第36話 追いつけなかったウォーレットの背中(2)
「イーストフェリル室内選手権に、ウォーレットさんが出るんですか……?」
1月に入り、この年初めてとなるレースが近づいてきた頃、代理人のガルディエールからヴァージンのもとに電話が入った。その内容に、ヴァージンは突然声のトーンを変えた。
「そうだ。ストレームが大会に申し込んでいるところを、私が見てしまったものだから……」
「じゃあ、それはもう確実な話じゃないですか……。インドアとは言え、ウォーレットさんを追い抜けるなんて」
「今日の君は、前向きだな。もし二人が同じトラックに立てば、君にとっては室内記録を守るため、そして新しい室内記録を叩き出すための一戦になるだろう……。もちろん、勝利と記録更新を願ってるよ」
「ありがとうございます……。もう、私はウォーレットさんに負けたくないですから……」
ヴァージンは、右手で電話を持ったまま、左手を丸めて力を入れた。
しかし、そのワクワク感は現地に着いた瞬間、半分以上消えてしまった。イーストフェリルの室内競技場に入るなり、待っていたかのようにガルディエールが近寄り、軽く頭を下げた。
「どうしたんですか、ガルディエールさん。こんなところまでやってきて……」
「早めに伝えなければならないと思って、待っていた。で、さっきストレームから電話が来たんだ……」
「ストレームさんから……。まさか、ウォーレットさんに……、何かあったとかですか……」
「いや、特別何かあったわけでもない。ただ、今回のレースは回避した」
「せっかく、室内記録を私と争うレースなのに、回避するなんて不思議です……」
ヴァージンは、ガルディエールにも見えるように小さくため息をついた。何とかモチベーションを落とさないように、遠くに見える選手たちの歩く姿を軽く見て、自分がこれからすべきことを思い出していた。
しばらく口を閉ざした後、ガルディエールはヴァージンにだけ聞こえるような声で、そっと告げた。
「実は、回避した理由は他でもない……。少し足が痛いと言っているようだ」
「足が痛い……。陸上選手にとって、足は生命線とも言える場所じゃないですか……」
ヴァージンは、唇を軽く開けたまま元に戻すことができなかった。足がかすかに震える。
「まぁ、そうだね。今はそこまで痛くもないみたいだし、タイムは好調を維持できているけど、君と本気で戦って痛みが再発するのだけは避けたいそうだ。きっと、アウトドアレースを見据えているだろうけど」
「分かりました……。ウォーレットさんのいない分、私がレースを引っ張ります」
「その意気込みだ……。ウォーレットがいない間に、室内記録を更新してしまおう」
二人の首が、同時に縦に振られた。そして、軽く握手を交わし、ヴァージンはベストタイムを誓った。
「On Your Marks……」
ヴァージンにとって最大のライバルがいないこの日のレースで、優勝を争うことになるのはヒーストンしかいなかった。ヒーストンが前半控えめに走れば、序盤のペースメーカーはヴァージンしかいなかった。
(できれば、アウトドアでのトレーニングで意識しているように、200mを34.5秒で進もう……)
インドアはアウトドアに比べれば記録が落ちると分かっていながらも、ヴァージンの足は夢を見据えていた。スタートラインの手前で力強く「マックスチャレンジャー」を踏みしめ、進むべき道をじっと見つめた。
(よし……)
号砲とともに、ヴァージンは前に飛び出していった。400mあたり69.5秒ではなく69秒を意識し、ヴァージンは着地のテンポを普段より短めに取った。最初のカーブで、体感的には69秒に達するが、それを体で感じたときには、既に次のカーブがヴァージンの目の前に現れていた。
(カーブでスピードを落とさないようにしなきゃ……)
体を傾けながらも、足だけはこれまでのテンポやストライドを保たなければならない。まだそこまで400mトラックを69秒で進み続けたことのない彼女にとって、二つの体の動きをコントロールすることは、難しかった。
さらに、スピードの調整をし過ぎれば、ヴァージンの足に負担になることも、ここ最近のレースではっきりと分かっていた。スピードを戻したくても、急に戻すこともできなかった。そして、感じ始める「怯え」……。
(気にしちゃいけない……。目の前の、残された距離に集中するしか、記録を破る道はない……)
シューズからパワーをもらい、ヴァージンは1000mを過ぎたあたりで400mあたり69秒のペースを取り戻した。それでも、1200m、1400mと周回を重ねていくうちに、少しずつそれが70秒に戻っていき、気が付けば70秒以上かけて走るようなスピードに落ちていた。
上がらないスピードに気付くのと同時に、ヒーストンの足音が背後から聞こえてきた。
(このまま、ヒーストンさんに負けてしまうわけにはいかない……)
ヴァージンは、カーブに差し掛かったときにほんのわずか後ろを見た。スピードを緩めてしまったヴァージンに、ヒーストンはぴったりついていた。その鼓動を、ヴァージンは首を横に振りかけながら感じた。
(自分の出せる限りのスピードに集中しなきゃ……)
400mで69秒のペースは、この時のヴァージンには厳しすぎた。心の中で強く意識することはなかったが、スピードアップの時に踏み出す右足は正直だった。2000mや3000mで、400mあたり69秒で進もうとすると、急にそれを抑えようとする。先頭を走る中で、自分自身と戦うことしかヴァージンの足にはできなかった。
(私は……、少しでもウォーレットさんに追いつきたいのに……!)
