第36話 追いつけなかったウォーレットの背中(3)
4月になり、ヴァージンにとっては世界記録奪還を目指すしかないアウトドアシーズンが始まった。10000mは世界競技会だけに絞り、まずはウォーレットの持つ14分04秒57を上回るタイムを、できるだけ早いうちに出さなければならなかった。
(このレースで……、私は世界最速に返り咲いてみせる……)
だが、ヴァージンの挑んだトラックが、彼女に喜びを与えることはなかった。4月のセルティブ・ラガシャ選手権では14分12秒83、5月のオメガ・リングフォレスト選手権では14分17秒99。そして、ヴァージン自身が初めて世界記録を手にしたスタジアム、ネルスではヒーストンにかわされて2位。そのタイムは14分18秒73と、ヴァージンの出した結果は、また一つウォーレットから遠ざかることになってしまった。
(タイムが出ない……)
ネルスでのレース後、メリアムの一件以降シャペロンの見る目がきつくなったドーピング検査を受けながら、ヴァージンは検査室の天井を見上げた。ヴァージン自身の潔白は証明されているはずなのに、未だに自分自身が不安になって仕方がなかった。だが、いくら思ったところで、叩き出したタイムは戻ってこなかった。
(これだけ一生懸命走っているのに、自己ベストすら更新できないなんて……)
この3レース、全てにおいてウォーレットが出場していなかった。それどころか、ヴァージンは今年に入ってウォーレットと会ってもいなかった。トップアスリートがそのことを理由にしてはいけないと分かっていながらも、ヴァージンに思い当たる理由がそれしか見つけられなかった。
(ウォーレットさんと同じトラックに立てば、私はもっと本気になれるのかもしれない……。少なくとも、今の私にはウォーレットさんの存在がなくてはならないのかもしれない……)
ヴァージンは一度小さく首を振り、検査室からロッカールームへと向かった。その時、ちょうど検査室に向かおうとしていたフラップのエグゼクティブマネージャー、ジェニス・マックァイヤの姿が彼女の目に飛び込んだ。
(こんなタイムだし、何言われるか分からない……)
ヴァージンは、表情を作ることなくマックァイヤをやり過ごすつもりだった。
だが、マックァイヤはヴァージンとすれ違った瞬間、突然ヴァージンに振り向き、冷ややかにこう言った。
「グランフィールドは、すっかり自信を失ってしまったように見えますね」
(私が一番言われたくないことを……、言われてしまった……)
ヴァージンも、やや遅れてマックァイヤに振り返り、二人の目が一直線ににらみ合っていた。その張り詰めた空気の中で、マックァイヤはさらに言葉を続けた。
「プレッシャーだけがひとりでに増えているようですね。あなたにとって、14分10秒というのは、それ以上破ることのできない壁ではないでしょうか」
「いま、それを破るために一生懸命頑張っています。必ず成果は出します」
「そう思うのでしたら、今日その壁を打ち砕いているはずでしたよね。あなたが世界記録を初めて叩き出したスタジアムなわけだし。いい加減、あなたの14分09秒62が壁だと、天井だと認めたらいいでしょう」
「そんなこと……、今まで世界記録を持ち続けてきた私が、認めるわけにはいきません!」
ヴァージンは、ついに声を荒げ始めた。ふつふつと湧き出てくる悔しさが、トラックではなく細い廊下でその体から溢れ始めていた。
「誰に対して怒っているのでしょう。自分を不安定にさせたら、出るはずの結果も出ないじゃないですか。その点、14分05秒の壁をクリアしたウォーレットは、あなたと真逆で、落ち着いてトレーニングをしています」
「ウォーレットさん……」
ヴァージンは、そこまでマックァイヤに言いかけて、口を閉ざした。言葉が思いつかないほど、ヴァージンは苛ついていた。それでもオリンピックの後、ロッカールームで立ち上がれないほど言葉を浴びせられたときと比べれば、まだヴァージンはマックァイヤに言い返すだけの勇気はあった。
「まぁ、今のあなたに世界記録を取り戻すことはまず不可能でしょう。この1年、自己ベストすら更新できないあなたにとって、ウォーレットとの5秒の差は到底縮められるものではありません。では」
そう言って、マックァイヤは検査室へと歩き出し、10秒も経たないうちに検査室へと吸い込まれていった。マックァイヤの姿が見えなくなると、ヴァージンは「マックスチャレンジャー」をやや強く、廊下に叩きつけた。
