第33話 ブランドの力 己の力(6)
スタートラインに立つヴァージンがいつものようにモニターに映ると、大きな歓声が沸き上がった。多くの視線がその体に注がれる中、ヴァージンは細い目で正面を見つめながら、自分に言い聞かせた。
(Break the 1410……!今の私なら、きっとできるはず……!)
号砲が鳴る。メリアムが先に飛び出し、メドゥもヴァージンとほぼ同じストライドで最初の一歩を踏み出したように見えた。これが、これまで何度も対戦して、見慣れた光景だった。
(でも……、このシューズと戦う私は違う……。メリアムさんに、そんな離されない……)
2ヵ月前、エンブレイム選手権でも同じようにメリアムに食らいついていこうとした。だが、途中で普段のペースを意識し始め、結果目標のタイムに届かなかった。だからこそ、今回はエンブレイムのとき以上に、メリアムを早めに追い抜くことを、ヴァージンはその足に叩き込ませていた。
1周が終わり、あの時と同じ8mほどの差。ここで、ヴァージンはこの1ヵ月の間トレーニングで続けてきたように、ラップ69秒近くまでペースを上げていく。メリアムは、スタートこそラップ68秒から69秒のペースで駆けていたが、2周目はほぼ69秒に落ち着かせている。
(そこまで逃げ切らないのなら……、私は早いうちに追い抜けるかもしれない……!)
そう思ったとき、ヴァージンは少しだけ足が軽くなったように思えた。何一つ衝撃を感じないその足は、目の前にいるライバルを、あの時と同じように追い抜いて「みたく」なったのだ。
(今度は……、少しだけ積極的に出てみよう……)
ヴァージンは、この段階でペースを上げることはしなかったが、むしろいつも以上にラップ69.5秒のスピードをキープすることにした。
(このストライドで、このテンポで叩きつければ、2周で2分19秒になるはず……!)
少しずつメリアムに離されているものの、ヴァージンは自分の実力と相談し、序盤はトレーニングと同じように走ることを意識した。3周目が終わったとき、後ろについていた3位集団は、メドゥも含めて、ヴァージンの耳にその足音がほとんど聞こえなくなった、
(そして、最後まで耐えられるようになったら……、ペースを上げていく。メリアムさんに食らいつく!)
4周、5周とラップタイムを守り、そしておよそ半分となる6周を体感的に6分58秒ほどで通過した。だが、エンブレイム選手権のときと違い、メリアムのペースがラップ69秒を下にして、そこから落ちていかない。この時点で、メリアムとは25mほどの差になっているように、ヴァージンの目には見えた。
そこで、ヴァージンは「マックスチャレンジャー」の底を勢いよくトラックに叩きつけた。
(勝負をしたく……なってきた……!)
まだ、勝負の4000mまではかなり距離がある。それでも、そう言い聞かせたヴァージンの足は戦闘態勢へと入った。メリアムを追い抜き、記録に向かって独走状態に入るため、ヴァージンはここでペースアップした。
(ラップ69秒を少しだけ上回るペース……。これでメリアムさんとの距離を、少しずつ縮める……!)
ヴァージンの足は順調にスピードを上げ、7周、8周……と5mずつ、メリアムとの差を縮めていった。メリアムも、ヴァージンのスピードアップに気が付いたのか、体の重心を前に傾けて引き離しにかかるが、ペースが上がっていかない。そして、10周目の最後のカーブを曲がったとき、ヴァージンは手の届くところまでメリアムを追い詰めた。
(まだ、足の裏が悲鳴を上げていない……。少し衝撃を感じるくらい……)
4000mを、体感的に11分35秒ほどで駆け抜けたヴァージンは、直後のコーナーでメリアムを捕らえた。一気にスパートをかけ、短いテンポで着地するヴァージンが、メリアムをあっさりと追い抜いていく。それでも、シューズに宿ったパワーが衰えることはなく、むしろヴァージンが得意としているスパートを支えているかのようだ。
ヴァージンと、エクスパフォーマのシューズは、一緒になって戦っていた。
(たぶん、私は手が届くはず……。自分の目標としているはずのタイムに……!)
4400mを過ぎ、ヴァージンはさらにペースを上げ、コーナーを駆け抜けたときにはトップスピードまで達しようとしていた。残り1周を鐘の音と同時に、ヴァージンの目に飛び込んできた記録計には、13分11秒というタイムが飛び込んでくる。当然、ヴァージンの出した結論は「Go」だった。
(トップスピード……!)
