第4話 アカデミーの仲間入り(5)
その後、グラティシモのトレーニングと折り合いがつくまでの間、ヴァージンは普段のようにトレーニングルームで筋トレを行ったり、400m程度の全力疾走を何度も行ったりした。その間、コーチも前日と違って満足そうな表情で見つめていたが、逆にヴァージンの脳裏には、遠くにうっすらと見えている、自分の一番近いライバルのことばかり頭にあった。体をフルに使ってみては、遠くにグラティシモを見つめている。
「気になるのか、グラティシモのことが」
「えぇ……。あのグラティシモさんと、まさか今日ここで戦えるとは思わなかったので」
「君らしいな」
少しだけ笑ってみせるマゼラウスの表情の影にも、ヴァージンはどこか気になって仕方がなかった。
やがて、10分程度の休憩の後、ヴァージンのもとにマゼラウスが近づいてきた。マゼラウスと一緒に、長い茶髪を無造作に揺らしているフェルナンドが近づく。勝負の時だ。
「今日は、グラティシモに無理を言って、君と一緒に5000mを走ってくれることになった」
「えぇ。……ありがとうございます」
すると、マゼラウスがゆっくりとうなずく。すぐ横では、フェルナンドが手招きでグラティシモを呼び、駆け寄るようにグラティシモがこちらへと近づいてきた。足取りは軽い。
「あくまでも、今日のところは君自身のランニングフォームを学んでほしい。そんな目的で、グラティシモと一緒に走る。そこらへんの目的を失ってはいかん」
「……えぇ。でも、グラティシモさんとの勝負は、いつかやりたかったことですから」
「そうか……。今日、君を見ててそう思ったけどな」
マゼラウスの一言に、ヴァージンとフェルナンドが軽く笑うと、突然ヴァージンの目の前にグラティシモの姿が飛び込んできた。
「私、ヘレン・グラティシモ。こんな早く、あなたのライバルになれるなんて光栄ね」
「えぇ……、よろしくお願いします。グラティシモさんの実力は、雑誌で何度も見てきました」
「そう。あなたのことも、この前のジュニア大会の中継を見て知ったわ」
「ありがとうございます」
少し刺々しい口調が特徴的なグラティシモに、ヴァージンは少しずつ覚え始めてきた拙いオメガ語で返した。ヴァージンが言葉を返すなり、グラティシモは軽く笑う。その笑い方に、わずかな親近感と大きな敵対心の両方がヴァージンの中で湧き上がっていた。
(負けない……。必ず、グラティシモより前に出る!)
ヘレン・グラティシモ。オメガ生まれの有色肌のトップアスリートで、23歳のいま、女子の長距離走では世界でも常にトップ3に入るほどの実力の持ち主。世界競技会での優勝1回をはじめ、数多くの大会で優秀な成績を収めている。
5000mの自己ベストは14分31秒13。練習とは言え、ヴァージンが先日叩き出したタイムよりも30秒近くも速いグラティシモは、既に余裕の表情を見せていた。
後ろで縛り上げた金髪のヴァージン。ツインテールを爽やかそうに揺らすグラティシモ。二人の足が、同時にアカデミーのトラックのスタートラインに立った。外側に立つグラティシモを見て、ヴァージンは首をゆっくりと横に振り、自分がこれから駆け抜ける5000mの走りばかり考えていた。
「よーい……どん!」
大会と違って、ピストルの音などない。中等学校の校庭でも行われていたありふれたスタートにも、ヴァージンは力強く体を前に出した。だが、次の瞬間グラティシモの背中が、ヴァージンの目の前に映った。
(先を越された……!)
