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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界記録の重み
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第36話 追いつけなかったウォーレットの背中(4)

――多くの陸上ファンが、この勝負を待っていた!完全一騎打ちレース、ウォーレットvsグランフィールド!

 青空が眩しいサイクロシティの空の下で、二人の女子陸上選手の姿が載ったポスターが輝いていた。そのポスターが3枚並んでいる掲示板の前で、ヴァージンは立ち止まった。

(今日こそ……、私は世界最速を奪い返してみせる……。本番では、きっとウォーレットさんより前に行ける)

 飛行機に乗る直前までトレーニングを重ねたものの、ウォーレットが前に走らないトレーニングセンターでは、ヴァージンは自己ベストに並ぶのがやっとだった。だが、オリンピックから試行錯誤し続けた「自分なりのペース」をようやく落ち着けることができたヴァージンは、かすかな期待を抱いていた。

 この日も、ヴァージンの目には、サブトラックで走るウォーレットの姿が飛び込んできた。だが、昨年秋のファーシティ選手権と比べると、ウォーレットを取り囲む報道陣の数は少なかった。ウォーレット自身が、オリンピックで世界記録を叩き出してから、その次を出せずにいた。レースでは、世界記録すれすれまでタイムを伸ばすものの、ヴァージンのように次々とそれをクリアする存在にはなりえていないのかもしれない。

(ウォーレットさんだって、私に勝ちたいから中距離走のフォームに変えたはず。だから、最近ウォーレットさんのタイムが伸びないからといって、一緒のトラックを走る今日、油断することはできない……)

 ヴァージンの目はウォーレットを軽く見つめ、それから何事もなかったように受付へと向かった。


「久しぶりね、グランフィールド。今日、一緒に走れると決まったとき、世界競技会よりも嬉しかった」

 集合場所に向かうなり、ウォーレットはダークブラウンの髪を輝かせながらヴァージンのもとに近づいた。

「私もです。今までウォーレットさんがいなかったので、なかなか本気で走ることができませんでした……」

「そうね……。そう言われるのも無理はないわ。ところで、グランフィールドはどれくらいで走るつもりかしら」

「それは勿論、14分04秒56……。0コンマ1秒でも世界記録を上回れば、私の勝ちです」

 ヴァージンは、やや目を細めながらウォーレットにそう告げた。すると、ウォーレットは軽く笑った。

「それは、私のほうが近いタイムだと思う。『ヘルモード』が、グランフィールドを見ると本気になるんだから」

「私のシューズだって、走っているときにそう感じます。どちらが速いか、楽しみになりました」

「こちらこそ」

 その時、二人の目にはスターターが号砲を持って歩く姿が飛び込み、スタートの様子を映すカメラも動き始めていた。ファーシティと同じように、ウォーレットの一つ右側のレーンに立ったヴァージンは、左目でウォーレットの姿を、最後に一度だけ見た。

「On Your Marks……」

 ヴァージンの胸が、わずかながら早く鼓動を始めた。追う立場になったヴァージンに、プレッシャーはなく、むしろ自信だけが彼女の心を支配していたのだった。

 世界最速を賭けた勝負が、いま始まる……。


 号砲とともに、やはりウォーレットが最も内側から前に飛び出していった。オリンピックでも、そしてファーシティでもヴァージンに見せつけた、ラップ68秒を切るか切らないかのペースが、ヴァージンの目の前に現れた。ウォーレットは、全く後ろを気にすることなく、じわじわと差をつけ始めている。

(でも、私は世界記録を奪われてから、新しいラップタイムを身に着けてきた……)

 ヴァージンの足も、この数ヵ月トレーニングで意識してきたラップ69秒のテンポで、トラックを蹴り上げていく。最初の1周で、オリンピックでは10mほどウォーレットにリードを許していたヴァージンは、何とか5m差にまで食らいつくことができた。もしこのままのペースで進めば、ラスト1000mでは50m差、行っても60m差と、十分にウォーレットをスパートで追い抜くことができる。ヴァージンはそう確信した。

(ウォーレットさんがペースを上げても……、今までのようにつられて速くなったりしない……。「マックスチャレンジャー」のパワーを最後まで温存すれば、絶対に追い越せるはず)

 そう強く心に決めたヴァージンに歩調を合わせるように、この日はシューズから解き放たれるパワーも、そこまでヴァージンを駆り立てることはなかった。決して、ここ最近見せてしまった「怯え」でもなかった。戦闘本能こそ高まっているようにヴァージンの足には感じ、そのパワーが解き放たれるときを待っているだけだった。

(自分なりの走りを続ければ……、きっと自分にいい結果が跳ね返ってくる……!)

