第4話 アカデミーの仲間入り(6)
マゼラウスから忠告を受けたヴァージンは、何も言うことができず、聞き返すこともできず、ただマゼラウスの目を見るだけだった。やがて、マゼラウスの口がゆっくりと開く。
「どんな種目にだって、レースの組み立てはある。どこでどう走るか、レース中だっていろいろ組み立てる。だが、お前は単に5000mを走りきることだけに全神経を集中させている」
「たしかに……、残り何周かまでは分かっていても、レースの組み立てはあまり意識しませんでした」
「そうか……。なら、お前に一つ、課題を出そう。5000mを14分40秒で走るために、全ラップを何秒で走ればいいか、そしてそのためにはどういうリズムで走らないといけないか。1ヵ月で答えを出して欲しい」
(どういうリズムで走らないといけないか……)
ヴァージンは、マゼラウスの表情を見つめたまま、徐々に視界が暗くなっていくように感じた。プロとしての道を歩み始めたヴァージンには、即答できるはずがなかった。それどころか、アカデミーに来て何度も「ラップ」という言葉を耳にしているが、ヴァージンはそれほど意識していなかったのだ。
しばらく考えて、ヴァージンは静かに言った。
「すいません……、計算……、できないです……」
数ヵ月前にもらった、最後の通知表でも数学の評価が1だったヴァージンにとって、計算は大の苦手だった。暗算はおろか、紙の上に計算式が書かれていても周りより処理するのが遅いのが当たり前だった。
そんなヴァージンが、答えが幾通りもある計算式を考えようとしても、手が止まるだけだった。しかし、それでもマゼラウスが、少しずつうつむき始めたヴァージンに容赦することはなかった。
「計算ができないのは、私も薄々気付いている。けれど、こんなところで甘えるな。私は、お前が勝つためにどうしても必要だと思っている」
「……はい」
ヴァージンは、静かに言葉を返した。すると、マゼラウスは思わず紙とペンを取り出し、二つの数のかけ算を書き始めた。息を飲み込み始めるヴァージンをよそに、マゼラウスは思いつくままに計算式を書き上げ、ヴァージンに差し出した。
「これを計算してみよう。おそらく、5000mを走り続けているお前なら何の計算だか分かるはずだ」
(75✕12.5÷60……。74✕12.5÷60……。73✕……、あれ……?)
ヴァージンは、左側の75や74という数字よりも先に、共通して登場する12.5という数字が目に付いた。そして、数秒間その計算式を見つめたヴァージンは、思わず口元が緩んだ。
「もしかして、12.5って……、5000mはトラックを12.5周するから……ですか?」
「その通りだ。12周半という意味だ。そうすると、その横の75とか74とかが何を意味するかも分かるな」
「ラップ……、ですか……?」
マゼラウスの首が、再び縦に大きく振られた。その瞬間、ヴァージンは目の前にあったペンを持って、与えられた計算式を筆算の形に書き換えた。
(計算なんて、苦手だし、嫌いだけど……、これは私だってできるかも知れない……)
小会議室にいるはずのヴァージンの脳裏に、トレーニングで日夜走っているトラックが思い浮かんだ。ラップ75秒で最後まで走り続ければ、15分あまり37.5秒、ラップ74秒で走り続ければ、15分あまり25秒ということになる。
(これは、苦手な計算なんかじゃない……。私のいる世界の話……!)
