第34話 世界最速からの陥落(4)
グロービス・オリンピックも後半戦に差し掛かり、メインスタジアムでは陸上のそれぞれの競技が順調に行われていた。ウォーレットとの対決になる女子5000mよりも早く、ヴァージンは女子10000mにも出場した。
ヴァージンは、最後までヒーストンに食らいついたものの、わずか3秒差で銀メダルに終わった。アメジスタ人では初となるメダルを取ったとは言え、30分台半ばのタイムも合わせ、決してその結果には喜べなかった。
(5000mの決勝は5日後……。それまでの間に気持ちを切り替えないと……)
表彰式が終わり、ヴァージンはロッカールームに向かおうとした。その時、ゴールラインと反対側に、選手が二手に分かれてスタートを待っているのが、ヴァージンの目に飛び込んできた。
(もしかして……、男子5000mが始まろうとしている……)
電光掲示板を見る限り、この日は男子5000mの予選だった。ヴァージンは、自分自身の日程以外特に気にしていなかったが、観客席に近いところからそれを見ることにした。
スターターが号砲を上げる。普段、ヴァージンが見せるように、彼らは重心を前に傾ける。しかし、次の瞬間、ヴァージンの目に留まったのは、どの選手も力強く飛び出していく、女子5000mでは考えられない世界だった。
(全く同じ距離を走るはずなのに……、男子のほうがものすごく迫力があるように見える……)
スロースタートではない。ポジションを取るときに他の選手の様子を伺うこともしない。ほぼ全員が、最初から力強く飛び出し、そこから脱落するかしないかの勝負をトラックで行っているのだった。
それを見たヴァージンは、もう3年も前にマゼラウスが言った言葉を脳裏に思い浮かべた。
――男子のほうは5000mと言えば長距離走の走り方では通用しなくなっているのは事実だ。
(長距離走のはずなのに、長距離走の走り方では通用しなくなっている……。これは間違っていない……)
ヴァージンですら、ようやく14分10秒の壁を破ったばかりだが、男子5000mの名の知れた選手は、ほとんどが12分台で勝負を決めている。決勝タイムが13分になったレースはごくわずか。ラップ62秒から63秒で一貫して強い走りを見せ、そのままゴールまで突き進んでいくことが多い。
(普通、こんなスピードで走っていたら、体が最後までもたなくなるはずなのに……、男子の有名な選手は、それを克服している……。それこそが、中距離走の走り方……)
そう考えるが早いか、ヴァージンの目の前を先頭集団が駆け抜ける。ストライドの広さ、そして着地までのスピードもヴァージンとは比べ物にならないが、それよりも足の筋肉が完全に長距離選手に見えなかった。
(5000mであれば、中距離走のフォームでも最後まで走り切れる……。男子は、それを証明した。そして……)
そこまで思い浮かべたヴァージンは、先月のケトルシティ選手権で見たウォーレットの背中を、いま予選に挑んでいる男子の背中に重ねてみせた。それは、面白いほど一致していた。
5日後に待っていたのは、実力の勝負であり、シューズメーカーの勝負であり、女子5000mの今後をも決めてしまうような勝負だった。ヴァージンは、自分自身を守るしか道はなかった。
(ウォーレットさんが……、男子5000mのような走りができるなんて、本番まで思い知りたくない)
女子5000m予選の当日、ヴァージンはそう心に決めて、あえてウォーレットの走る予選2組を見ず、わざとロッカールームで過ごしたのだ。後から結果を確認しに行くと、信じられないタイムが並んでいた。
(ウォーレットさんと……、完全に同着になってる……!)
