第34話 世界最速からの陥落(1)
――グロービス・オリンピック、いま注目のアスリート紹介!
7月に入ると、オメガ国内のテレビでもオリンピックのみどころ紹介が流れるようになった。体操や水泳といった個人が注目されるような種目から、バレーボールなどの団体競技まで、オメガ国内・国外問わず様々な競技の有力選手を紹介していたのだった。
トレーニングから戻ってきたヴァージンが、たまたまテレビをつけると、ちょうど陸上の有力選手を紹介していたので、バッグを部屋の隅に置き、テレビに見入った。
――男子100mの注目選手は、5月に圧倒的なタイムで優勝した、ジャニア共和国のジャン・マクベス選手です!
(オルブライトさんじゃないんだ……)
やはり、陸上では短時間で決着のつく男子100mから紹介を始めるということよりも、ヴァージンに衝撃を与えたのは、「あの」オルブライトが有力選手として紹介されないことだった。そもそも、いまテレビに映っているマクベスがオメガ国内の選手でないのに紹介されているので、文句なしに注目を集めていることになる。
――続いて、大きな注目を集めているのは、オメガの男子400m選手、ポート・シーグラウド選手です!
テレビは、さらに男子の短距離選手を伝える。オメガ出身ということもあり、その走る姿が繰り返し映像で流れており、コメンテーターもたびたび絶賛していた。その後も、マラソンや走り幅跳びなどいくつか注目選手が紹介されていくが、紹介される種目がどれも男子ばかりだった。
(やっぱり……、男子のほうが記録も出るし、注目されているのかな……)
10分待って、女子が一人も出てこないことに気付き、ヴァージンはテレビのリモコンを持ち上げかけた。すると、テレビでアナウンサーが正面を向き、口を開いた。
――最後に、世界記録への期待が高まるスーパー女子を忘れてはいけません。女子5000mで世界記録を何度も打ち破る、アメジスタのヴァージン・グランフィールド選手です!
――彼女の走りには、力強さと、記録を出してくれそうという期待が見えますね。
(うそ……。こんな形で紹介されるんだ……)
自分自身の名前を聞いた瞬間、ヴァージンは思わず震え上がった。スタートダッシュで先頭に立つ姿から、別のレースで4000mを過ぎたところでスパートをかける姿、そしてアナウンサーが「とても長距離選手とは思えない」と絶賛したスパート……。どれをとっても、ヴァージン自身の映像だということをすぐに信じられなかった。
そして、ヴァージンがテレビに釘付けになっていると、アナウンサーはモニターを指差して、こう言った。
――オリンピックの女子5000mは、うちが中継権を持っているんですが、グランフィールド選手の新しい世界記録誕生の瞬間をみんなで一つになって応援しようと、右下のタイムの下に、世界記録までのカウントダウンをつけようと思っています。このタイマーが0になる前に、グランフィールド選手がゴールを駆け抜ければ……。
(なんか……、なんかすごい中継になりそう……)
オリンピックの国際映像に合成する形で流れるこの演出は、もちろんオメガ国内でしか流れないものの、レースをテレビで見る者全てが、世界記録に立ち向かう一人のアメジスタ人に注目することになる。その期待を現実にするのが、ヴァージン自身だった。
すると、そこにガルディエールから電話がかかってきた。電話の向こうからは、ヴァージンの部屋で流れている番組が1秒くらい遅れて聞こえてきた。
「今の放送、間違いなく見てたよね。ここのテレビで、ものすごいことをやるようだ……」
「えっと……、もしかしてガルディエールさんがテレビ局に言ったとかじゃないですよね……」
ヴァージンは、その声に突然緊張を覚え、ほとんど無意識にガルディエールにそう言った。すると、ガルディエールは、電話口の向こうで少し照れながら、真面目そうな声になって返した。
「私は言った覚えないし、テレビ局にお金を払っていないスポーツエージェントがどう言ったところで、演出は変わらないと思うよ。何と言っても、世界中の人が注目する、オリンピックの中継なんだから」
「そうですよね……。でも、あんな感じで注目されると、ものすごくワクワクしてきます」
「そうだな……。エクスパフォーマに乗り換えてから、何度もタイムを伸ばしているから、今度のオリンピックは間違いなく世界記録をクリアできると思う。ものすごく、期待しているからな」
