表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界記録の重み
219/503

第36話 追いつけなかったウォーレットの背中(1)

 「マックスチャレンジャー」を履くメリアムがドーピングに手を染めたことへの影響は、ヴァージンに対しても及んでいた。まず、メリアムがドーピング検査で陽性反応を示した日から、「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のCMがほとんど流れなくなり、エクスパフォーマの持っていたCM枠は他の競技のCMに差し替えられた。幸いにしてヴァージンの履くシューズや、アメジスタの素材を使ったウェアの発売が停止される事態にはならなかったが、それらの広告をヴァージンは全く見なくなってしまった。

(今回は私だけが原因じゃないけど……、私が広告に出ないのはものすごく悲しくなる……。でも、私の本業は広告に出ることじゃないんだから……)

 ヴァージンは、天井を軽く見上げて、それから立ち上がった。そして、右手を力いっぱい握りしめた。

(私は……、ウォーレットさんの世界記録を抜きたい……。私は、世界記録の人だと思われているんだから……)

 ヴァージンは、この日のトレーニングでもボロボロにした「マックスチャレンジャー」を見てうなずいた。

(あと5秒、私は自己ベストを上げないといけない……。そのために、私は走り方を考える……)


 マゼラウスから、ヴァージンのもとに提案があったのは、偶然にもヴァージンがそう決心した翌日だった。

「お前に話がある。着替えが終わったら、気分転換にカフェに行こう。もちろん、私のおごりだ」

「はい」

 これまで、トレーニング後に女子選手とカフェに行くことはあったが、打ち上げでもなくマゼラウスに誘われるのはヴァージンにとって初めてだった。カフェという落ち着いた空間だが、その声のトーンを考えれば、マゼラウスが何か重い話を用意している予感がヴァージンにはしていた。


 トレーニングセンター近くの、木のぬくもりが肌で感じられるカフェに、ホットティーのカップが二つ並んだ。その沸き立つような香りを、ヴァージンとマゼラウスはそれぞれの五感に刻んでいた。

「コーチ。私に話って、どういうことでしょうか……」

 ヴァージンは、ホットティーを少しだけ口に含み、静かにカップを置きながらそう言った。

「今日お前を呼んだのは、他でもない。来年に向けてお前がどうタイムを上げていくか、真剣に考えたい。勿論、お前は世界記録への執念を、失っているわけじゃないよな……」

「私は、ウォーレットさんを早く追い越したいです……。あと5秒ですから……」

「お前なら、そう言うと思った。だからこそ、来年は本当にお前自身の立ち位置を取り戻さないといけない。言ってしまえば、勝負の一年だ。そのために、お前と私がどうすればいいかを、ずっと考えていた」

「どうすればいいか……」

 マゼラウスの声は、徐々に重くなっていく。ヴァージンは身を乗り出すような姿勢で、マゼラウスの提案に耳を傾けた。

「まず、ウォーレットの走りが長距離走の走り方ではない、ということは分かっているな」

 ヴァージンは、小さく首を縦に振り、短めに「はい」とだけ言った。ウォーレットの力強い走りが、その目にかすかに浮かんできた。その様子を見て、マゼラウスはほんの少しだけ安堵の表情を浮かべた。

「私は、ウォーレットが新しい時代を開いてしまったのではないかと思っている。ちょうど男子5000mが、長距離走から中距離走に少しずつ動いていったときのようにな」

「そうですね……。私も、はっきりとそう思っています」

「そこでだ……。お前に何度か聞いてきた質問を、いまもう一度繰り返す。今だからこそ真剣に考えてほしい」

「はい……」

 尋ねられる質問は、ヴァージンにも薄々分かっていた。何度も尋ねられ、そのたびにヴァージンは「ノー」と言い続けてきた。その質問が、ヴァージンが世界最速でなくなった今、繰り返されようとしていた。

「お前に、走り方を変える勇気はあるか。それとも、今のまま自分のスパートに賭け続けるか……?」

 ヴァージンの目の前で、マゼラウスは手を組んだ。これまで同じ質問を投げかけてきたときと比べ、その表情は明らかに「イエス」の答えを求めているようだった。


(どうしよう……。もし、ここで拒み続けていたら……、コーチは何と言うか……)

