第35話 破滅のサプリメント(6)
(メリアムさん、大丈夫だったんだろうか……)
ファーシティ選手権が終わってからの1週間は、ヴァージンにとってとても長く感じられた。世界記録を叩き出してからすぐにドーピング検査に連れて行かれる光景を、あれから毎日のように思い出している。
この日も、高層マンションに戻り、椅子に座るなり、メリアムのことを考えた。
(どうして、すぐに連れて行かれたんだろう……)
ヴァージンも、これまで何度となくレース後のドーピング検査を受けてきた。シャペロンと呼ばれるドーピング検査の同席者から相当昔に聞いた話では、ドーピング検査をパスしなければ世界記録が取り消されるそうだ。オリンピックや世界競技会といった大きな大会で成績上位になれば間違いなく検査を受けている。それほど、選手たちにとって、ドーピング検査は日常と言っても過言ではなかった。
だが、ドーピング検査を受けることになった場合でも、時間的な都合で表彰式が終わってから行うことが多く、しかもロッカールームに入る前か後に自ら検査室に出向くものだ。今回のように、国際陸上機構がすぐに優勝選手を検査室に連れて行くことは極めて異例だった。
そう思ったとき、ヴァージンの脳裏にレース前のメリアムの足が思い浮かんだ。
(あの時のメリアムさん、右膝が少しずつ膨らんでいるように見えた……。そして、あのサプリメントを飲んでいるって、あの時はっきり言った……)
いつになく右足が太かったことが、決め手となってしまった。そして、どうしてそうなったかもヴァージンには薄々気付いていた。その目に否応なしに映る、未開封の「スーパースピードアップサプリメント」の封筒をヴァージンはじっと見つめるしかなかった。
(メリアムさんが、もし検査に引っかかるとしたら、これしかない……。でも、あのサプリメントに禁止薬物は含まれていなかったはず……)
ヴァージンは、ゆっくりと立ち上がり、例の封筒を手に取った。成分を確認しても、「その他10種」を除けば特に問題となりそうな成分が入っているわけではなかった。
(少なくとも、これに手をつけてたら、私も記録と引き換えに選手生命を台無しにするかもしれなかった……)
まだ、メリアムが正式にドーピングと決まったわけではない。世界記録も、あの日メリアムの叩き出したタイムが公認待ちになっている。ヴァージンが長年手にしていた物を奪い返せなかったことに、変わりはなかった。
(結果がどうであれ……、私には私のタイムを伸ばすしか、道はない……)
ヴァージンは、サプリメントの袋を封筒にしまい、元あった場所に戻した。その時、電話が鳴った。代理人のガルディエールからだった。
「もしもし、ガルディエールさん」
ヴァージンは、気持ちを落ち着かせて電話を取ったが、すぐに息を飲み込んだ。電話の向こうで、ガルディエールの焦っている声がはっきりと聞こえてきたのだ。
「大変だ……!エクスパフォーマの長距離3人、全員ドーピングの疑いかけられたぞ……!」
「ど、どういうことですか……。詳しく説明してください……」
受話器を持つヴァージンの手は、震えていた。焦るガルディエールの声に、心臓の鼓動が少しずつ早くなる。
「テレビで言ってたんだ。メリアムにドーピングの陽性反応が出て、あのサプリメントに禁止薬物が入っていることが分かった。そのサプリメントを送った選手のリストが、ウェス・サプリメントから公表されたんだ」
「私は……、あの袋を開けてないです……。たぶん、ヒーストンさんだって、開けずに警察に出しています」
「そう信じたいが、ニュースで君の名が出てしまっている……。しかも、大勢の選手に送ったわけじゃなく、ウェス・サプリメントは、エクスパフォーマの女子長距離選手3人にしか送っていないそうだ。今度、君とヒーストンに、国際陸上機構が事実関係の説明を求めるそうだ」
「おかしいですよ、そんなの……。たしか、パッケージに10000mのタイムを30秒も縮めた……ってあったはずなのに、エクスパフォーマの3人にしか送ってないって、そんなのあり得ないです……」
ヴァージンは、叫びたくても声にならなかった。何を言っていいか分からず、ヴァージンは思いつくことだけをガルディエールに伝えるだけだった。
