第34話 世界最速からの陥落(3)
マゼラウスが、思い出したようにヴァージンに告げたのは、ケトルシティのホテルに戻るタクシーの中だった。
「ヴァージン。最近、双眼鏡でお前の動きを見ていたのは、おそらくフラップの連中だと思う」
「やっぱり、そうだったんですか……。さっき、ウォーレットさんが、そういうニュアンスのこと言ってました」
「ウォーレットが、そう言ったのか……。そのウォーレットも、スタイン選手権で客席からお前のことを見ていたから、おそらくフラップに言われて、お前のシューズを見に行ったんだろう」
「コーチ。あの……、単純なことを聞くんですが、これっていいことなんですか」
ヴァージンは、やや顔をマゼラウスに近づけて尋ねた。マゼラウスが、首を横に振る。
「たしかに、エクスパフォーマのスタジアムに勝手に入ってくることは、規則上よくはないだろう。ただ、フラップがエクスパフォーマを超える品質のシューズを作ろうとしていることは、悪くない」
「本当に、そう思いますか……?だって、ウォーレットさん、はるかに高性能とか言ってます。中距離走のフォームに合った、もっと瞬発力のあるシューズを、向こうは作るかも知れないです。それも、後出しで」
「後出しは、否定できない。ただ、昔からフラップは、他の会社の製品でいいものを組み合わせて、新しい製品を生み出すということを、よくやっている。ヴァージンの異次元とも言えるシューズを、さらに進化させたんだ」
(メドゥさんと……、コーチは同じことを言ってる……)
たしかに、メドゥはヴァージンにそう教えてくれた。一度はフラップにモデルを作ってもらったメドゥが、フラップに好評価を持っているのは分かった。だが、これからそのフラップと「戦う」ことになるヴァージンのコーチが、本人の目の前でそれを言っているのだった。
「それは間違ってないかもしれませんが……、なんかフラップが私を潰そうって言ってる気がするんです。今日、ウォーレットの走りを見て、そう思いました」
「そうか……。ただ、当然、お前としてはそれに負けたくないだろう」
「負けたくありません。このシューズは、ライバルにすぐ追いつかれるようなシューズじゃないと信じたいです」
ヴァージンは、そう力強く言った。タクシーが左に曲がったことも、ヴァージンは気付かなかった。
「それでこそ、お前だ。前にも言ったと思うが、お前はいま、追われる立場だからな。それに、勝負を決めるのは、シューズでもブランドでもない。どちらの実力が上か。それだけだ」
「分かりました」
オメガ国内のテレビでも、世界記録へのカウントダウンが差し込まれるほど圧倒的な評価を受けていたヴァージンだったが、オリンピックが近づくにつれ、その評価が徐々に下火になっていった。開会式の2週間前、書店に積まれた「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の特別号を、ヴァージンは1冊手に取って、息を飲んだ。
――女子5000m V.グランフィールド、世界記録を守るか、それとも奪われるか。
(奪われる……。そんなわけ、ないじゃない……)
ヴァージンは、思わずページをめくろうとした。だが、ヴァージンの写真と同じサイズで載っているウォーレットの姿を見て、ヴァージンはページを動かすことができなくなってしまった。
競技の見どころとして、ヴァージンが先日のケトルシティで出した14分09秒62を、オリンピックの決勝タイムは間違いなく上回ると書かれていた。その先には、ウォーレットが本気を出せば、それを軽く超えてくるだろうとも書かれていた。しかも、ケトルシティで僅差だったウォーレットの走りを「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の執筆者は、余裕のある走りとも書いていたのだった。
(これじゃ、まるで……、私が世界記録を奪われるってことじゃない……)
ヴァージンが18歳で掴んだ、女子5000mの世界記録。アウトドアだけでその記録を10回更新し続け、5年以上もの間、常に「世界最速」の走りを見せてきた。それは、ヴァージンの代名詞ともいえる、素晴らしい記録だ。
(私は、ウォーレットさんに負けるわけにはいかない……。私が次の記録に向かって走り続ければ、私は自分の記録を守ることにもなるんだから……!)