「ありがとうございます」
ヴァージンが礼を返すと、間髪おかずにガルディエールの声が電話口の向こうで響く。
「で、今日電話したのは、他でもない。エクスパフォーマから、CM第2弾のオファーが来ている」
「この前、CM撮影したばっかりじゃないですか……」
そこまで言って、ヴァージンはこの数ヵ月のことを思い返してみた。陸上用のトレーニングセンターがオープンしたのは今年2月で、その前にCM撮影のために出向いている。4月頃からはCMで見飽きるほど見ている。ようやくCMの流れる回数が減ってきたとは言え、長い期間にわたってCMが流れていたことになる。
「オリンピックまでは、ブランドの宣伝を念入りにしないといけないらしくて、今のCMが流れるけど、問題はそれが終わった9月から。オリンピックで活躍した選手のモデルを買いたい、という人が続出してくると思う」
「選手……、モデル……」
(メドゥさんも、フラップが選手モデルを作ってもらったんだっけ……)
ヴァージンは、選手モデルという言葉を耳にしたとき、スタイン選手権の前にメドゥと話したことを、発作的に思い出した。もし、ヴァージンがオリンピックで期待通りの成績を残せれば、ヴァージンのモデルのシューズが作られる可能性は十分あるはずだ。
「そこで、いまレースで履いている『マックスチャレンジャー』を、ヴァージン専用モデルとして売り出すためのCMを作ろうとしているんだ。私が聞く限り、商品化はほぼ内定しているみたいだ」
「そうなんですか……。ものすごく嬉しいです」
「それでなんだけど、走る姿やトレーニングする姿を、無意識に撮影することになっているんだ。勿論、全部材料が出てから、最後にヒルトップ開発本部長が見せるようだ。オリンピックも近いし、あまり邪魔をしてはいけないという、向こう側の意思なのかもしれない」
「分かりました。そうなると、トレーニング中も、あまり下手なことはできませんね」
ヴァージンは、そう言って電話を切った。同時に、トレーニングセンターやスタイン選手権でのスタジアムでたびたび見かけた双眼鏡の正体も、なんとなく分かったように思えた。
トレーニングでもほぼラップ69.5秒がクリアできるようになるなど、オリンピックに向けてヴァージンの調子は上がっていった。そして、その前哨戦ともいえるケトルシティ選手権がやってきた。
(7月だというのに、ケトルランドは少し蒸し暑い……)
国境を全て高い山に囲まれた小さな国、ケトルランドが、夏に蒸し暑く冬に極寒の地となる場所だと、ヴァージンは事前に心得ていたが、飛行機を降りた瞬間にそれを感じることになるとは思わなかった。トレーニングでも経験したことのない暑さで、レーシングトップスで肌が露出しているとは言え、一歩間違えればレース中に倒れかねないような気候だ。
(でも……、暑いのはライバルだって同じはず……。その中で、私が飛び抜けていけばいいんだから)
そんな心配が嘘だったように、翌日のレース当日は全く日の差さない涼しい1日で、気温よりもスタジアムで本気の勝負を繰り広げる選手たちのほうが熱くなっていたのだった。
(こんな気候だったら……、私は本気で走っちゃっていいかも知れない……)
この日のレースに、ウォーレットが出るということを、ヴァージンは様々な方面から伝えられていた。トレーニングセンターの外で、マゼラウスから「ウォーレットは完成した」と告げられてから、初めての顔合わせだ。オリンピック前で、有力選手がレースの出場を調整している中で、本当の意味でヴァージンの対抗馬になるのは、この日はウォーレット一人だけだった。
(今日も、本番も、ウォーレットさんには絶対に勝つ。私は、強いシューズと一緒に戦ってるんだから)
そう心に決めたヴァージンが、スタジアムのサブトラックの横を通り過ぎた。すると、聞き慣れた声が響いた。
「ようやく、グランフィールドを追い抜く瞬間が来たようね。今日は本気になるから」
「ウォーレットさん……」
本番の何時間も前に会場入りすることの多いヴァージンより、さらに1時間も早くからウォーレットはそこにいたのだった。まじまじとヴァージンを見つめるその目が、フォームを改めた何よりの自信になっているように、この時のヴァージンには思えた。