第35話 破滅のサプリメント(1)
「グランフィールド選手の結果に、私たちもショックですよ……」
オリンピックが閉会した翌日、ヴァージンはエクスパフォーマから呼び出され、そこで開発本部長ヒルトップから重苦しい声でそう伝えられた。
「エクスパフォーマの力を生かせず、すいませんでした……」
「いや、謝ることじゃないですよ。私どもがクッション性と反発性を両立させたシューズを作れば、ライバルもその真似をすることは分かっていました。それでも、専属契約を結んだ他の3人は、みな金メダルだったのです」
「金メダル……、だったんですか……」
ザック・オルブライトは男子100mと200mで優勝、フレッド・ジョンソンは男子走り高跳びでオリンピック記録を打ち立てて優勝、そしてルイス・カルキュレイムも男子やり投げで辛くも優勝を成し遂げている。ヴァージンはヒルトップから、そう伝えられた。
(自分は……、10000mの銀メダルがやっと……。5000mは、大きな大会で優勝したことが……、一度もない……)
「オリンピックが終わると、活躍した選手と同じシューズ、同じウェアが欲しいという需要が一気に高まります。いま、マラソンや長距離走を走りたいと思っている女子たちが憧れにしているのは、このオリンピックで名前と実力と、そしてタイムが知れ渡った、ウォーレット選手になったことでしょう」
「私は……、そこまで人気が落ちるってことですか……」
「厳しいことを言うかも知れませんが、そういうことになります。私は、グランフィールド選手がスタジアムに立つと、魔法がかかると言いました。夢や希望を抱くことのできる選手だとも言いました。ですが……、世界記録を失ったことで、グランフィールド選手の魔法は幻だと気付いた人も多いような気がするんです……」
ヒルトップは、一切の感情を見せることなく言い切った。ヴァージンは視線を動かすことができず、ヒルトップの表情には次第に不安の表情しか見せることができなかった。
(嫌だ……。私、エクスパフォーマを追い出されてしまうわけ……!)
ヴァージンが声にならない言葉を言おうとしたその時、ヒルトップはとどめの一言を口にした。
「というわけですよ、グランフィールド選手。ですので、私たちの……」
「つまり、クビですか……?私は、エクスパフォーマを背負って、ウォーレットさんを懸命に追い続けたのに……、『マックスチャレンジャー』の偽物を作ったフラップに負けて、それでクビですか……?」
「落ち着きましょう。私は、あのウォーレット選手に勝負を挑んだのに、負けたからって手放すことはしません」
「えっ……。私だけ結果を残せなかったのに、本当ですか……」
ヴァージンは、息を詰まらせながらヒルトップに尋ねた。すると、ヒルトップは無感情だった表情を軽く緩めながら、ヴァージンに告げた。
「そうですよ。エクスパフォーマは、本気で戦う選手を応援するためのブランドですから、『ヘルモード』を履いたウォーレット選手に勝負を挑んだグランフィールド選手は、私たちの目指している姿だったと思うんです」
「そうですか……。ありがとうございます……」
「ただ、商品の販売戦術は見直さないといけないっていうことをお伝えしたかっただけなんですよ」
そう言うと、ヒルトップはオリンピックの開会式当日にヴァージンに見せたカタログ試作品を取り出し、その小口の真ん中を両手で掴んだ。
「世界最速でなくなってしまったグランフィールド選手のモデルは、今はなかったことにしましょう。『キロク*ヤブリ』が、記録を破られてしまったわけですから……、私たちはまた出直しです……」
表紙にヴァージンの姿が写っているそのカタログは、まさに世界最速に君臨し続けた彼女と一緒に限界を打ち破るというコンセプトのもとで作られた。それを、なかったことにすると、ヒルトップは言っているのだった。
「私が世界記録を奪い返したら、また……、作って下さいますか……」
「そうですね。グランフィールド選手の魔法が、また輝くようになったら、約束しましょう」
ヒルトップの口が閉じた瞬間、その手はカタログを破った。ヴァージンの写真が、真っ二つに割れていく。ヴァージンは、目を閉じることもできず、その動きの全てをはっきりと見てしまった。
(私は……、エクスパフォーマの力になれなかった……。やっぱり、それは事実だった……)