「マックスチャレンジャー」のエアーが、ヴァージンの動きに合わさるように働き、少しだけだが衝撃を和らげ、次の一歩へのパワーをその足に蓄えていく。エクスパフォーマの技術と、ヴァージン自身の実力が、トラックを力強く駆ける。
ゴールラインが見えたとき、ヴァージンは心の中でこう叫びながら、そこに飛び込んでいった。
――Break the 1410……!
14分09秒78 WR
大きな歓声とともに、記録計とモニターに映し出された、女子5000mの新しい世界記録。そのタイムが目に飛び込んできたとき、ヴァージンは記録計の前で、叫ぶような声を上げ、全身でそのタイムに喜びの表情を見せた。
これまで、世界のどの女性も打ち破れなかった14分10秒の壁。それを破ったのは、14分20秒の壁を破った女性と同じ、ヴァージンだった。そこが、新しいシューズに身を包んだ彼女の到達点であり、通過点だった。
そして、マゼラウスが教えてくれた通り、ラップ69秒にまで高められれば、大きな壁に挑戦できるのだった。
(私……、もしかしたらもっと上に行けるかも知れない……。今度の壁は、たぶん厚すぎるけど……、今の私なら、何とでもなるのかも知れない……!)
その時、20秒近く遅れて、メリアムがゴールラインに飛び込んできた。エンブレイム選手権と全く同じ展開に悔しがるような表情を浮かべながらも、メリアムは新しい世界記録に目をやって、ヴァージンに飛び込んだ。
「とうとう14分10秒を破ったわね、グランフィールド。おめでとう」
「ありがとうございます……。私も、少しずつ進歩しないといけないですから……!」
「グランフィールドは、そう言ってのけるけど。陸上選手にとって、0コンマ1秒でもその進歩は大きいから」
メリアムは、横一線でゴールすることの多い1500mの世界を思い浮かべながら、ヴァージンに言った。
「そうなると、たぶん縮めた世界記録は0秒51ですけど……、大きいってことなんですね」
「そうよ。でも……、まだまだ私だって世界記録を狙えるし、次はグランフィールドより前に出て、世界記録を打ち立ててみせるわ」
「それ言ったら、私も……」
聞き慣れた声のするほうに振り向くと、ヴァージンの目にメドゥの姿が飛び込んできた。メドゥは、ヴァージンよりも30秒以上遅れてしまい、自己ベストにもほど遠いタイムで終わってしまった。
「メドゥさんも……、やっぱり記録を気にされるんですね」
「そうね。過去の栄光に縛られたくないし、やっぱり元世界記録保持者の『元』という一言が辛いの……」
「そうですよね……。私だって、そうなったら悲しくなります。何度も記録を叩き出してるんですもの」
そう言うと、ヴァージンは軽く笑ってみせた。そして、頭の中でヴァージンの叩き出した世界記録の数を数え始めた。
「そう言えば……、アウトドアでの記録更新、9回目かも知れないですね……」
「9回目……?次、WRの文字を見たら、とうとう10回目じゃない!」
ヴァージンの一言に、メドゥが食らいつく。メリアムも驚きの表情を隠せない様子だ。
「はい……。インドアでもたしか3回、世界記録を塗り替えてますけど……、やっぱりアウトドアのほうが注目されますものね……」
「そうなると、10回目は……、オリンピックという最高の舞台になりそうね」
「アスリートに、余計な緊張を与えないでください、メドゥさん」
ヴァージンが言うと、残り二人は軽く笑った。一方、言葉を言い終えたヴァージンの目に、あの日トレーニングセンターで見かけた双眼鏡が飛び込んできた。客席の一番下のレベルから、ヴァージンをじっと観察している。
そして、その双眼鏡から顔を覗かせていた人物に、ヴァージンは息を飲み込んだ。
(あの顔……、あの茶色っぽい肌……、もしかして……、ウォーレットさん……?)
そんなはずがない、とヴァージンは強く心に誓った。そもそもチュータニア出身の彼女が隣国での選手権に出場せず、双眼鏡で覗いていることなど、まずありえない。それに、トレーニングウェアじゃなく、街にショッピングに行くようなカジュアルな服装だった。
(人違いだといいんだけど……)
ヴァージンに悪夢が訪れることを、まるで誰かが予言しているかのようだった、
それが最悪の形でやって来ようとは、この時ヴァージンは思いもしなかった。