第35話 破滅のサプリメント(4)
「私のところにも、それが送られてきたんです。怪しいと思って送り返したら、住所不明で戻ってきて……」
「グランフィールドのところにも、サプリメントが届いたんだ……」
エクスパフォーマのトレーニングセンターの入り口にあるベンチに腰を下ろし、二人は顔を見合わせた。ヴァージンはヒーストンの持っていたサプリメントの袋を手に取って、見慣れたものであると確信した。
「そうです。私の場合、オリンピックが終わってから数日で試供品が届いて、5回ぐらい届いてます」
「それ、絶対怪しいって……!私も2回来てるけど、次来たら警察に届け出ようと思っていた」
「ヒーストンさんと私で回数が違うのは……、不思議ですね……」
「私も分からない。でも、回数だけを見たら、グランフィールドを応援しているか、世界記録を奪われたショックに付け込んで買わせようとしているか……、私はどちらかだと思う」
ヴァージンは、ヒーストンの言葉にうなずこうとして、思わず動きを止めた。
「ヒーストンさん……。なんか、今すごい仮説を言いませんでしたか……」
「仮説……?私は、そんな大したこと言ってないと思うけど……」
「ヒーストンさんの言葉に、思わずピンときたんですよ。ショックに付け込んで、という言葉が、本当に合ってるような気がするんです……。そうじゃなかったら、私のところに集中して送りつけたりしません」
「それは間違いなさそうね……。私は今日、警察に届けようかな……。グランフィールドも届けたら?」
「はい。私もじきに届け出ようと思います」
ヴァージンは、そうは言ったものの、ファーシティ選手権が終わって時間が取れたら、代理人ガルディエールに頼んで実物ともども警察に届けることにした。
警察に届け出たヒーストンとは、その数日後にトレーニングセンターで再び会い、ヴァージンはサプリメントのことを尋ねることにした。
「あのサプリメントなんだけど、毎日送りつけているわけじゃないから、法律違反じゃないみたい」
「そうなんですか……」
ヴァージンが残念そうに言うと、ヒーストンは少し唸って、それからこう告げた。
「でも、中身に毒物が入っていれば立派な犯罪になるとも言ってた。科学検査の結果が出たら連絡するみたい」
「意外と時間がかかりそうですね……。期待しましょう」
それでも、ヴァージンにとって、この警察の判断は絶望としか言いようがなかった。警察が見た目で毒物と判断できないとなれば、科学検査でも引っ掛かる可能性が少なくなる。
(もし、これが犯罪じゃなかったら……、あのサプリメントをどう処分しよう……)
そして、オリンピック後初めてのレースとなるファーシティ選手権当日になった。事前にマゼラウスから伝えられていた情報では、女子5000mにはヴァージンのほかにウォーレットとメリアムが出るとのことだった。それを知った日から、ヴァージンはもやもやとしていた感情が消えたように思えた。
(いろいろ悩んだけど……、私がウォーレットさんの記録に勝てばいい……。やっぱり、それしか道はない)
悲しみに沈み、そのことで叱られ、時には得体の知れないサプリメントにまで手を出そうとしていた。それでも、レースが近くなるにつれて、走ることだけに集中できるようになっていた、
だが、スタジアムに着いたとき、これまでと何かが違うことにヴァージンは気付いた。
(カメラが寄ってこない……)
たしかに、報道陣の姿はヴァージンの目に見える。だが、これまでならスタジアムに入るなり近寄ってくる彼らが、今日は寄ってこない。その代わり、先にサブトラック入りしていたウォーレットのウォーミングアップに、複数のカメラが回っていた。
(気にしないでおこう。こうなるのは、世界記録を失った以上、当然の結果なんだから……)
ヴァージンは、ウォーレットから目を反らし、その右手を強く握りしめ、受付へと向かった。そこに、ちょうど受付を終えたメリアムが立っていた。
「メリアムさん……。ほとんどトレーニングセンターで会わないから、心配してました」
「大丈夫。私は……、グランフィールドが大学行ってる時間帯にしか、トレーニングしてないから」
「そうなんですか……」
