第35話 破滅のサプリメント(3)
(やっぱり…、世界記録を出されてから……、いろいろ不安定になっているのかもしれない……)
マゼラウスに、ヴァージンの「心の病」が見破られたその日、ヴァージンは高層マンションに戻るまでの間、時折マゼラウスの言葉を思い浮かべてはため息をついた。皮肉にも、それだけでヴァージンが立ち直っていないことにはっきりと気付いてしまった。
(とりあえず、心が不安定だと、結局タイムに響いてしまう……。何とかしないと……)
ヴァージンはマンションのエントランスに入ると同時に、そう心に決め、心なしか背筋を伸ばした。その勢いのまま、前日と同じようにポストに手を伸ばした。そこでヴァージンは、触った覚えのある封筒に気付いた。
(あれ……?もしかして、またあのサプリメントが届いた……)
ヴァージンは、嫌な予感を思い浮かべながら、そっとポストから封筒を出した。案の定、差出人には「ウェス。サプリメント」と書かれてあり、その場で中身を開けると、やはり例のサプリメントが入っていた。
(同じように、試供品だ……。でも、私のところに二つも届くんだろう……)
ヴァージンは、部屋までその封筒を持っていき、前日と同じように机の上に置いて、そのまま立ち止まった。タイミングが良すぎることへの不信感が、二度目はより大きくなっていた。
(私は、あの封筒をそのままウェス・サプリメントに送り返したはず……)
行き違いになっているのは間違いない。それでも、中身が同じ試供品が二日続けて届くのは、ヴァージンの7年になるオメガ国内での生活の中で、ただの一度もなかった。常識的に考えてもあり得ないことだった。
(そんなに、この会社は私のスポンサーになって欲しいのかも知れないけど……、なんかものすごく怪しい……)
ついにヴァージンは、ノートパソコンを立ち上げて、「ウェス・サプリメント」という会社を調べることにした。住所や郵便番号がしっかりしている会社なので、おそらく検索にも引っ掛かるだろう、と決めてかかっていた。
「えっ……、出てこない……」
ヴァージンは、パソコンの画面を見て、しばらく固まってしまった。そのものズバリの検索結果はなく、「ウェストエリアのサプリメントショップ」とか「ウェスタリア博士の研究結果」など、明らかにヴァージンのところに届いた封筒とは関係のない結果しか表示されなかった。
それどころか、商品名の「スーパースピードアップサプリメント」で調べても、そのままの品名では出てこない上、書かれている住所も存在しないものだった。
(これ、ひょっとして……非売品で、私たちアスリートしか知らないようなサプリメントかも知れない……)
満足のいかない検索結果を三度も表示され、ヴァージンはパソコンを閉じた。そして、もう一度「スーパースピードアップサプリメント」の袋を手に取った。たしかに、成分としては申し分のないものだった。
(怪しいんだけど……、もしこのサプリメントを使えば、もっと速くなれるのかな……)
ウォーレットの出した記録を追い抜くしかないヴァージンにとって、不安定になりつつある心を落ち着かせるには、何かきっかけが必要だった。ベストは、14分04秒57を上回るタイムを自力で出すことだが、ヴァージンにとって自己ベストを5秒も縮めることはあまりにも過酷な試練だった。早く世界最速の選手に戻らなければ、侮辱を受け、叱責もされる。そのきっかけが、いままさにその袋の中にあるものに他ならなかった。
(ガルディエールさんに……、スポンサー契約を投げかけよう……)
ヴァージンは、この日もまた電話を取った。だが、電話の向こうにいたガルディエールは呆れた声だった。
「そんなものに、頼ってしまうのか……。スピードを求めているとは言え、残念としか言いようがない」
「ガルディエールさんは……、このサプリメント、ダメだと思っているんですか……?」
「ダメということを言い切れないのも事実だけど……、危ない」
すると、ガルディエールが電話口の向こうでガサガサと袋を揺らしている音が、ヴァージンの耳に届いた。
「もしかして、ガルディエールさんのところにも、そのサプリメントが届いたんですか……?」
「届いたというか……、ストレームから渡されたんだ。ぜひ君に試して欲しいとか言われて」
ヴァージンは、その瞬間に身震いがするのを感じた。前日はうまく中身を説明せずに「スーパースピードアップサプリメント」を紹介してしまったが、その実物を、まさに今ガルディエールが持っているのだった。