気が付くと、ヴァージンは「75✕……」から始まって「70✕……」まで全て計算し終えていた。そして、最後の計算の答えを求めた瞬間、思わずこう叫んだ。
「ラップ70秒だと、14分35秒……!」
「そういうことだ、ヴァージン。あくまでも平均だが、70秒だとお前の自己ベストを軽く上回る」
「そうですね……。なんか、苦手だったはずなのに、この計算式を見たら、そんなの消えていきそうです!」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは軽く薄笑いを浮かべて言葉を返した。
「まだ序の口なのに、お前にとってはすごい発見になったようだな。なら、同じようにやってみろ」
(76+73+72+72+73+74+75+75+76+76+73+35+62)÷60=
ヴァージンの前に差し出されたのは、13個の数の合計を、先程と同じように60で割るという計算式だった。最後近くにある、明らかに違う数字が気になるが、ヴァージンは一の位から順番に筆算で足していった。
「15分12秒です。……あっ!」
「思い出したようだな。この計算そのものが、グラティシモを相手に見せた、さっきのお前自身だ」
ヴァージンは、この計算がタイムであることに気付いた瞬間から、半ば震えていた。もはや、マゼラウスから目を反らすことができなくなっていた。
「もしかして、さっきの、全部ラップを記録していたんですか……」
「勿論だ。普段のお前の走りも、絶えずストップウォッチを見ながら確かめてるからな」
マゼラウスはそう言うと、一度うなずいてヴァージンの目を引きつけた。そして、言った。
「今の計算が、体でできるようになること。難しいかも知れないが、それがレースを組み立てるということだ。最終的に走るのは5000mだが、どんな競技場でも、200mごとにラインを通過する。400mで1周する。そこで、今どれくらいのタイムなのか、計算しながらレースに挑むんだ」
「はい」
「そして、そのために絶対に必要なのが、自分がいまラップ何秒のスピードで走っているかを、身につけなければいけない。私は、それで初めて世界のトップと対等に戦えるようになると思う」
「ラップを、体で覚えるということですか」
「勿論だ。そのためには、トレーニングルームのランニングマシンを使って、ラップ75秒とか70秒とか体にたたき込んでおかなければいけない」
マゼラウスが強くそう言うと、ヴァージンも少しだけ大きく返事をした。
「理想は1秒刻みだ。どれくらいの時速になるかは、私がこの紙に計算しておいたが、欲しいか」
「勿論、欲しいです!」
「なら、明日から1ヵ月、午前中はラップを体にしみこませる練習、午後はそのラップを組み立てながら5000mを走ることを意識して、トレーニングをしていこう」
「分かりました」
かくして、これまで全くと言っていいほど意識してこなかったラップトレーニングが始まった。最初は75秒のペースを10分間、そしてインターバルを置いてラップ74秒を10分、そしてさらにスピードを上げていく。毎日のようにそのトレーニングを重ねることにより、夕方に5000mのタイムトレーニングに挑むときにも、ヴァージンには少しずつ自らの走るラップが何秒だか分かるようになってきた。
マゼラウスに計算式を渡されて1ヵ月近く経ったある日、400m✕10本を走り終えたヴァージンに向けて、マゼラウスが尋ねてきた。
「最後の1周は、体感的には何秒で走ったと思うか」
「えっと……、71秒です」
ヴァージンはそう答えたが、マゼラウスが首を軽く横に振り、やや重い表情に変わったのが見えた。
「68秒……。やっぱり、まだまだ体のアンテナの精度は低いな……」
「はい……」
「ただ、74秒とか75秒とか答えなかっただけ、このトレーニングが無駄ではないということだ。私だって、コーチに言われてそんな簡単に体と実際を合わせることはできなかったからな」
マゼラウスが、やや目を細めながらヴァージンに言う。そして、軽くヴァージンの肩を叩く。
「レース中の計算と、体感的なスピード。それは決してこのトレーニング期間中だけの問題じゃない。これから、お前がさらに記録を伸ばしていく中で、どうしても必要になってくるものだと思う。そこを勘違いして、また計算嫌だとか言わないように」
「はい!」
ヴァージンは、やや大きな声でそう答えた。すると、マゼラウスはその言葉を待っていたようにポケットから一枚の紙を取り出した。そこには計算式が書いてあった。
「ヴァージン、73✕12.5÷60は?」
「えっと……、14……、じゃなかった。15分12秒……ぐらいだったと思います」
「まぁ、間違いではないな。計算のトレーニングのほうも、結構進めている証拠だな」
「ありがとうございます」
ヴァージンが言うと、マゼラウスは少しの間唸った後に、ヴァージンに告げた。
「とにかく、私はお前が無駄だと思っていそうなことでも、お前の未来に必要だと思ったら、お前に声を掛ける。それが本当に必要なものかどうかは、まず受け入れて、自分の中でよく考えてから決めて欲しい。私は決して、正しいことばかりを言うわけじゃないからな」
「分かりました」
マゼラウスの表情は、ヴァージンに強いメッセージを発するときでさえ落ち着いて見えた。
親元を遠く離れ、今や彼女を日常的に見る唯一の理解者となったマゼラウスは、今はまだ、彼女がトップアスリートになる夢を、一緒になって追いかけている少年のようでもあった。