第34話 世界最速からの陥落(6)
新しい時代を告げる歓声が、ヴァージンの耳にはっきりと聞こえた。ウォーレットの名を呼ぶ声、祝福するようにその姿を見つめる視線。最後のコーナーを回り切ろうとしていたヴァージンは、宿敵のタイムを知らずとも、このレースで何が起きたのかを、その全身で思い知った。
その時には、ヴァージンの足は、前に出ようともがくことしかできなかった。得意のスパートを見せることなく、メリアム、そしてヒーストンにもかわされた。ヴァージンは二人の背中に食らいつくこともできず、オリンピックの舞台でメダルを取ることなく、タイム14分31秒89で、女子5000mのレースを終えた。
ボロボロになったその足で、トラックの内側に出て、そこでヴァージンは初めて、新しい世界記録を見つめた。
14分04秒57 WR
(ワールド……レコード……)
電光掲示板に映し出されたタイムを見た瞬間、ヴァージンはその数字からしばらく目を離すことができなかった。そこに映る、自分の足が知ることのない「輝かしい」タイムを、ヴァージンは復唱するしかなかった。
(14分04秒57……。私ですら、見たことのない女子5000mのタイム……)
ヴァージンは、ウォーレットの姿を探した。ウォーレットは、観客席からチュータニアの国旗を受け取り、高く持ち上げながら、トラックに戻ってくるところだった。その、新たな英雄が生まれた国旗を目指して、ヴァージンは重い足を動かしていく。その足に、ほとんど力が入らない。
ウォーレットの前で、ヴァージンは止まった。ウォーレットが、喜びに満ちた表情をヴァージンに見せていた。
(何と言おう……。ウォーレットさんが目の前にいるのに、言葉が出て来ない……)
世界記録を打ち立てたとき、世界記録を手放すことになったメドゥから、ヴァージンはたしかに「おめでとう」と言われたはずだ。それは分かっていた。しかし、それ以上の言葉が思いつかなかった。
(私がずっと背負ってきた世界記録を……、譲りたくて譲ったわけじゃないのに……)
ヴァージンは、迷っていた。二つの感情が同時に生まれてきて、それを一つにまとめることができなかった。称えたくても、その言葉を言おうとして、悔しさがにじみ出る。
「ウォーレットさん……」
しばらく経って、ヴァージンはようやく一言だけウォーレットに告げた。ウォーレットの喜んだ表情は変わっていない。一つ付け加えるとすれば、彼女は決して、ヴァージンを見下すような目はしていなかった。
「グランフィールド……。私、有言実行したんだから……!」
(たしかに……、私の世界記録を奪うって……、ウォーレットさんは何度も言ってた……)
ウォーレットの言葉を聞いて、ヴァージンは少し固まった。だが、次の瞬間、その口は開いた。
「おめでとうございます……。強かったです……」
「ありがとう。やっぱり、グランフィールドがここまで築き上げた記録を上回るって……、すごく最高……!」
ヴァージンは、それ以上何も言えなかった。それだけしか、言えなかった。
「すいませんでした……。世界記録を……、守れなくて……」
ようやくまともに歩けるようになったヴァージンは、マゼラウスを見つけ、その前にゆっくりと進んだ。開口一番、彼女は言葉を詰まらせながらそう言い、その目に涙を浮かべた。
マゼラウスが対照的に、冷静な表情でヴァージンを見つめていて、ヴァージンは一度その肩を叩かれた。
「すいませんでした、というのはやめた方がいい……。お前は、懸命にウォーレットに勝負を挑んだんだから」
「はい……。それでも、ウォーレットさんは……、強すぎました……。今日は勝てる相手じゃなかったです……」
「私だって、そう思う。でも、一から出直す気持ちで、もう一回戦おうじゃないか。な」
ヴァージンは、もう一度マゼラウスに肩を叩かれ、小さくうなずいた。
(どうしてだろう……。コーチに何か言われても……、心に入っていかない……)
表彰式もインタビューもないヴァージンは、敗者としてこのスタジアムから立ち去るしかなかった。それでも、ロッカールームに入ってベンチに座ると、これまで必死で流さなかった涙を、ついにその床に流した。
「世界……、記録……っ!」
叫ぼうとしても、自身からそれが離れていくことに変わりはなかった。レースが終わり、新しい記録が出た時点で、これまでそれを何年も積み上げてきたヴァージンですら、どうすることもできなかった。
(ウォーレットさんは……、たしかに強かった……。でも、「ヘルモード」の力がなければ、こんな記録にはならなかった……!)
