第34話 世界最速からの陥落(2)
(今の私が……、ウォーレットさんに負けるわけがない……)
強い自信を、ヴァージンはレース前に何度も言い聞かせた。エクスパフォーマのシューズを履いてから、一度も対戦したことのない相手だが、自己ベストを比べるまでもなくヴァージンのほうが上だった。
スタートラインに立ったヴァージンは、この日珍しく、ライバルを一切横目で見なかった。
号砲が鳴り、一番内側からスタートしたヴァージンは、ラップ69.5秒のペースまで上げようと、その足を力強くトラックに叩きつけ、一気に加速する。
だが、その加速を食い止めるかのような勢いで、ヴァージンの右からウォーレットがいきなり勝負を仕掛ける。
(メリアムさんがよくすることなのに……!)
序盤で大きなリードを作り、後ろからついて行くライバルたちを疲れさせる戦術。それは、メリアムがレースで組み立ててきた戦術だった。だが、ウォーレットがここまで加速するのは、ヴァージンはほとんど見たことがなかった。あるとしても、途中でペースが落ち、ほぼ必ずと言っていいほど、最後にはヴァージンが追い抜いてしまうのだった。
そこまで思ったヴァージンは、少しずつその差を離していくウォーレットの背中を見て、悟った。
(途中でペースが落ちなければ……、ウォーレットさんはメリアムさん以上に強敵となるかも知れない……)
それでも、ヴァージンはペースを保ち続けた。序盤からウォーレットを追い抜こうとすれば、最後までパワーがもたないことは目に見えていた。先月のスタイン選手権の時のように、勝負を挑もうとするときは、自らの足が教えてくれるはず。そうヴァージンは信じた。
3周を終え、ウォーレットのラップタイムは68秒を少し出るペースを維持したままだった。今年に入って二度、メリアムが見せてきたラップよりも、ほんの少しだけ早いペースだ。ラップ69.5秒で走り続けるヴァージンを、1周ごとに10m近く引き離している。ヴァージンがコーナーに入ったときには、ウォーレットが直線に入るか入らないかのところまで進んでいた。
(そろそろ……、勝負してみようか……。少し早いかも知れないけど、これ以上離されてはいけない……)
まずは、ウォーレットのペースに合わせようと、ヴァージンは少しずつペースを上げようとする。69.5秒だったラップを、5周目で69秒に上げ、とりあえず様子を伺ってみることにした。
だが、2000mどころか3000mを過ぎても、ウォーレットのペースが落ちないことに、ヴァージンは気付いた。3000mを8分33秒で駆け抜けたウォーレットが、順調にトラックを進んでいく。
(ここまでペースが落ちないということは、ウォーレットさんの実力が相当上がっている……!)
そのことを気にしたヴァージンは、直線に差し掛かったとき、ウォーレットの足を少し見た。その時、ヴァージンはようやく気が付いた。
(ウォーレットさんのほうが……、力強く足を踏み出しているように見える……)
ウォーレットの走り方は、まるでヴァージンが最後の1000mに挑むときのような、次々と足を前に出していく走り方だった。ある程度のペースを上回ったときに必要となるのが瞬発力だが、その瞬発力はわずかしか続かない。400mを57秒で走ることもあるヴァージンも、残り2000mをそのペースで続けることはできなかった。
だが、ウォーレットはその瞬発力に満ちた走り方を、ここまで続けているのだった。
(いま、5000mを走っているのに……、私は中距離選手を見ているのかもしれない……)
ヴァージンは、あの日マゼラウスから言われた「完成した」という言葉を、一瞬だけ脳裏に思い浮かべた。その言葉を証明するかのように、ウォーレットはかつてないほど力強い走りを見せた。
(勝負をしてみたい……。ウォーレットさん、少しでもペースを上げたら、世界記録をも破ってしまう……)
このままウォーレットがラップ68秒を続けていれば、ヴァージンは最後のコーナーまでウォーレットにリードを許してしまいそうだ。ヴァージンは、ふとそのような予感が頭の中をよぎった。まだ本気の走りを見せるまで、2周近くはある距離だったが、ヴァージンはシューズを力強く踏み込んだ。
(ラップ68秒を……、少しでも上回るペースでいかなければ……!)