身長がヴァージンより高いからだろうか、グラティシモの体の動きは大胆で、かなり大きなストライドで走っている。一方のヴァージン自身は、懸命に両足を叩き付けながらグラティシモを追っており、足を地面につける回数も前を行くグラティシモよりも少しずつ多くなっていた。
(グラティシモ……、ゆったり走っているのに……)
間もなくスタートから3周になるが、気が付くとヴァージンの動きはかなりペースが上がっていた。後半で力を入れていく自分の走りが、ライバルを前に少しずつ乱されていく。おそらくこれが本気ではないグラティシモに、ヴァージンはどう追い抜いていこうか考えるたび、何度も首を横に振った。
「いつもの走りを見せろ!さぁ!」
自分の走りに納得できなそうなヴァージンに、マゼラウスの高い声がトラックの中から湧き上がる。だが、その頃には、ヴァージンはまだ半分も進んでいないのに、グラティシモに少しずつ引き離されてしまっていた。
結果は、実力相応だった。
「……っ!」
懸命のスパートも、グラティシモとの距離をわずかしか縮められず、半周近い差をつけられてしまった。ヴァージンは、白いゴールラインを駆け抜けるなり、コーチに抱きかかえられるまで何度も首を横に振っていた。半ば本気で走ったにも関わらず、この日のヴァージンのタイムは15分12秒と、あの大会で自ら世界に叩き出したタイムと比べれば小粒だった。
当日決まったこととは言え、調子は最高の状態まで高めてあったにも関わらず、だ。
「何もうまくいかなかった……」
ヴァージンの目にかすかに映るグラティシモは、既に呼吸を整えており、まだ足元にも及びそうにない小さなアスリートの姿を、腕を組んで眺めていた。そしてグラティシモが、思い出したかのようにヴァージンの前までゆっくりと歩み寄ってくるのに、ヴァージンは気が付いた。
「グランフィールド、これからもあなたをライバルにするわ」
「……ありがとう、ござい……ます」
回れ右をするグラティシモの姿に、どことなく温かみが見えた。これが、これから何度も顔を合わせる相手であることに対する敵対心でもあり、また礼儀のようなものでもあった。
その後すぐに、マゼラウスはヴァージンを再び建物の中に入れ、先程の小会議室に案内した。ヴァージンは、グラティシモの走りを目の当たりにして、階段を上がる間ですらそのランニングフォームを思い浮かべていた。
ヴァージンがモニター前の椅子に座るなり、マゼラウスは軽く息をついて言った。
「悪いが、私は君がこんな大差で負けたのも当然だと思っている」
「当然……」
軽々しく地面を蹴るグラティシモと、自分との差に、ヴァージンは重い首を縦に振ることしかできなかった。
「さっき、ここで私は君に何と言ったか、覚えているだろうな」
「えぇ……。シェターラさんの……膝が前に出て、地面にべったりと重心をかけているのは、長距離走に向いてないとか、言ってました」
「そう。それはよく覚えていたな」
そこまで言うと、マゼラウスはパソコンにチップを差し、モニターの電源を入れた。そこに映し出された画像は、つい数十分前に懸命にグラティシモを追いかけていたヴァージンの下半身だった。
「これ……、私……」
「君の走りを撮らせてもらったんだ、もちろん、その直前にグラティシモの走りもだ」
マゼラウスは、再生ボタンを押し、すぐに止めた。ほぼ同時に、ヴァージンは自分の口に右手を重ね、おもむろに息を飲み込んだ。左足と右足の開く角度は90度程度だが、膝のほうが足よりも前に出ていた。地面に足をつけるときも、かかとを少ししか上げずに、ほぼ靴の裏を地面に完全につけてしまっている。
「君は、たしかに地面を蹴る力が強い。体を前に出そうとする推進力だな。だが、身長の差を考えても、君のストライドはグラティシモより小さく、追いつくために足をかなりの回数地面につけなければならない」
「はい……」
「その結果、早いところで君の足が悲鳴を上げ、少しずつペースダウンし始めた。パワーはそれなりにあるから、最後は君の持ち味を出せたが、その前に足首がああなっては、効果も半減だ」
指をモニターに軽く当てて、ランニングフォームのまずさを指摘するマゼラウスに、ヴァージンは何も言えず、ただ自分の作ってしまったフォームに食い入るだけだった。すぐに画像がグラティシモのフォームに切り替わったが、そこにはこれまでに見たことのなかった走りが映し出されていた。
ヴァージンと膝の角度は同じながら、右足を膝よりも少し前に出し、しかも右足のかかとを地面につけた瞬間に、かかとだけで前に体を蹴り上げているように見える。足全体をつけてから体を前に出すよりも、素早く推進力を生み、二段階で力を入れることでその力も増す、とマゼラウスは付け加えた。
(これ……)
ヴァージンは、モニターの画像と、その走りを目の前で見たときの残像を重ね合わせた。
「だから、グラティシモさんはあんなゆったりとした走りに見えて、かなりのスピードを出せるわけですね」
「そういうことだ。短距離走では多くの人がそれをしているが、長距離走でそのフォームをできるとなると、これはかなりの武器になる」
マゼラウスは、モニターの電源を再び切り、ゆっくりとヴァージンの前に近づいてきた。そして、ヴァージンと目を合わせると、静かにこう言った。
「あと一つ、お前の根本的な弱点は、レースの組み立てができてるようで、できてないことだ」
「はい……」
中等学校の陸上部から着実にタイムを積み重ねていったヴァージンが、この言葉を耳にしたことは一度もなかった。それだけ、セントリック・アカデミーでは初めてとなる実戦で下したマゼラウスの評価は厳しかった。