その日から、ヴァージンはできる限りラップ69秒で走ろうと、これまでのラップ69.5秒よりも少しだけ着地のテンポを短めに取った。ケトルシティ選手権で、途中から68秒台の走りができたのだから、最初から69秒台をターゲットにしても、最後のスパートまで体を持たせることができる。そう確信していた。
だが、マゼラウスの前でそれを試したものの、コンスタントに69秒を出すことは、ほとんどできなかった。
「最初から飛ばしていくウォーレットを意識しているのは分かる。だが、ヴァージン。慣れないペースで本番に入ってはいけないだろう。お前には、スパートという強さがあるはずだ」
ヴァージンは、もっともすぎるこの評価に、首を小さく振るしかなかった。その目には、何とかウォーレットに食らいつこうとする、ヴァージンの強い意思があった。
そして、世界最大のスポーツの祭典が、グロービスの大地にやってきた。陸上競技のスタジアムにもなる、開会式の会場には、ヴァージンが一度も見たことのない、他の競技のアスリートたちがひしめき合っていた。その中には、エクスパフォーマのロゴが描かれたバッグを持っている選手が何人もいた。
(すごい……。私と一緒に戦っているブランドが、いろんな競技を手掛けている証拠だ……)
後で聞いた話だが、アロンゾの選手団などいくつかの国は、チームユニフォームをそっくりそのままエクスパフォーマが手掛けている。つまり、その国から来た全ての選手を、一つのメーカーが支えているのだった。
(私も……、走るときにはエクスパフォーマのブランドを見せながら走っている……)
その時、ヴァージンは偶然、ヒルトップの姿を見かけたのだった。ヒルトップも、ヴァージンの姿にすぐに気づき、選手たちの間をうまくすり抜けて彼女のもとに近づいてきた。
「こんな人込みの中でグランフィールド選手を見つけられるなんて、夢にも思いませんでした……」
「私もです。でも、どうして開会式の整列場所にヒルトップさんがいるんですか……」
「もちろん、ブランドの担当者としては、スポンサー契約を結ぶ選手が他のメーカーに乗り換えていないか気になってきますよ。オリンピックの舞台で、他のブランドに負けるようなことがあったら、売り上げに響きます」
「そうですね。だから私は、エクスパフォーマを背負って戦わないといけないって、思っています」
ヴァージンは、自信に満ちた言葉でヒルトップに返した。すると、ヒルトップはその口をヴァージンの耳に近づけ、誰にも聞こえないようなトーンでヴァージンに告げた。
「グランフィールド選手の、選手モデルとCM、もうできているんですよ。アメジスタの超軽量ポリエステルを使った、軽めのウェアも同時に製品化されるでしょう。そのコンセプトは、いまのグランフィールド選手です」
「いまの……、私……」
「世界最速。私どもの出す新アイテムには、このコンセプトしかありません。一番でなければ意味がないですし、その一番だからこそ戦える、世界記録に挑む姿を、ユーザーと共感してもらいたいのですよ」
そう言うとヒルトップは、マラソン・長距離向けカタログの試作品と思われるものをカバンから取り出し、ヴァージンに見せた。その瞬間、ヴァージンは思わず叫び声を上げそうになるほどに驚いた。
「キロク……・ヤブリ……。それが、テーマなんですね」
「そういうことです。『キロク*ヤブリ』という、常に限界に挑戦し続けるためのシリーズなんですよ。シューズやウェアを、グランフィールド選手と一緒に体感して頂きたいんです」
表紙には、勿論ヴァージンがトラックを駆け抜ける姿と、その力強く踏み出した脚が描かれていた。そのキャッチフレーズから生まれてくる可愛さと、記録に挑み続けるヴァージンが見せる勇敢さ。たった1ページだけでも、当のヴァージンにもそれが伝わってきた。
「ありがとうございます……。このシリーズを宣伝するために……、私は10000mと5000mで、必ず優勝します」
ヴァージンは、そう言いながら右手を力強く握りしめた。
(オリンピックという……、最高の舞台が始まる……)
入場行進の時間が近づき、ヴァージンはアメジスタの国旗を手渡される。アスリートが出ないとされてきた小さな国から、ヴァージンはたった一人で参加する。だが、たった一人とは言え、女子長距離で見る者の目をくぎ付けにする存在でもあった。
(必ず、金メダルを手にして、私を応援してくれる人々……、それにアメジスタのみんなに……、その栄光を見せてあげたい……。そのために、私は走るんだから……)
ヴァージンの決意は固まった。そして、勝負の舞台に足を踏み入れた。