4000mまで残り1周となったとき、初めてヴァージンの足がスピードアップに積極的になった。そこで一気にスパートに向けて走り出したが、その時にはヴァージンの出せる結果はほとんど定まっていた。それでも、最後の600mでようやくヒーストンを振り切り、オリンピックから遠ざかっていた優勝だけは手にすることができた。
(14分22秒78……。やっぱり、私の足はラップ69秒からまだ遠いのかもしれない……)
ヴァージンは、優勝タイムを軽く見て首を横に振った。珍しく、彼女の足はまだ走り足りなかった。あと少し序盤のペースを意識できていれば、室内世界記録を上回ることができたかもしれないからだ。
(優勝はしたけど……。こんなタイムを出すために……、私はトレーニングをしたわけじゃない)
ヴァージンは、久しぶりの優勝を祝う声には答えたものの、時折浮かれていない表情になりそうだった。そのたびにヴァージンは、首を横に振って表情には出さなかったが、いつの間にか無意識のうちに表れてしまった。
イーストフェリル室内選手権から1週間が過ぎ、悔しさが少しずつ和らいできた。この日もまた、エクスパフォーマのトレーニングセンターで、ラップ69秒を意識した5000mのタイムトライアルを行っていた。
この日、5000mを走り終えたヴァージに、マゼラウスが珍しく喜んだ表情で近づいてきた。
「ヴァージン。珍しく4000mまでラップ69秒をクリアできた。後はスパートへの余力が残れば完璧だ……」
「えっ……。もしかして、ペースを変えることなく、4000mで11分30秒をクリアしたんですか」
「そういうことだ。タイムも、14分09秒97。このトレーニングを始めてから、ここまで自己ベストに近づけられたのは、おそらく初めてだろう」
「最後全然伸びなかったから、心の中では最悪のタイムだと思っていました……」
「全く最悪じゃない……。お前自身が持っている実力で、少しずつウォーレットに迫ってきている証拠だ。次は、自己ベストをこのトラックで叩き出してみろ」
「はい!」
マゼラウスが力強く言うと、ヴァージンもそれに負けない大きさの声でそう言った。
(自己ベストまで、あとコンマ35……。まずは、そこがウォーレットさんから世界記録を奪い返す第一歩……)
ヴァージンは、トレーニングセンターから高層マンションに戻るまでの間、その日に叩き出したタイムを自分自身、それにウォーレットのパーソナルベストと比べていた。まだ5秒の差は縮まり始めていないものの、見えなくなりかけていた差は、少しずつ見え始めていた。
(今年、早いうちにウォーレットさんと戦いたい……)
ヴァージンは、そう誓うのを最後に、この日は5000mのタイムのことを考えることをやめた。だが、部屋に戻って何気なくつけたテレビが、それを邪魔した。
――フューマティック室内選手権、女子5000mで、世界記録保持チュータニアのモニカ・ウォーレットが爆走。後続を寄せ付けない走りを見せ、14分16秒98の室内世界記録を更新しました。
(もう一つの世界記録も……、ウォーレットさんに取られた……)
ヴァージンは、ウォーレットの姿を脳裏に焼き付けた。室内ですら世界最速でなくなった彼女に、もはやオリンピックの時のようなショックを感じる余裕もなかった。
(それでも、私は世界記録と戦い続ける……。いつまでも立ち止まっていられない!)