへ」と書かれた件名をクリックし、飛び出してくるメッセージを待った。
だが、それもヴァージンの心を落ち着かせることはなかった。
――残念すぎるよ。世界記録を出す瞬間が、君が一番輝くときだというのに、残念すぎるよ。
メールは、そこで終わっていた。アメジスタの実家にいた頃から長い文章をヴァージンに届けていたアルデモードですら、今回のニュースでは、慰めるどころか、何も言うことができなかった。
(世界記録を失って、世界記録が永遠に更新されないと知ったいま……、私は何を目標にすればいいの……)
ヴァージンは、目標を見失うことを再び嘆いた。そこから先に気持ちを進めることができなかった。
だが、心の落ち着かないヴァージンは、この時初めて、別の悩みでも心が揺れ動いていることに気が付いた。
(ガルディエールさん……、私があの時一生懸命抵抗したのに、何もしてくれない……。この前ドーピングを疑われたときは、記者会見をアドバイスしてくれたし、会場も段取りも全部やってくれたはずなのに……)
代理人でさえ、国際陸上機構には逆らえないのだろうか、とヴァージンは思うしかなかった。ヴァージンの8年におよぶ競技生活の中で、今まで一度も国際陸上機構に異議を唱えた選手を見たことがないくらい、機構の存在は絶対的であるかのように思えた。
(国際陸上機構に逆らえば、もしかしたら私、それだけで資格停止になるかも知れない……)
メリアムを資格停止にしたのも、またその前に無理やり検査室に連れて行ったのも国際陸上機構だった。国際陸上機構は、何か目を光らせるとその選手を追い出すまで徹底的に追求し始める。そうヴァージンには思えた。
(もしかしたら、メリアムさんと同じように、私を追い出そうとしているのかもしれない……。もし国際陸上機構から追い出されたら、私はもうライバルと戦えなくなる)
ヴァージンは、そこまで考えて天井を見上げた。移り住んで2年になる家の天井は、ところどころ黒ずんで見えた。その黒ずんだ場所に、何か裏があるように思うしかなかった。
(とにかく……、何もかもがおかしい……。うまく出来過ぎているような気がする……)
ヴァージンが世界記録を失った瞬間、何の前触れもなくライバルメーカーのマックァイヤがヴァージンの前に現れた。メリアムが世界記録を出した瞬間、メリアムにドーピング検査が入り、すぐにサプリメントを送られた人の一覧が出てきて、エクスパフォーマの3人がドーピングを疑われた。そして、ウォーレットが世界記録を出して倒れた瞬間、ウォーレットの世界記録をそれ以上更新できないようにした。
一つ一つは独立しており、その中で結論が出ている。だが、国際陸上機構やウォーレットの世界記録樹立といった共通項が、一つ、また一つと出てきていた。それらが全て合わさっていくような空気が、今の女子5000mには流れているように思えた。
(私は……、追い出されたくなんかない……。ここまで一生懸命やってきたのに……)
それから2週間、ヴァージンはトレーニングでもほとんどよい結果を出すことなく、ボルケニア王国・ストーンリッチでの世界競技会本番を迎えてしまった。ウォーレットのいない世界競技会で、ヴァージンは女子長距離走の注目選手として報じられてはいたが、そこには「世界記録を取り戻す」などといった、ヴァージンが何度も口にしてきた意思がまるまる削り取られていた。
(彼女にとって、目指すは優勝。それ以上もそれ以下もない……)
ポスターを心の中で読み上げるなり、ヴァージンはその足から力が抜けていくような気がした。走っていないにもかかわらず、肩で呼吸をしかけるようになった。後ろから観客がヴァージンの名を呼ぶが、会場に着いてもモチベーションを上げられないヴァージンに微笑み返す余裕はなかった。
(レースに集中しよう……。最悪の走りを見せてしまえば、本当に私までダメになったと言われてしまう……)
「結果として」女子長距離走の世界女王に返り咲いたヴァージンは、レースを前にしてもがき苦しんでいた。
世界最高峰のレースは、時間とともに始まった。だが、トラックの上に立ったヴァージンに、これまで見せてきたような力はなかった。10000mでは序盤にラップ73秒から74秒でレースを引っ張るも、無意識のうちにストライドが短くなり、ヒーストンやエクスタリア、サウスベストに軽く次々と追い抜かれる。5000mを過ぎたときには先頭のヒーストンから80mも差をつけられ、その差を縮めることすらヴァージンにはできなかった。
結果、32分37秒26と最悪のタイムで10000mを走り切ったヴァージンは、出場選手16人中14位に沈んだ。
(足が前に進まない……。抜かれた瞬間、誰に追いついていいのかも分からなくなってる……)
ライバルを追い抜くことで勝利を得られるトラック競技で、ヴァージンは致命的とも言っていいほど自分自身を見失っていた。次の5000mで全てを出そうと心の片隅で言い聞かせても、そのショックの原因になっている種目なだけに、気持ちを切り替えることも難しかった。そうかと言って、ヴァージンがレースを棄権すればエクスパフォーマから契約を打ち切られるかもしれなかった。
(私は、完全に板挟みになっている……。自分の走りをしたいのに……)
ヴァージンは、首を何度も横に振って、2日後に女子5000mの予選が待つスタジアムを後にした。