第37話 アスリートに限界なんてものはない(1)
国際陸上機構が世界記録の規制に乗り出す――衝撃的なニュースは、半日も経たないうちに、多くの陸上選手の知るところとなった。それを知った夜、ヴァージンは灯りを消して3時間、寝付くことができなかった。
翌朝、マゼラウスと約束した時間ギリギリにトレーニングに向かうヴァージンの足は、傍から見るまでもなく重かった。普段軽やかにトラックを駆けるその足を、何とかその目的地まで向かわせるのがやっとなほどだ。
(あのニュースを見てから、元気が出てこない……。トレーニングに入ってもモチベーションが上がらなかったら、今日は帰ったほうがいいかも知れない……)
ヴァージンがため息をつこうとしたその時、その耳は何度も聞いたことのある足音をはっきりと感じた。反射的に後ろを振り向くと、やや早足でトレーニングセンターに向かっているヒーストンと目が合った。
「おはよう、グランフィールド。珍しく遅刻なの?」
「ヒーストンさんも……、もしかして遅刻ですか?」
「そうね……。朝、珍しく二度寝して……、歩いたら間に合わないくらいの時間に家を出てきた」
その言葉とは裏腹に、ヒーストンはヴァージンの真横で立ち止まった。懸命に前に進もうとしているヴァージンに歩幅を合わせ、じっと彼女の顔を見つめていた。
「それにしても、女子5000mの選手、とくにグランフィールドには最悪の展開になってしまったみたいね……」
「ヒーストンさんも出てるじゃないですか。あのニュースを見たんですか……?」
「テレビでそれが流れた瞬間、コーチも代理人もそのことを話してきた。でも、そこまで大ごとにしてなかった」
ヒーストンは、その話題をしているにも関わらず安堵の表情を浮かべていた。決して深刻そうに捉えている様子ではなく、ヒーストンはひたすら平静を装っていた。
「大ごとじゃないって……。私にとっては、ものすごくショックな話です……」
「そんなの、国際陸上機構の理事会で反対されるに決まってるじゃない。会長だか誰だかが言ったか知らないけど、トラックの上で走り続ける選手のことを無視したような提案、誰も受け入れないと思う」
ヒーストンがさらりと言い切ると、ようやくヴァージンの足も重くなくなったように思えてきた。
「言われてみればそうですよね……。まだ決まったわけじゃないし、少なくとも私たちの誰もがおかしいと思っているような提案なんて、きっと消えるはずですよ」
「ルールにならないことだけを、願うだけね……。グランフィールドが、また女子5000mの世界最速に立つところ、私はすぐにでも見てみたい」
「ありがとうございます……。自己ベスト更新したばかりだし、8月の世界競技会では絶対記録狙いますから」
その日のトレーニングは、朝の懈怠感がなかったかのように、ヴァージンは自己ベストに迫る14分09秒37のタイムを出した。さらに明くる日には、世界競技会で今シーズン初めて走ることになる10000mを30分台前半と、ヒーストンのベストタイムとほぼ同じタイムで走り切ることができた。
(なんか、あの時心配したことって、何だったんだろう……。夢の中でニュースでも見てたのかも知れない)
ヴァージンは、バッグを肩に掛け、西日の差すトレーニングセンターを後にした。すると、出口にガルディエールが立っていた。
「ガルディエールさん……。もうトレーニングが終わって、今から帰るところです」
「ちょっと話がある。あまり他の選手のいるところじゃよくないから、駐車場の端で話そう」
そう言うと、ガルディエールはヴァージンを手招きし、広い駐車場の最も端へと連れて行った。
(なに……、ガルディエールさんがそこまで内緒の話をするなんて思えないのに……)
ガルディエールの表情は、代理人契約を結んでからほとんど見たことがないほど、硬かった。ヴァージンに対して怒っている気配も、また褒める気配も感じられない。ただひたすら、何かを告げなければならない使命感だけが、ガルディエールの表情からにじみ出ていた。
やがてガルディエールの足が止まり、トレーニングセンターのトラックをじっと見つめながら、短めに言った。
「女子5000mの世界記録は、もう終わりだ……。これ以上速くなることはない」
「えっ……。ちょ……、ちょっと……、ガルディエールさん……?もしかして、あのニュースの話ですか?」
「鋭いね、君は……。世界記録って聞いただけで、アンテナが反応するのは、君の悪い癖なのかもしれない」
ガルディエールはヴァージンにそう返すも、表情一つ変えなかった。
「気になります。だって、あんな提案が決まったら……、私、目標を失ってしまいますから」
「それが、さっき理事会で決まったんだよ。この前のウォーレットの記録を、女子5000mの世界記録の天井にすることが。だからもう、このタイムより世界記録が伸びることはない」
「本当ですか……?本当に、そうなっちゃうんですか……!」
ヴァージンは、崖から突き落とされたように、足に力が入らなくなった。思い切り体を震わせ、ガルディエールに詰め寄るしかできなかった。人目につかない場所で、ヴァージンは声を荒げ始めていた。
「代理人の私が、君に嘘をつくわけがないだろう。そのことだけを、私は君に伝えたいんだ」
14分04秒48――ウォーレットが膝の怪我を抱えてまで叩き出した記録が、永遠に破られない女子5000mの世界記録になる。ヴァージンが考えたくもなかった結果が、現実になってしまった。それでも、ヴァージンはその現実に懸命に抵抗した。
「おかしいじゃないですか……。ガルディエールさんだって、おかしいと思いませんか……」
「決まったことだよ。国際陸上機構が決めたルールに、選手は従うしかないからね……」
(どうして……っ!)