 ヴァージンは、マゼラウスの表情を見つめながら、二つの答えの先にどんな言葉を用意しているかを悟ろうとした。「イエス」なら、喜ぶに違いない。引き換えに、ヴァージンがこれまで築き上げてきたフォームの全てを捨てることになる。「ノー」なら、コーチは今回も提案を取り下げるだろう。引き換えに待っているのは……。

(素直に、私がどうしたいか考えよう……。すぐにフォームなんて変えられないんだから……)

 ヴァージンは、そこで小さくうなずいた。その動きに、ほとんど自信はなかったが、勇気を奮い立たせた。


「コーチ、いいですか……」

「ヴァージンよ。お前なりの結論は生まれたのか……」

 ヴァージンは、そこで再び小さくうなずいた。そして、一呼吸置いたのち、マゼラウスに告げた。

「私は、中距離走の走り方の全てを受け入れるつもりはありません。でも、今のままでいいとも思ってません」

「その中間で行こうとしているのか……。いいだろう。お前は、どういう走り方で臨もうとしているんだ」

 マゼラウスの表情は、決して怒っているわけではなく、むしろヴァージンの答えを待っているかのように目を輝かせていた。ヴァージンはその輝きを感じながら、短い時間で思い浮かべた想いをマゼラウスに伝えた。

「ラップ69秒で戦ってみたいんです。だいぶ前に、コーチが言ってたように……、69秒をクリアできれば、夢の13分台は見えてくると思うんです」

 ヴァージンは、そこで言葉を止めた。カフェの中で、ヴァージンの決意が余韻として流れていく。

「つまり、今より少し速くし、しかも最後のスパートを維持するということだな」

「はい。今まで私は、70秒や69.5秒を意識して、先頭から引き離されて、そこから無理をしていたような気がするんです。でも、それは私の戦い方ができていないって証拠です。だから……、今の走り方で少しでもベースを上げていきながら、私本来の走り方で戦いたいんです」

「そうきたか、ヴァージンよ……」

 マゼラウスがホットティーを口に近づけ、音を立てることなく軽くすすった。その首が、何か思い出したように、かすかに縦に振ったようにヴァージンの目に見えた。

「お前は、一番難しい選択をした。というより、あえて難しい壁に挑戦したがっているようだ」

「やっぱり、今の私には厳しいですか……」

「一から中距離のフォームを身につけるよりかは、たしかに単純だ。だが、今の走り方を維持しながらタイムを上げることは、一見簡単そうで難しいことだ。それは、お前自身が長い間、身をもって体感したことだろう」

「はい……」

 ラップ70秒のペースを手にして、本番でその成果を発揮するようになるまで、ヴァージンは何百周もトラックを駆け抜けた。ラップ69.5秒のときもまた同じだった。そして、再びヴァージンは自らに高い壁を与えた。

「お前がそう言うなら、13分台で走り切ってみろ。私は、そこに挑戦するお前を、全力で支える」

「ありがとうございます。ここまできたら、女子5000mで初めて13分台を叩き出します」


 この時、ヴァージンには言ってしまったという気持ちは不思議と起こらなかった。それどころか、実力さえあれば、今すぐにでも5000mを13分台で走ろうと思ったほどだ。

(夢の13分台まで、私にとってはあと9秒63……。ウォーレットさんのほうが勿論近いけど、私にはもうウォーレットさんよりも先を見据えるしかない……)

 ヴァージンは、マゼラウスに見えないように目を細めた。その目はレースに挑もうとする目だった。

「なら、今日からお前は、次の世界記録に向けてリスタートだ。お前が強くそう言ったのだから、今更その道を引き返さないつもりでやれ」

 マゼラウスが肩を軽く叩き、ヴァージンは力強く返事した。


 12月に24歳を迎えたヴァージンは、珍しく肌寒い時期でもアウトドアでトレーニングを続けた。1月にはイーストフェリルでの室内選手権が組まれているが、1年前と比べれば室内の200mトラックでのトレーニングは大幅に回数を減らしていた。

「2000mの時点でも、あと3秒足りない。足は前に出るのに、テンポがいつもの感じになっている」

 あの誓いから2ヵ月が過ぎたが、ヴァージンの足は、まだラップ69秒への道を進む途中だった。2000mラインで無理してクリアしても、その後の2000m、3000mが続かない。

(あと少しなのに……。69秒からのスパートなら、間違いなくウォーレットさんに勝てるのに……!)

 ヴァージンは、この日もボロボロになった「マックスチャレンジャー」でトラックを踏みしめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