女子長距離走向けの商品と、ヴァージン自身の新しいCMが立ち消えになり、この先しばらく、ヴァージンの姿が広告に出てくるのは、アメジスタのドクタール博士が力を貸してくれた超軽量ポリエステルのウェアだけとなり、それも隅のほうにアメジスタの国旗とともに小さく表示されるだけ、とヒルトップから説明があった。
失意のヴァージンは、エレベーターでエクスパフォーマ本社の1階まで降りた。だが、その足が出口に向かうことはなく、エントランスホールに飾られた数多くのアスリートのタペストリーに目を移した。
(ここに……、紹介されている選手は……、みなすごい実力を持った選手……)
既に、陸上競技用のスペースが準備中となっていて、そこにオリンピックなどでの活躍がタペストリーとともに並ぶようだ。その中にヴァージンの活躍が載ることは、ヒルトップの言い方だとなさそうに思えてきた。
(私は……、そんなすごい選手たちに……、背中を見せつけられているのかも知れない……)
ヴァージンは、ベンチを見つけるなり、そこに座り、首を下に傾けた。何かを言いたくても、何もものを言わないタペストリーに語りかけることはできず、ため息を吹きかけることしか方法はなかった。
しばらくして、ヴァージンの耳は、誰かがそっと語りかけてくる声を感じた。
「なに落ち込んでるんだか……」
その声に、ヴァージンは頭を上げた。甘いマスクのカルキュレイムの顔が、覗き込んでいた。
「カルキュレイムさん……。見られちゃいましたね……」
「やっぱり、期待された成績を残せなかったからって、ヒルトップに怒られたんだね……」
「まぁ、慰められた後に……、私のモデルの話が、なしになりました……」
「それは辛い……。次は記録取り返しますから、って言ってやればよかったじゃん」
カルキュレイムは、ヴァージンの横に座って、鍛え上げた腕でヴァージンの肩を抱く。反射的に、ヴァージンは顔をカルキュレイムに振り向き、じっとその顔を見つめながら、涙声で言った。
「言えなかったんです……。あのレースの後、ものすごくショックなことを、フラップの人に言われて……」
「フラップが……、グランフィールドに変なことを言ったのか……」
「そうです……」
ヴァージンは、その言葉に続けて何度か口を開こうとするが、声にならなかった。そこに、カルキュレイムがさらに強くヴァージンの肩を抱き、彼の体に引き寄せた。
「言いたそうだね。そのショッキングな言葉を」
「一言で言ってしまえば……、侮辱です。スポーツブランドの担当者が……、あんなこと言っちゃいけないって……思うんです」
「そんな酷いこと言われたんだ……。ライバルは蹴落としたいって気持ちは分かるけど……、アスリートをここまで落ち込ませるような言葉は、自分もいけないと思うよ」
カルキュレイムの目は、優しくヴァージンを見つめていた。その目の前で、ヴァージンは軽く首を横に振り、彼にだけ聞こえるような小さな声で、そっと語りかけた。
「カルキュレイムさんも、そう思ってくださるんですね……。私に5秒もタイムを縮められないとか、世界記録しかない人間とか、もうファンはついてこないとか……、あんまりすぎると思うんです。でも、私にはもう、言い返す力が……、残っていませんでした……」
「それはないよ……。自分だって、そんなこと言われたら、心が折れちゃう……」
「だから……、フラップは許せません……。でも、今の私にとって、5秒は遠すぎます……」
ヴァージンは、ついに泣き出した。異次元のランニングシューズを履いて、たしかに世界記録を2秒縮めることはできた。それでも、ウォーレットに叩き出された世界記録を奪い返すための5秒は、あまりに遠い道だった。
(涙が出てくるたびに……、私は記録を失ったって思えてくる……。意識しないはずだったのに……)
屋外10回、室内3回――ヴァージンが重ねてきた世界記録は、たった一度奪われるわけでその全てが過去のものとなる。世界記録を持って「いた」だけの人間になる。
目の前にいるカルキュレイムに聞こえるか聞こえないかの声で、ヴァージンはそこまで吐き出してしまった。
(ヒルトップさんやコーチや代理人に聞こえていたら……、怒られてしまう……)
ヴァージンは、思い切ってカルキュレイムの目を見た。その瞬間、カルキュレイムは言った。
「泣いていいんだよ。だって、グランフィールドは、何度も壁にぶち当たって、涙を流してきたじゃん」