ヴァージンは、完全に足の力を失って、駐車場に崩れ落ちた。右の拳を、アスファルトに叩きつけても、痛みすら感じなかった。ガルディエールに何も言うことができず、ヴァージンはその場で涙を見せるしかなかった。
「まぁ、君がそこまで悔しがる気持ちは分かるよ。ただ、理由はただ単に記録が伸びすぎているからじゃないということだけは、知って欲しいんだ」
「じゃあ……、何が理由って言うんですか……」
「それは……」
ガルディエールが、にらみつけるような目でヴァージンを見下ろす。何とか顔を上げたヴァージンだったが、ガルディエールの目を3秒見続けることができず、再び目線を地面へと落とした。
ヴァージンのため息が静寂を切り裂いた後、ようやくガルディエールの口が開いた。
「理由は、女子5000mが世界記録を更新することだけの種目になってしまったことだ」
「そんなことないです……。私は走ってて楽しいですし……、記録だけが全てじゃないと思っていません……」
ヴァージンは、涙声のままそう言った。だが、ガルディエールはその上から強く言った。
「それは、世界記録が当たり前だった君の思い込みだよ」
「思い込み……」
ヴァージンは、そこまで言いかけて言葉を止めた。首を横に振るだけで、それ以上何も言えない。
「みな、世界記録を取ることだけを考えるようになってしまった。その結果、ドーピングを試みて、見せかけのタイムを出したり、無理のあるフォーム改造で、世界記録と引き換えにその後の選手生命を犠牲にしたりするような選手が現れたことは、君が一番よく分かっているだろう」
「はい……」
「だからこそ、国際陸上機構は選手の安全を第一に取ったんだ。これ以上、世界記録にだけ目を向けて、アスリートを犠牲にするわけにはいかないからね……。いくら君が世界記録を狙いたいと言っても、君自身までもが選手生命を台無しにしたら、女子長距離界は本当に沈んでしまう……」
「そうですか……」
ヴァージンは、力なくそう言った。そして、再び拳をアスファルトに叩きつけた。
(世界記録を叩き出して……、ライバルたちをそうさせてしまったのは、私なのかもしれない……)
ガルディエールの告げた言葉が、ヴァージンの脳裏で何度か繰り返される。彼はヴァージンに明言しなかったが、遠回しにそのことを口にしているようにヴァージンには思えて仕方なかった。ヴァージンは、世界記録を出した時の達成感ではなく、深い罪悪感さえ覚えていた。
「そうなった以上、君はもう世界記録を考えないほうがいい。そうしたら、また気持ちも落ち着いてくる」
「私の気持ちが……、落ち着くわけないじゃないですか……」
ヴァージンは、ようやく目をガルディエールに向け、力いっぱい歯をきしませた。だが、ガルディエールは目を向けてきたヴァージンにはっきりと言いきった。
「とりあえず、君は優勝の回数を重ねよう。君にはもう、ヒーストン以外に敵はいないのだから」
「そうですか……」
ヴァージンは、言い返す力もなかった。こぼれるため息だけが、駐車場に溢れかえっていた。