第35話 破滅のサプリメント(5)
号砲と同時に、メリアムとウォーレットが同時に飛び出した。ともに、ヴァージンが照準を合わせるラップ69.5秒を大きく上回る出だしで、最初のカーブに挑んでいく。普段から前に出るメリアムと、中距離走の走り方を身に着けたウォーレットを、ヴァージンはそのスピードに合わせることなく、様子を見ることにした。
だが、ヴァージンの目には、これまでよりも先頭に離されていくペースが早いように思えた。
(ラップ68秒を、1周目から叩き出している……)
ウォーレットが、ここのところほぼラップ68秒で突き進んではいるものの、全体としてペースを少しずつ上げている走りなので、1周目からそのペースになることはほとんどなかった。だが、世界記録そのものが大きく伸びた今となっては、その走りも過去のものであるかのように、最初から少しずつペースを上げているのだった。
一方のヴァージンは、最初から飛ばすという選択肢を最初から捨てていた。
(中盤にオーバーペースになったら、後半失速する……。私の足が、はっきりとそれを覚えている……。その中で、私が世界記録を上回る走りを見せるためには、最後2000mくらいから勝負を仕掛けないといけない……)
ヴァージンと同じように、ヴァージンの履く「マックスチャレンジャー」も、半分はそれに怯えているようだった。トレーニングでも、ここのところ14分20秒をクリアするのがやっとで、かつての世界記録――今となってはただの自己ベスト――には遠く及ばなかった。レースで「怯える」という感情があってはいけないと分かっていても、ヴァージンは無理をしない選択肢を選ばないといけなかった。
(少なくとも、2000mから勝負をかけてベストタイムを出せるようにはなっていない……。オリンピックからの2ヵ月、それを意識してトレーニングしたけど……、後半に伸ばすほうがいいタイムを出せていた)
ヴァージンは、そう確信し、ラップ69.5秒からほんの少しペースを上げるだけにとどまった。
5周目に入る。先頭を行くウォーレットとメリアムは、ぴったりくっついたまま、ラップ68秒からさらに伸びようとしていた。ウォーレットが先に勝負を仕掛けて前に出ようとしたが、すぐにメリアムが伸びていき、2、3m突き放してはウォーレットに追いつかれるという、駆け引きの繰り返しだった。
そして、2000mを過ぎたとき、ヴァージンはその二人より50m以上は差をつけられていた。
(オリンピックのときだったら、ここで一気にペースアップしていた……。でも、今それはできない……)
たしかに、「マックスチャレンジャー」の戦闘本能は高まっていて、少しずつヴァージンの足にパワーを送り出している。だが、そのパワーもかつて見せたほど大きくなっていない。やはり、まだ怯えていた。
(そんなに怯えちゃいけないはずなのに……。早く3000mになって欲しい……)
ラップ69秒から69.5秒を意識していたはずのヴァージンは、いつの間にかそれを下回る、体感的にはラップ70秒のようなペースにまで落ち込んでいた。少なくとも、2200mのところで記録計を見たとき、ラップ70秒で走り続けたときと同じ、6分25秒だった。
(二人が、ちょうどいい勝負をしている……。その中に、早く食い込んでいきたい……)
それからの2周は、ヴァージンにとって長い時間のように思えた。ラップ69秒に近づけようとペースを上げようとするが、ついそのペースをオーバーしそうになり、少しずつしかペースアップできない。その間にも、二人との距離が広がっていく。
そして、ヴァージンは3000mを8分45秒で通過し、ここで右足に一気に力を入れた。
(二人に……、私の力で追いついてみせる……!)