ストライドこそそのままだが、足を叩きつけるテンポが一気に変わった。勝負を仕掛けたヴァージンが、一気にギアを上げた瞬間だった。60m以上離されているところからの追撃に、ヴァージンの足はラップ68秒を軽く上回り、9周目を66秒ほどのペースで進んだ。差は15mも縮まらないが、その後さらにペースアップすれば、ウォーレットを追い抜ける計算ができるところまで、ヴァージンは追い詰めた。
ラスト1000mを11分22秒で駆け抜けたウォーレットより、ヴァージンは9秒も離されていた。だがそれでも、残り1000mの時点でのヴァージンのタイムは、スタイン選手権の時のそれを大きく上回っていた。あとは、ウォーレットと、自らの記録との勝負だった。
(ウォーレットさんは、それでも落ちないか……。なら、私のスパートで追い抜くしか、もう道はない)
ヴァージンは、さらにギアを上げ、普段から見せるラップ65秒のペースまで上げた。少しずつ足に衝撃が生まれ始めているが、残り1000mで珍しくここまで離されたヴァージンにとって、それを感じるわけにいかなかった。それどころか、残り600mを待たずに、ヴァージンはラップ60秒を切るほどにまで。さらにペースを上げた。
(あと1段……、本気の走りを見せれば、私は最後の1周に入った瞬間にウォーレットさんを抜きされる……!)
だが、ウォーレットが4600mを駆け抜けようとしたとき、その顔が一瞬だけヴァージンに振り向き、トラックの上でこの日初めて、表情を剥き出しにした。その目で8mほどの差に迫ったヴァージンを見たウォーレットは、一気にペースを上げ始めた。
それと同時に、ヴァージンは足が少しずつ重くなってくるのを感じた。ウォーレットの背中を追いかけることに夢中だったその足が、ついに悲鳴を上げ始めたのだった。ギアを、これ以上上げられない。
それでも、ヴァージンはその足に言い聞かせた。
(勝負は終わってない……。ウォーレットさんを、私はまだ抜いてない……)
ヴァージンは、足に残された力を信じ、懸命にウォーレットを追い続けた。最後の1周に突入したときに8m離れていた背中を、不完全燃焼に近いスパートで何とか攻め続け、4m、3m……と縮めてから最後のコーナーに突入した。
何一つエアーを感じなくなった足に力を入れ、ヴァージンは自分を信じた。
(抜き去る……!そうすれば、記録にだって……、手が届くはず……!)
体を傾けながら、ヴァージンはコーナーの出口でウォーレットの真横に立った。力強くトラックを叩きつけながら、ウォーレットとヴァージンが、直線で一騎打ちになる。実力の差しか、この先を左右するものはなかった。
ヴァージンの目に、ウォーレットの横顔が消えた。その瞬間に、ゴールラインに飛び込んだ。
14分09秒62 WR
(勝った……!)
ヴァージンは、スタッフがヴァージンのもとに近づいてくるのを見て、初めてその世界記録がヴァージンのものであると確信した。進化したウォーレットとは、ほとんど僅差だったが、最後は実力が上回った形だ。
直後に、ウォーレットがヴァージンに近づき、肩で呼吸をし続けながらヴァージンを称賛した。
「すごい。やっぱり、グランフィールドは……、私よりも少しだけ上……。今日のところは、そうだった……」
「ありがとうございます……。でも、ウォーレットさんだって、私がいなければ、もしかしたら記録に手が届いたかもしれませんね……」
「たぶん、間違いない。グランフィールドの、この前出した記録なら破れたと思う」
そう言うと、ウォーレットは電光掲示板に映ったヴァージンのタイムを、もう一度見た。そして、勝負に負けたはずなのに、自信に満ちた表情に変わった。そのまま、ウォーレットはヴァージンに向き直った。
(えっ……?)
口を開こうとするウォーレットの表情が、この1秒で全く変わってしまったかのように見えた。
「でも、今日のところはね。オリンピックでは、さらに本気を見せられるはず。何と言っても、フラップがその『マックスチャレンジャー』よりもはるかに高性能のギアを、私にプレゼントするみたいだから」
「すごいシューズで、オリンピックに参加するんですか……」
「勿論。中距離走にぴったりのシューズ、そして進化した私の走り。シューズがなくてこれなんだから、今日のような走りを見せれば、私は間違いなく、世界記録を出せると思う。そのために、フラップも、私も、グランフィールドのシューズを研究してきたの」
(まさか……!)
優勝した喜びが、ヴァージンから一気に消え去った。ウォーレットの言葉が連なるにつれ、ヴァージンには嫌な予感と、オリンピックへの闘志の両方が湧き上がっていた。
(オリンピックが……、世界記録を賭けた本当の勝負になる……!)