ヴァージンの強い気持ちが動かしたかは定かではないが、レース翌日の夜、ガルディエールからウォーレットの新たな情報が伝えられた。
「どうやら、7月のサイクロシティで、君とウォーレットがやっと直接対決するようだ。今度は本当だぞ」
「ありがとうございます……。ずっと、ウォーレットさんと一緒に走りたかったんで、嬉しいです」
サイクロシティは、一年を通じて温暖な気候に恵まれた島国、ブリージア共和国の首都だ。毎年夏になれば、世界各国からバカンスに多くの人が訪れる、まさに楽園と言うべき場所だった。その観光シーズンの幕開けとして、今年初めて大きな陸上競技大会が開かれるのだった。
「目指すべき世界最速がいない中で、なかなか本気を見せることができなかったわけだし……、今度こそ抜き返すチャンスだと私は思ってるよ」
「私だって、そう思ってます……。昨日だって、記録が伸びない私に、フラップのマックァイヤさんが冷たい言葉を浴びせてきましたから……、いつまでもこの場所で立ち止まってるわけにはいかないんです」
ヴァージンは、ウォーレットとマックァイヤの名前を思い出すたび、電話を持つ手が強くなっていくのを感じた。ヴァージンの目は、二人の素顔が代わる代わる映し出されたように感じた。
「なら、今日からでも動き出そう。私は、君にこそ世界記録が似合っていると思うよ」
そうガルディエールが締めくくって、電話は切れた。後にはヴァージンの解き放たれた表情だけが残った。
(世界記録……。そして13分台……。私が目指す場所は、そこなのだから……)
「14分09秒62……!ヴァージン、ついにお前自身の記録を取り戻したじゃないか!」
7月に入ったある日のこと、ラップ69秒を意識した5000mタイムトライアルで、マゼラウスが歓喜の声を上げた。その記録を聞いたとき、ヴァージンは思わず両手を上げ、疲れ切ったその足でマゼラウスに駆けていく。
「嬉しいです……。やっと……、スタートラインに戻ってこれたような気がします……」
「そうか……。世界記録は、まだまだ先にあるからな。ただ、トレーニングの誰もいないところでこのタイムを叩き出すのなら、本番ではもう少しタイムを上げることができるはずだ。お前ならな」
「はい」
ヴァージンがうなずくと、マゼラウスもほぼ同時にうなずき、それからこう告げた。
「あの時、お前が出した結論が正しい道であったか、私にはまだ分からない。お前が本番で13分台を叩き出せば、そこがひとまずのゴールになるはずだ。その時には、お前の結論が間違いだったと言うことはもうできない」
「つまり、中距離走の走りを取り入れるべきではなかったということですか……」
「そういうことだ。お前は、ウォーレットに比べたら持久力がそこまで高いわけではない。だが、スパートをかけて一気に攻め込んでいく機動力は、長距離選手の中でも最高レベルに近い。それを殺すわけにいかない」
「それが私の武器ですものね」
ヴァージンは、はっきりとマゼラウスにそう言った。自分自身の決めた道に、ほんの少しだけ自信を持った瞬間だった。
「ところで、話は変わるが、お前は最近大学に行ってないようだが……、大丈夫か」
その日のトレーニングを終える時、マゼラウスが突然ヴァージンに尋ねた。すると、ヴァージンは首を横に振りながら、普段通りのトーンの声で言った。
「悔しくて、もう大学どころじゃありません。あとは卒論だけですが……、シーズンオフに集中して作り上げるので、貧困社会学のハイドル教授に待ってもらってます」
「そうか……。4年で卒業ではなく、4年ちょっとで卒業するわけだな」
「そうですね……。私には本業がありますから、こんな本番が続く夏場に他のことに時間を使うわけにはいきません。教授も、私が陸上選手って知っているから、最初からそうなると決めていたみたいです」
「なるほどな……」
そう言うと、マゼラウスは軽く咳払いをして、それからヴァージンをじっと見つめた。
「去年の記者会見でもそう思ったが、お前はもう、完全にトップアスリートだ。実力だけではなく、生き方としてもな」
「ありがとうございます」
ヴァージンは、マゼラウスに大きくうなずいた。トレーニングやレースに夢中で気付かなかったが、アスリート「として」生きていることに、また気付かされたのだった。