ヴァージンがトラックを強く蹴ったとき、赤い「マックスチャレンジャー」に宿るパワーが一気に燃え上がった。ラップ68秒、そしてラップ67.5秒まで一気にそのペースを上げていく。80mあったメリアムとの差が、少しずつ縮まっていく。
(残り1000mで60mくらいの差に縮めれば、スパートで追いつけるはず……。それがいつもの戦い方……)
2000mからのペースアップでは、本来の走りを最後まで維持できなかったヴァージンにとって、最大の武器であるスパートを発揮するためには、こうするしかなかった。まずは1000mで20mほど差を縮めるのが目標だ。
だが、前を行く二人も、ここでペースを上げたようにヴァージンには見えた。
(メリアムさんが、ここでまたペースを上げた……)
オリンピックではウォーレットが後半にヴァージンを突き放したが、序盤からペースをほとんど上げてこないことの多かったメリアムが、ここでペースアップするのは異例だった。コーナーに差し掛かるとき、ヴァージンはメリアムのスパートを左目ではっきりと見た。
(なんか、この前のウォーレットさんよりも力強い……。オリンピックでの走りに刺激されたかも……)
先頭との差を縮めようとするヴァージンも、残り1000mまでの間にペースを作り上げていくが、ラップ67秒近くまで上げて、そこで勝負の時を待つしかなかった。メリアムが、既にそのペースでウォーレットをも引き離し始めているように、ヴァージンの目には見えた。
だが、それ以上にヴァージンの目に留まったのは、その足だった。
(メリアムさんは……、私と同じシューズなのに……)
エクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいるメリアムが、イエローの「マックスチャレンジャー」を履き、ウォーレットを引き離す。「マックスチャレンジャー」を超えるシューズだった「ヘルモード」が、今度は「マックスチャレンジャー」に抜き返される。それは、ヴァージンにショックと、そして新たな戦闘本能を与えた。
(私だって、ウォーレットさんの「ヘルモード」に勝てるかもしれない……)
残り1000mを待たずして、ヴァージンはコーナーの出口から一気に飛び出していった。これまで怯えていた足が、ここで一気にその力を高めていく。4000mの通過タイムは11分37秒。序盤に怯えたこともあって、新たな世界記録を更新することは厳しいタイムだが、前を行く二人を捕らえることだけをヴァージンの足は意識した。
(ペースを上げる……。上げるしかない……。メリアムさんが、あんな走りを見せているのに……!)
ヴァージンの「マックスチャレンジャー」に宿るパワーは、オリンピックのときのように途切れるようなことはなく、スパートをかけるヴァージンとともに戦っていた。
(メリアムさんとの差、70m……。私は、まだいける……!)
久しぶりに足が重くない状態でヴァージンはトップスピードまで上げていく。オリンピックのようにペースを上げるウォーレットと、その20m以上前にいるメリアムを、ヴァージンは懸命に追い続けた。
だが、追い抜くための距離は足りなかった。
メリアムがゴールラインを駆け抜けるのを、ヴァージンは60mも後ろから見てしまった。それどころか、体でタイムを刻んでいたヴァージンは、その瞬間嫌な予感を抱いた。そして、それはすぐに的中した。
(歓声が響いている……。自分が、ウォーレットさんが、世界記録を叩き出した時のように……)
ヴァージンは、ウォーレットにすら追いつくことができず、ゴールラインを駆け抜けた。そして、その嫌な予感を、首を横に振って否定しようとした。それでも、彼女が恐る恐る見た記録計こそ、真実だった。
14分04秒43 WR
(メリアムさんにまで……、メリアムさんにまで世界記録を出されてしまった……)
ヴァージンは、記録計を眺めたまま立ちすくんだ。パワーをほとんど使いきった足が、ガクガクと震えている。
(もう……、シューズのせいにはできない……)
ヴァージンのタイムは、体感的には14分14秒ほど。久しぶりにトップスピードに乗せることができ、自己ベストに届かないまでも、決して悪くはないタイムだった。オリンピックで世界記録を奪われたショックから立ち直りつつあるようにも思えた。それでも、ヴァージンの履く「マックスチャレンジャー」で、新しい世界記録を叩き出された現実が、その手ごたえをも奪い去っていく。
(単純に、メリアムさんのほうが、実力があったと……。そのシューズで、私をはるか後ろに追いやった……)
ヴァージンは、記録計から目を離し、下を向いた。力を使い果たした赤いシューズは、何も語れなかった。
その時だった。トラックの外からスーツを着た男性が入り、選手たちの輪に大股で近づいていく。ヴァージンが再び顔を上げると、その男性はメリアムの前に立ち、こう告げた。
「ソニア・メリアム選手。あなたには、表彰式の前に簡易的なドーピング検査を受けてもらいます」
(えっ……?)
ヴァージンは、思わず息を飲み込んだ。「国際陸上機構」と書かれた腕章をつけるその男性は、レーシングウェアのままのメリアムを検査室へと連れて行く。何が起こったのかを把握する間もなく、ヴァージンはメリアムの後ろ姿を見るしかなかった。