第36話 追いつけなかったウォーレットの背中(5)
サイクロシティのスタジアムを包み込んだ歓声は、わずか1秒で悲鳴に変わった。ゴールラインを通り過ぎた瞬間、ウォーレットが膝から倒れこんで、苦しそうな表情を見せたのだった。
(いったい……、何が起こったの……)
ついに追いつけなかった宿敵の表情は、ゴールを駆け抜けたヴァージンの目には、血が走っているようにさえ見える。立つことはおろか、起き上がることもできず、ウォーレットは目を何度もつぶるしかなかった。駆け付けたスタッフの手によって、トラックの内側に向けて体をうつ伏せから仰向けにされていく。
(あの時……、ウォーレットさんが何かにつまずいたようには見えなかった……。ゴールの瞬間まで体を必死で耐え抜いて、ゴールでとうとう爆発してしまったようにしか見えない……)
ヴァージンは、普段からそうするように「優勝した」ウォーレットのもとへと体を向けた。だが、ウォーレットの周りには大勢のスタッフが集まっており、ヴァージンがその中に割って入れるような雰囲気ではなかった。ただ一つ、ヴァージンに見えたのは、ウォーレットが懸命に右膝をかばっている姿しかなかった。
「ウォーレットさん……、大丈夫ですか……!」
ヴァージンは、無意識にそう呼び掛けたが、ウォーレットの耳に伝わらない。ウォーレットは、右足を見ながら上半身を激しく揺さぶった。それがかえって、右膝の痛みを加速させているように、ヴァージンには思えた。
「とりあえず、担架を……。おそらく、救急搬送することになるだろう……」
トラック上に選手がいなくなったのを確かめ、スタッフが担架をウォーレットのもとへと運んでいく。スタッフたちの人だかりに、このレースでウォーレットとともに戦ったライバルたちがその周囲を取り囲んでいた。
(ウォーレットさん……。本当に、私に勝ったウォーレットさんなの……?)
ヴァージンの目に、突然涙が襲った。かつて二回もトラックの上に倒れたヴァージンですら、そこまで辛そうな表情を浮かべなかったように思えた。それだけ、ウォーレットの怪我が重すぎるように見えた。
(ここで……、ここでウォーレットさんが離脱するの……、私には受け入れられない……)
ヴァージンは、右手で涙をぬぐったが、それでも担架に載せられていくウォーレットをクリアな瞳で見ることはできなかった。涙声で何も言えないまま、ウォーレットが、一歩、また一歩とヴァージンから離れていく。
(追いつきたかったのに……)
その時、わずかな時間だけ我に返ったヴァージンは、記録計を見た。そこには、14分04秒48という、失格になったメリアムを除けば、未だ見たことのない数字が輝いていた。そして、その横には「WR」という文字……。
それらを叩き出した、このレースの英雄は、もうトラックの上にはいない。チュータニアの国旗をその手に掲げることもできない。ただひたすら、時がこの張り詰めた空気を元に戻していくのを待つしかなかった。
(これほどまで、世界記録を出した瞬間が悲しかったことって……、私にだってないかもしれない……)
「まさかだったな、ヴァージン。客席からでは詳しくは分からないが、最後の1周、スピードだけは保ったままでずっと苦しんでいたように、私には見えた」
着替えを済ませて、選手出入口から外周道路に出ると、そこにはマゼラウスが立っていた。マゼラウスも、ウォーレットの突然の怪我に、体を震わせているように見えた。
「やっぱり、コーチもショックを受けたみたいですね……」
「勿論だ。だが、お前の目には、それが私の何倍、いや何十倍もショックに見えて仕方なかっただろう」
「はい……。ここまで一緒に戦ってきたはずの……、私のライバルが……、世界記録だけを残して行ってしまうなんて……、信じることができないんです……」
ヴァージンは、トラックの上ではそこまで泣くことができなかったが、マゼラウスを前にしてついに泣き出してしまった。もはや、マゼラウスの表情を伺うこともできないほど、ヴァージンの目は荒れていた。
「そうだよな……。せめて、世界記録だけは奪い返していれば、まだショックは小さかったかもしれないが」
「たしかに……。そうですね……」
完全に湿った右腕で、ヴァージンはまだ涙を拭っていた。少しずつ涙の量は減っているものの、次に頭の中でウォーレットの表情を思い浮かべれば、再び泣き出してしまうかもしれないという恐怖が、彼女にはあった。
「おそらく、あそこまで苦しむということは、ただの右足の肉離れではなさそうだ。叫ぶような表情で倒れこんだところを見ると、おそらくは膝から脛にかけての骨折だろう……。医師の診断を待たないといけないが」
「骨折……。レース前のウォーレットさんには全然感じられなかったのに……」