「それでも、ガルディエールさんは勧めないんですね……」
「勧められない……と、代理人の私が決めるわけにはいかないんだ。あくまでも、君の意見の参考に言っている」
「参考……ですか。でも、ガルディエールさんは、勧めたくないって思っているように見えるんです」
ヴァージンは、もう一度だけサプリメントの袋に目をやった。その間に、ガルディエールが小声で返す。
「一つだけ引っ掛かっている。成分の『その他』というところだ……」
「その他……。あまりにも成分が多くて書けないということですよね……」
「そうなんだ。そうではあるんだけど……、『その他』のところに、人の目に見せたくない成分が入っている可能性がある。麻薬の売買とかで、警察の目をかわすためによく使われる手段だ」
(麻薬……)
ヴァージンは、ガルディエールの言葉が終わるか終わらないかのうちに息を飲み込んだ。一見すれば普通のサプリメントが、とても劇薬の成分の入ったものとは思えなかった。
「もし、明日も君のところに試供品が届くようなら、意図的に君を潰そうとする人間のせいかもしれない。だから、安全がちゃんと証明されるまでは、飲まないほうがいいし、何よりも君自身の力で記録を取り返すんだ」
「……分かりました」
「とりあえず、少しでも実践を取り戻すために、10月のオメガ・ファーシティのレースを入れておいたよ。このまま年を越せば、今年後半の君は最悪になってしまうから、せめて今季最高のタイムで終わりにしよう」
「はい」
2ヵ月後に、また新たなレースが始まる。そこまでの間に、ヴァージンは気持ちを落ち着かせなければならなかった。ウェス・サプリメントに送り返したはずの封筒も、住所不明で戻ってきたばかりか、2週間ごとに新たな試供品が届き、そのたびにヴァージンは怪しいサプリメントに手を伸ばそうとして、あと一歩のところで思いとどまった。
(私は、何を信じればいいんだろう……)
封筒が目に留まるたび、ヴァージンの気持ちは揺れ動いた。
(14分22秒87……)
10月に入り、日に日に次のレースが近づく中、5000mのタイムトライアルで、ヴァージンは自己ベストになかなか迫れないでいた。ラップ69.5秒は意識しているものの、70秒に近いペースで落ち着いてしまい、4000mでのタイムが決まって11分40秒を過ぎてしまうのだった。その後のスパートもなかなか伸びない。
(エアーは利いているのに……。「マックスチャレンジャー」からも、パワーを感じられるのに……)
ヴァージンは、バッグを肩に担いでトレーニングセンターから出ようとした。その時、ちょうどヒーストンが入ってきて、向こうから話しかけられた。
「グランフィールド、久しぶり。オリンピックが終わってから、全然会ってなかったみたいね」
「ヒーストンさん……。たしかに、会ってないですね……」
「会うに会えなかった。だって、私がフラップに興味を持ち始めたのよ……」
ヴァージンは、ヒーストンの表情を見つめたまま、何も言うことができなかった。ヒーストンは、エクスパフォーマのモデルアスリートとして目をつけられていた存在だったからだ。
「もしかして、私がモデルアスリートになったから、他に移ろうと思ったんですか……」
「違う。なんか、あんな走りを見せられたら『マックスチャレンジャー』は見劣りしそうで……」
「そうですよね……。私も、少しだけそう思いました」
ヴァージンは、決してそれ以上フラップに感情を抱くつもりはなかった。だが、ヒーストンがフラップに興味を示したということが、何度もヴァージンの脳裏に襲い掛かる。
「でも……、やっぱり私はここに残ることにする。負けてフラップに移るのと、勝ってフラップに評価されるんじゃ、天と地ほどの差があるわけだし」
「そうでしたか……。じゃあ、またここで一緒にトレーニングできますね」
ヴァージンがはっきりとそう言ったとき、ヒーストンはその場でバッグを開けた。そして、中から封筒を取り出し、ヴァージンに見せた。
「ところで、グランフィールド。これなんだけど……、知ってる……?陸上選手用のサプリメントだけど」
(スーパースピードアップサプリメント……)
ヴァージンは、背筋が凍りつくのを感じた。何食わぬ顔で問題のアイテムを差し出したヒーストンを、じっと見つめるしかなかった。