 その間にも、ウォーレットはラップ68秒かそれをわずかに切るペースでトラックを駆け抜けていく。1000mで2分49秒、2000mで5分39秒、3000mで8分28秒と、オリンピックとほぼ同じようなタイムだった。一方のヴァージンは、3000mを8分37秒と、ラップ69秒のペースを本番で貫くことには成功していた。

(あとは、どこで勝負をしかけるか……)

 少しずつ、その差は広げられている。だが、ヴァージンが3600mにまで達したとき、ウォーレットとの差は予想の上限ともいうべき60mにとどまっていた。逆に言えば、ここでウォーレットに勝負を挑むことが、ヴァージンの勝利に絶対欠かせない状況になっている。

 「マックスチャレンジャー」の本能が、ヴァージンの足にかけるパワーを、一気に上げていくように感じた。

(足が、まだ軽い……。いま勝負すれば、シューズが悲鳴を上げることなく、レースを終わらせることができる)

 ヴァージンは、これまでよりもはるかに細い目でウォーレットを見つめた。そして、右足に力を入れた。

(私は、ウォーレットさんに勝つ!)


 3800mを通り過ぎる直線で、ヴァージンは一気に加速した。そのスピードアップを足音で感じたのか、ウォーレットもオリンピックの時と同様に、「ヘルモード」を滑らかに加速させ、4000mを11分17秒で通過していく。

(私は、ウォーレットさんのペースアップには、もう怯えない)

 あの日、異次元の力を見せつけられた瞬間、そのパワーが弱まった「マックスチャレンジャー」。だが、この日は逆にそのパワーが激しさを増しているように、ヴァージンには感じられた。ラップ67秒ほどのペースでも、十分に靴族にエアーが走り、それはヴァージンが得意としているはずのスパートへの助走になった。

(残り1000m……!)

 ヴァージンの4000m通過タイムは、11分29秒。スパートが成功し、何度も意識してきた「65・31・57」といったタイムをクリアできれば、世界記録を再び手にすることができる。一方のウォーレットは、滑らかにスピードを上げたとはいえ、ペースとしてはオリンピックとほぼ同じだ。

(ウォーレットさんは、世界記録をギリギリ縮めることができないと思う……。追い抜けば、私が……)

 最初の、ラップ65秒へのペースアップは、難なくクリアできたようにヴァージンには感じられた。60mあった差をわずか1周で10m以上縮め、ヴァージンは直線の先にウォーレットの背中をはっきりと感じた。レースが始まって一度も振り向かないウォーレットは、この時もまだ後ろを振り返らない。

(最後の1周までに40mぐらいの差になるはず……!)

 4400mのラインを過ぎ、ヴァージンはさらにペースを上げた。いよいよ、彼女の足にかかるパワーが最高潮に達した。ヴァージンは、ただ無心にウォーレットの背中と、その先に待っているはずの世界記録を追い続けた。かつて、何度も女子5000mの記録を打ち立ててきた世界女王の走りが、いまサイクロシティのトラックに蘇ったかのように、誰の目にも伝わった。

 追われるウォーレットの耳に、最後の1周を告げる鐘が響いたその時、ウォーレットの激しくにらみつける顔がヴァージンの目に飛び込んできた。そして、ウォーレットが体の重心を前に傾けるのが見えた。

(ウォーレットさんが、もっとペースを上げる……!)

 だが、ウォーレットの表情と同時にヴァージンが見たものは、ボロボロで今にもちぎれそうなウォーレットの足だった。オリンピックで鮮やかに世界記録を叩き出した時と比べると、その足に明らかに疲労が見えていた。「マックスチャレンジャー」を上回る性能を持つとされる、ウォーレットのシューズ「ヘルモード」が、何とか彼女のペースを維持させ、最後の勝負に駆り立てようとしていたのだった。

 それを見たヴァージンは、その足を奮い立たせてトップスピードにまでペースアップしようとした。

(……っ!)

 ハイスピードの勝負でボロボロになっていたのは、ヴァージンの足も同じだった。ラップ69秒をクリアしながら走り続けたとき、トレーニングでは一度もスパートを成功させることができなかった。この日も、最後の1段を上げることができない。

(あと少しで、ウォーレットさんに追いつくのに……!)

 ラップ60秒を切るはずの強い走りができない。ラップ62秒か63秒で止まってしまう。ヴァージンがもがき続けるうちに、シューズにかかるパワーも少しずつ弱まっていく。一方のウォーレットは、一見無理しながらも、ヴァージンを振り切るようなスピードで最後の直線に挑んだ。

 世界最速を取り戻そうと挑んだその脚は、ウォーレットまで残り30mのところで沈んだ。


 だが、次の瞬間、ヴァージンはゴールラインの上でよろける、これまでとは別人のようなウォーレットがいることに気付いた。

(ウォーレットさん……!)

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