そう言ったヴァージンは、ほんの少しだけメリアムの足元を見た。躍動感にあふれた「X」の文字に、イエローに輝く「マックスチャレンジャー」が今にも走り出そうとしていた。しかし、それと同時にヴァージンの目に飛び込んできたのは、少しずつ膨らんでいくような動きをしている、メリアムの右膝だった。
「メリアムさん、膝を集中して鍛えたんですか」
「グランフィールド……。やっぱり気になったのね。この膝に」
「気になります。なんか……、いつものメリアムさんよりも、ずっと力強く見えてきますもの」
少なくとも、イーストブリッジ大学の陸上部で最初に会った時から、メリアムの膝の幅が1cm以上伸びているように見えた。長距離を専門とする陸上選手は足が細いことが多く、ヴァージンもプロに入ってからふくらはぎの筋肉が反り落ち、細身の足になっていた。だが、つい数年前まで中距離を専門としてきたメリアムは例外で、短距離走や中距離走の選手では、足の太さこそが強さのステータスになっている。
そこまで考えたヴァージンは、メリアムの言葉を待った。メリアムは、じっとヴァージンを見つめ、言った。
「私がここまで足が太くなったの、サプリメントのおかげなのよね……」
「サプリメント……。メリアムさん、サプリメントも使ってたんですね」
ヴァージンは、サプリメントという言葉を聞いて体をわずかに震わせた。それに構うことなく、メリアムは一度うなずいて、そっとこう言った。
「あまり大きな声じゃ言えないけど、私は一般に売られていない、新しいサプリメント使ってるわよ」
「一般には、売られていないんですか……」
「そう。私のところに、試供品の封筒が届いたの。聞いたこともない会社だけど、私のために作ってくれたような気がして……、その日から毎日使っているわ」
「も……、もしかして、それ……、ウェス・サプリメントの『スーパースピードアップサプリメント』ですか?」
「たしか、そういう商品名だったと思う……」
(うそ……。メリアムさんが、あのサプリメントを使っている……!)
ヴァージンの嫌な予感が、完全に的中してしまった。使うことを踏みとどまっているサプリメントを、エクスパフォーマとスポンサー契約を結ぶ女子長距離選手の中から現れた事実を、いま本人の口からはっきりと伝えられたのだから。
「それ、うちに5回届きました。ちょっとタイミングがよすぎているので、怪しくてまだ飲んでないです」
「回数は、グランフィールドと同じね。あれだけ送られてきたら、来年の世界競技会まで間違いなくもつと思う。で、グランフィールド。もうサブトラックに行っていい?」
「大丈夫です。ありがとうございます……」
ヴァージンは、メリアムの姿が見えなくなると、着替えの手を止め、天井を見上げた。
(誰が……、何のためにこんなサプリメントを長距離選手に送っているの……)
ヴァージンは、最初家に届いた封筒とその中身を、再び思い出した。見た目にも、主な成分にも、特に大きく問題になりそうなところはなかった。一つだけ引っ掛かるとすれば、これまでウェス・サプリメントから試供品が送られた選手が、全てエクスパフォーマのトレーニングセンターに出入りしているという共通点があることだ。
(住所とかが、エクスパフォーマから漏れたのかもしれない……。でも、エクスパフォーマの関係者じゃない可能性だってあるわけだから、そこはまだ気にしないでおこう……)
女子5000m、久しぶりにウォーレットがヴァージンより内側に立って、スタート位置に向かう。オリンピックと同じ青の「ヘルモード」を、足首を回しながらヴァージンに見せていた。その後ろでは、イエローの「マックスチャレンジャー」を蹴り上げるメリアムの姿もいる。ヴァージンは、目を細めながらその二人を見た。
(今日は、私にとって再始動のレース。私は、ここから世界記録をもう一度積み上げていく)
14分04秒57。スタートから飛ばすメリアムやウォーレットを追いつつ、ラップ69秒のペースを維持できれば、その記録を上回る可能性が十分ある。68秒よりも速いペースで中盤から飛び出せば、終盤に足が悲鳴を上げてしまうことは、その足がはっきりと覚えていた。
「On Your Marks……」
号令とともに、ヴァージンの足からパワーが溢れ始めた。左に立つメリアムを、目を細めながら見て、ヴァージンは新しい世界記録を打ち立てることをはっきりと誓った。
(私は……、必ずウォーレットさんとメリアムさんに勝ってみせる!)