「勝負に挑む前から、ウォーレットが弱気になるわけがない。お前だってそうだろう。きっと、長いことたまっていた疲労を、他の部分で抑え込んでいたのかもしれない。それが、抑えられなくなった……」
そこまで言って、マゼラウスは深いため息をついた。それがいかに重い怪我かが、マゼラウスを見つめるヴァージンにも、声にならない言葉で伝わってきた。
ヴァージンも、その場で立ち尽くしたまま、何も言えなかった。そして、しばらく時が流れ、次にその沈黙を破ったのはマゼラウスだった。
「ところで、ヴァージンよ。残されたお前は、これから誰に追いつき、追い抜こうとしているんだ」
(えっ……)
ヴァージンの頭の中が、その言葉を境に真っ白になった。突然、ショックから現実に戻されたようにしか思えなかった。ヴァージンには、一度首をひねったマゼラウスの表情が、この時だけはっきりと映った。
「もう、ウォーレットはしばらくレースに出られない。復帰しても、世界記録を狙えるようになるまでには数年はかかるだろうし、このままタイムを落としていくだけかもしれない。メリアムも、出場停止が解けるのは来年の秋だ。そうなった今、お前の前を走っていくのは、誰もいない……」
「いないですね……。ウォーレットさんとメリアムさんは、私をレース中本気にさせてくれる人です」
「個人種目のアスリートが、本来それではいけないんだがな。だが、トレーニングでいつも孤独なレースに挑んでいるお前は、やはりレースで誰かを追い続けるほうが、強そうに見える。事実、タイムだってそうだ」
「コーチ。そう言えば……、自分のタイムを見ていませんでした……」
ヴァージンは、その言葉でようやく思い出した。とても確認しに行けるような雰囲気になれず、掲示板から無意識に足を遠ざけていたのだった。
「お前は、もっと喜んでいいんだぞ。14分08秒73……、自己ベストを1秒近く上回った」
「もっと離されたかと思ってました……。08秒台って……、私にとっては初めての世界です……」
「そう。世界記録を奪われたとしても、それを再びウォーレットに破られても、お前はまだ止まってなんかない。少しでもその足を前に進めようとしている。5年も世界記録を手にしていたその全身が、執念を見せたんだ」
そう言うと、マゼラウスは一度うなずいた。ヴァージンからは、涙がすっかり消えていた。
「そうなると……、私が追いつかなきゃいけない存在は……、今日のウォーレットさん、そして世界記録……」
「それしかないだろ。13分台の前に、お前は14分04秒48という壁を超えなければいけない」
「超えます……。最後のスパートもうまくいければ……、すぐにでも超えることができるはずですから!」
その時、ヴァージンは遠目でマックァイヤが通り過ぎるのを見た。ヴァージンが二度会ったときには、冷たそうな表情を浮かべていたマックァイヤの表情は、この時は別人のように心の中で何かを燃やしているようだった。
(フラップと契約を結ぶウォーレットさんがあんなことになったのに……、何故ショックを見せないんだろう)
マックァイヤが、何にも動じない人物だからという見方もたしかにできた。だが、それを差し引いても、彼女の動きはどこか「危ない」ように思えた。
数日後、ウォーレットの怪我は重度の脛骨疲労骨折と発表された。痛めた場所は脛骨の中央部で、跳躍を伴うスポーツで発症することが多く、トラック競技での陸上選手には縁遠い怪我だった。だが、ウォーレットは、これまでのフォームを崩してまで、中距離走スタイルに変えたことで、足を目まぐるしく上げすぎて発症した、と彼女の担当医師は説明した。
(中距離走の走り方に変えないで、よかったのかもしれない……)
ヴァージンは、テレビにそのニュースが流れた途端、安堵の表情を浮かべた。マゼラウスに走りの方向性を尋ねられた時、彼女は自分のスタイルを貫いた。それが運命の分かれ道になった可能性さえあった。
天井を見上げると、ヴァージンは脳裏にうっすらと「WR」の文字を思い浮かべた。
(少しずつだけど、世界記録に近づいてきている……。今の私なら、必ず奪い返せる!)
そう心に決めたとき、ヴァージンは耳が一気に凍り付くような一言を、テレビから聞いた。
――女子5000mでは、危険な走法で世界記録を叩き出す選手が後を絶たないことから、国際陸上機構のデゲール会長は今日、世界記録の過当競争を規制する方針を打ち出しました。女子5000mの世界記録は、この5年で12回も更新されており、他の種目と比べても異常なほどの記録ラッシュが続いています。
(嘘でしょ……)
ヴァージンは、思わずテレビに見入った。すぐに他のニュースに変わったが、ヴァージンは体が凍り付いたように、その場に固まってしまった。