ヴァージンは、レースでボロボロにしてしまった「マックスチャレンジャー」を手に取った。そこには、自分を支えるエクスパフォーマの全てが詰め込まれていた。そのおかげで、より激しい勝負のできる足になったことは、ヴァージン自身がはっきりと分かっていた。だからこそ、ウォーレットも新しいシューズで速くなっているとしか思わなかった。
(そのシューズは、所詮エクスパフォーマから盗み取ったもの……。それは間違いない……!)
ヴァージンは、ベンチの上に自分のシューズを置き、それを見ながら小声で言った。
「フラップは……、最低のメーカー……。私から記録を奪う……、最低の……」
その時、ヴァージンは目の前に誰かが立ちふさがったような気がして、思わず顔を上げた。とてもオリンピックのスタジアムには似合わないフォーマルな服を着た、茶色のショートヘアを揺らす女性が立っていた。
「ど……、どなたですか……」
「あなた、いま何と言いましたか。フラップを、最低のメーカーと言いましたね」
女性の中でも相当低い声が、ロッカールームに響く。ヴァージンは立ち上がり、息を飲み込んだ。
(もしかして……、フラップの人……)
「すいません……。つい悔しくて、そう言っただけです」
「そう言いたくなるのは分かります。あなたにそう言わせるために、私たちはシューズを開発したのですから」
そう言うと、その女性は名刺を取り出し、両手でヴァージンに手渡した。
「紹介が遅れましたが、私はフラップのトラック&フィールド・エグゼクティブマネージャーのジェニス・マックァイヤと申します。フラップと契約した選手のサポートを統括する任務を任されています」
「そうですか……。なら、教えてください。ウォーレットさんの『ヘルモード』は、この『マックスチャレンジャー』から、技術の全てを奪い取ったものですか」
ヴァージンは、ベンチに置いたシューズを指差し、ウォーレットから半ば答えを知らされている質問をあえてトップにぶつけた。マックァイヤはやや目を細くして、それから軽くうなずいた。
「その通りです。でも、エクスパフォーマがあなたのシューズの素材に特許を取っているわけでもなければ、市販品が手に入らないわけでもありません。より速く、より強いシューズを作るために研究するのは、私たちの自由だと思っています」
「そんなの、自由とは言わないです……。ただの、後出しで奪っていくような……、盗みじゃないですか」
「そう言われるのは、心外ですね。あなたがどう言おうと、ウォーレットが今日のレースに勝ったことで、私たちの技術だって勝利しました。あなたとエクスパフォーマは、負けたんですよ」
紛れもない事実を、マックァイヤはヴァージンに告げた。しかし、そう片付けようとする彼女に、ヴァージンは声を震わせながら、しかし強い声で返した。
「なら……、次は私の足で……、ウォーレットさんの世界記録を、奪い取ってみせます」
そうヴァージンが言った瞬間、マックァイヤは腕を組んだ。まるで、何かストッパーが外れたように。
「あなたがそこまで言うのでしたら、私も純粋な意見で返しましょう」
「純粋……」
ヴァージンは、息を飲み込んだ。マックァイヤの口が、なめらかに動いた。
「あなたの出した世界記録は、所詮14分09秒62。ウォーレットは、それよりも5秒以上世界記録を縮めました。『マックスチャレンジャー』という、私たちから見れば技術の遅れたシューズを作るメーカーに、契約選手として頼らざるを得ないあなたに、その5秒を縮めるなんて、不可能です」
「まだ……、私は速くなれます……」
「それに、あなたからファンが去って行くでしょうね。オリンピックや世界競技会で、一度たりとも女子5000mの金メダリストになったことがないわけですから、あなたは世界記録を出す人としか思われていません。その世界記録も、あなたのものでなくなった以上、何が残っていると言うんですか」
「……っ!」
ヴァージンは、ついに言葉を返せなくなり、下を向いてベンチに座ってしまった。肩に力が入らない。
その上から、マックァイヤはヴァージンにこう言い放った。
「ヴァージン・グランフィールド。あなたはもう、落ちていくだけです」
マックァイヤは、そう言い残して立ち去った。ヴァージンは、顔を上げることすらできなかった。
(私の世界記録って……、何だったんだろう……)
大粒の涙でにじむその先に、これまで靴底からパワーを見せつけてきた、異次元のシューズがあった。そのパワーをもってしても、新たに叩き出された世界記録に遠く及ばない。それは、間違いのないことだった。