予選は少し控えめに走ったとは言え、14分28秒56。そのタイムが、予選1組にも予選2組にも並んでいた。
(私とウォーレットさんが、予選から並んでいる……。これは明後日、本当に僅差になるかも知れない……)
ヴァージンは、1分近くその結果を見続ける。その間、ウォーレットは現れなかった。予選に出場した選手たちも、その結果に思わず息を飲み込んだのを、ヴァージンにもはっきりと聞こえていた。
世界最速を守り切る。ヴァージンの決意の炎は、勝負のスタジアムに激しく燃え上がった。
その後二日間、ヴァージンは何度もサブトラックで軽く肩慣らしをし、自らの足に自信を膨らませていった。次の世界記録を手にし、ウォーレットから逃げ切る。そのことだけを、イメージし続けた。何度もイメージした後、本番を間近に控えたヴァージンは軽く空を見上げた。
「あら、空はどっちに味方するのかしら……」
グロービスの高い空から目を地面に落とそうとしたとき、ヴァージンは背後から聞き慣れた声を聞いた。その姿を見るまでもなく、ヴァージンは自分のもとに宿敵がやってきたのだと確信した。
「ウォーレットさん……。やっぱり、ここでトレーニングをするんですね」
「勿論。新しいシューズに足を鳴らし過ぎてから、本番に挑もうとしてるの」
そう言って、ウォーレットは足を高く上げ、鮮やかな青に染まった新しいシューズをヴァージンの間近で見せた。女子5000mではまず見たことがない色どころか、街では比較的若い男性の履いているような色だった。
「重厚そうなシューズですね……。私の、燃えるような色をした『マックスチャレンジャー』とは大違いです」
「重厚そう……?そう言ってもらえるとうれしいわ。この青、フラップがパワーをイメージしたの」
「たしかに、全く折れないようなパワーが、その色からあふれ出てきそうです。でも私のシューズだって、燃えるようなパワーをはっきりと見せていると思います」
「そうかしらね……」
ウォーレットは、軽く鼻で笑うように言い、すぐにヴァージンに真剣な表情を向けた。
「これは、フラップの中・長距離兼用モデル『ヘルモード』。神話の世界で最も速いとされる神様の名前を、私のためにつけてくれたのよ。グランフィールドの『マックスチャレンジャー』を全て上回る性能を出したこのシューズに、グランフィールドは付いて行くこともできないはずよ」
「そんなことありません。最後は、実力が全てを決めると思います」
そう言って、ヴァージンはウォーレットの履く「ヘルモード」を一切目に触れないようにした。自信に満ちた言葉で世界記録に挑もうとしているウォーレットを、ヴァージンはその目だけ見た。
(このシューズだって、異次元のレベル。それを真似ただけのものを、こんな短い期間しか履いてないウォーレットさんに、扱えるわけがない……。そう、ウォーレットさんは、最速じゃない……!)
ヴァージンは、ウォーレットが遠くに行くと、もう一度自身のシューズを見た。力強い「X」の文字が、今にもウォーレットの「ヘルモード」に勝負を挑みたいと、語り掛けてくるようだった。
「それでは、女子5000mに出場する選手の方は、こちらに集合してください」
ヴァージンの目に、見慣れた顔が並ぶ。世界最高峰の舞台に、世界最速を決める女子たちが集った。ヴァージンとウォーレットの一騎打ちと言われる中に、ヒーストンやメリアム、メドゥなどの顔ぶれが並ぶ。
(誰が優勝してもおかしくないレベル……。私は、その中で記録を伸ばす)
そうヴァージンが言い聞かせたとき、モニターにヴァージンの顔が映る。スタジアムは、一気に沸き上がった。その声の高まりは普段のレース以上のように、ヴァージンには思えた。世界最速の女子長距離アスリートの、最高のパフォーマンス――世界記録の更新――を間近で見たい、という願いは、時として祈りにも聞こえる。
それだけではない。オメガのテレビでも、ヴァージンのために演出を用意している。きっと、オメガ国のどこかで偶然にその姿が映るのを見ただけでも、世界記録更新の瞬間に釘付けになるはずだ。
対して、ウォーレットがモニターに映ったときには、盛り上がりこそあったものの、ヴァージンほどの歓声は上がらなかった。それは、ヴァージンにとって心の支えになっていた。
女子5000mに挑むヴァージンは、見る者全てにとって女王だった。世界最速の脚を持つ、女王だった。
(全てを賭けたレース……。世界最高の舞台で、私は負けるわけにいかない……)
その体を支える「マックスチャレンジャー」が、ウォーレットとの勝負をずっと望んでいる。気持ちを抑え、ヴァージンはそのシューズで二、三回トラックを軽く踏みしめた。
「On Your Marks……」
ヴァージンは、一番内側に立ち、ライバルたちの表情をわずかな間だけ見た。ウォーレットだけが、心なしか落ち着いているように見え、他を気にすることなく走っていきそうな表情を浮かべていた。
(私だって……、もうウォーレットさん以外、敵はいない……)
最速を賭けた号砲が、スタジアムに鳴り響いた。