「それに……、ウェス・サプリメントなんて会社、調べても出てこないし、送り返しても住所不明で戻ってくるのに……、どうしてその会社があるようなニュースが出てくるんですか……」
「まぁ、まぁ。言いたい気持ちは分かる。でも、まずは君自身の信用を取り戻すことが一番だと思う」
「信用……」
タイミング良くヴァージンの言葉を止めたガルディエールは、逆に落ち着きを取り戻した声でそう言った。
「ニュースに出てしまった以上、君は何かしら行動を取らなければ、あのサプリメントを使って世界記録を叩き出したとしか思われなくなる。どうすれば君自身の信用を取り戻せるか、ちょっと考えて欲しい」
「分かりました……」
(どうしよう……。私、検査で陽性って言われてないのに……、ドーピングをしてることになってしまう……)
電話を切ったヴァージンは、置いたばかりの封筒に目をやった。その中身を口にしたことは、ヴァージンの記憶になかった。それでもニュースは、いかにもヴァージンがメリアムのように日常的にそのサプリメントを口にしていたと言っているのだった。
(それに何より、私がドーピングによって世界記録を出し続けてきたってことになってしまう……)
オリンピックの後、フラップのマックァイヤに言われたように、ヴァージンに対して「世界記録の人」というイメージを持っている人が少なくない。女子5000mの世界記録を次々と叩き出したことそのものが、一つニュースに出るだけで疑われてしまい、イメージも180度変わってしまうように思えた。
(もし私が、この疑惑を否定できなかったら……、本当に私は誰からも信頼されなくなる……)
――まだ走りたいのに!
トップアスリートの本能は、そう叫んだ。その気持ちだけが、ヴァージンの足を動かした。
10秒もしないうちに、ヴァージンは電話を手にとって、ガルディエールにその気持ちを伝えた。
「ガルディエールさん……。やっぱり、私が率先して、自分自身を救おうと思います」
「そうか……。君はその疑惑を真っ向から否定しようと動くんだな」
「勿論です。あのサプリメントを口にしてないのに、ドーピングを疑われるのは、誰だって嫌だと思うんです」
ヴァージンは、強い口調でそう伝えた。数秒考えて、ガルディエールは何か思い浮かべたように言葉を返した。
「なら、記者会見を開いて、君の潔白を多くの人に伝えるのが一番だと思う」
「潔白……、つまり、私は何もやっていないということを証明するわけですね」
「そうだ……。たぶん、今のままならトラックの上に立っても、君に拍手を送らない人もいるだろうから、そういう人たちに伝えてやればいい。会見の場所とか日取りとかは、私が調整しておくよ」
「ありがとうございます、ガルディエールさん!」
ヴァージンは電話を切ると、深呼吸をした。ヴァージンの脳裏に、あのサプリメントを思いとどまったときの彼女が現れ、それがヴァージンの支えになっているような気がしたのだった。
(会見で何を言おう……)
ヴァージンは、すぐに机に向かい、紙とペンを取り出して伝えたいことを書き出した。まず「スーパースピードアップサプリメント」の袋を開けていないこと、これまでと飲食物を変えていないこと、何度も送りつけられたこと、製造元に送り返してもいること……。思い出せば思い出すほど、その中身はきりがなかった。
そのうち、ヴァージンのメモにはウェス・サプリメントに対する要望や苦情が連なるようになり、最後に上から順番に目を通したときに、ある場所から先は発表を躊躇しようとしたほどだ。
(でも、いつもこういうのを書いても……、アドリブで言った言葉の方が人の心を動かすような気がする……)
1週間後、ヴァージンはオメガセントラルのホテルに設けられた記者会見場に向かった。スーツを着て外を歩くことは久しぶりだが、優勝インタビューではない記者会見は、彼女にとって初めてのことだった。
そのバッグには、これまで送られてきたサプリメントが全て入っている。まだ手を付けていないサプリメントこそが、ヴァージンにとって疑惑を否定するための最大の武器だった。レースではないはずなのに、勝てるという自信がそこにはあった。
(私は……、言われもない罪を、今日払拭してみせる……。私の世界記録が、決して穢れた足で生み出したものでないことを……!)
会見場に向かうヴァージンは、自然と右手を軽く握りしめていた。