第33話 ブランドの力 己の力(5)
(やっぱり、シューズの力だけじゃ、私にだって限界が来る……)
「マックスチャレンジャー」を履いて、初めてレースで敗れた次の日には、ヴァージンはエクスパフォーマのトレーニングセンターにいた。マゼラウスと待ち合わせた時間よりも30分以上早く到着し、本番とほとんど変わらないトラックの上でストレッチを始めていた。
だが、一通りストレッチが終わったとき、ヴァージンは遠くから誰かに視線を見つめられる感じがした。
(誰かが、私のほうを見ている……?なんか、そういうような気配がする……)
これまで、何年にもわたってトレーニングを積み重ねてきたヴァージンが、ここまで集中力を欠くのは初めてだった。たしかに、ストレッチの最中、何度か双眼鏡のようなものが目に飛び込み、その先が絶えずヴァージン自身に向いていた。それでも気になったのは、その双眼鏡を持っている人が見ず知らずの人だったからだ。
(エクスパフォーマの偉い人でも視察に来たのかな……)
「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のブランドを立ち上げて数ヵ月、スポーツ専門店でも少しずつだがエクスパフォーマの取り扱いスペースが増え、CMで流れているヴァージンの本気の顔を切り取ったポップまで置かれている。売れ行きが好調だという話はヒルトップから入ってきたわけではないが、決してブランドのスタートとして悪くない。
そうだとすれば、エクスパフォーマの偉い人が専属契約選手の視察に来ることなどあり得ないのだ。
(じゃあいったい……、誰が私のことを見ているんだろう……)
やがて、この日もエクスパフォーマとスポンサー契約を結ぶ選手たちが次々とトレーニングセンターにやってくる。すると、遠くからヴァージンばかり眺めていた双眼鏡も、いつの間にか姿を消していた。
(それにしても、一体誰だろう……。もし、ライバルと関係がある人だったら嫌だな……)
「ヴァージンよ。昨日のレースを見る限り、このシューズを使いこなすのがまだまだ難しいようだな」
トレーニングセンターに入り、ヴァージンの前に立ったマゼラウスは、開口一番こう言った。
「はい……。力を抑えすぎてもダメだし、入れすぎても自分のほうがもたなくなってしまいます……」
「結局、あまりシューズの意志に流されてはいけないということだ。だから、今日からはまたラップを意識して走ってみよう。最後の勝負で、足にたまっている力を吐き出したほうが、うまくいくかも知れない」
「はい」
「だが、今のヴァージンをラップ70秒に戻すつもりは全くない。意識して欲しいのは、ラップ69秒だ」
ヴァージンは、69という言葉を聞いた瞬間、トレーニングシューズを思わず震わせた。少なくとも、70秒で走り続けても、ほとんど足に負担が来ない。絶えず69秒で走り続けることは、今のヴァージンと、彼女の持つ記録の更新にとって最低限必要な水準に他ならなかった。
「69秒……。今の私には、難しくないかも知れません」
「本当にそうか。1周でも70秒になっては意味がないんだからな」
マゼラウスが念を押すと、ヴァージンはそれでも大きくうなずいた。
「69秒で走り続ければ、いま計算したら14分22~23秒でゴールできますね。それに私が、いつものスパートをかければ、たぶん14分03秒とか……」
(14分03秒……!?)
ヴァージンは、頭の中で計算し終えた瞬間、思わず口に手を当てた。計算が間違っていないか、ヴァージンはもう一度頭の中で計算を始めたが、最後の65、31、57という数字を足した瞬間に身震いすらしたのだった。
「コーチ、これ、もしかして……、14分10秒どころの話じゃなくなっているような気がします……!」
「そう。お前もまだ見たことのない世界を、自分の力で引き寄せるんだ。もし69秒で余裕ができれば、次にお前に待っているのは……、分かるな……」
ヴァージンは、マゼラウスの低くなった声に小さくうなずいた。ついに女子5000mの世界記録が、分の単位まで変わってしまう可能性をも、マゼラウスは示唆していたのだった。
「正直なことを言えば、ずっと70秒を意識してきたお前が、そこまで急に69秒に切り替われるとは思えない。シューズに動かされてペースアップしたレースだってあったようだからな。だが、あくまでも今後はそれを意識して欲しいということだ。そうすれば、道は開く」
「分かりました」
マゼラウスは、完全にラップ69秒にするのではなく、まずはラップ70秒ちょうどになったら不合格とするラップトレーニングをヴァージンに与えた。それが徐々に足切りタイムを短くし、3周で3分28秒、2周で2分19秒……というように、ラップタイムを少しずつだが69秒に近づけようとした。
結局、1ヵ月ほどかけてトレーニングを重ねた結果、ヴァージンは何とかラップ69.5秒を下回らないタイムで4000mまで走り抜け、そこから満足のいくスパートを見せることができた。
(Break the 1410……。ここまでラップを上げたら、私は、14分ゼロ秒台で走り切れるはず……!)
ヴァージンは、トレーニングで世界記録にあと2秒まで迫るタイムを出した時、はっきりとそう確信した。
6月、その14分10秒の壁に挑戦するときがやって来た。場所は、因縁の場所、アフラリのスタイン。今回はこの場所でのレースを待つことなく、ヴァージンが特例枠でオリンピックに出場できることにはなっているが、できればこの場所で待つライバルを追い抜いて、本番に臨みたい。そう思っていた。
だが、その期待はもろくも崩れ去ってしまった。
(メリアムさんやメドゥさんはいるのに……、ウォーレットさんがエントリーしていない……?)
ヴァージンは、受付で女子5000mの出場選手を何度か見返した。だが、モニカという名前すら載っていない。
(ウォーレットさんなら、国が近いから間違いなくここに来ると思っていたのに……、どうしたんだろう)
何度探しても、ヴァージンが求めている選手の名前が出てこず、受付の目線を気にして、ヴァージンはついに首を上げた。ウォーレットのいないスタイン選手権に少しだけため息をつく。
(でも、序盤から飛ばすメリアムさんがいるし……、ウォーレットさんが強いライバルになっているかも知れないと考えたら……、追ってくるウォーレットさんをここで引き離すことができるかもしれない……)
一度首を横に振ったヴァージンは、やや早足でロッカールームに入った。
「ヴァージンが出てるCMで見るやつじゃない、これ……」
ロッカールームでヴァージンはメドゥと出会う。エクスパフォーマの専属契約選手になってから、二人が一緒のレースに出るのは初めてのことで、ヴァージンの履いているシューズをメドゥはじっと見ていた。
「そうです。このシューズ、私のために作ってもらっているみたいで……、すごく力強いんです」
「それは私が、昔通ってきた道ね……。選手モデルを作ってもらった……」
「メドゥさんのモデルを作ってもらったんですか……?」
「そう。世界記録を手に入れたときに、昔いたスポーツブランド、フラップに作ってもらったの」
(フラップ……。いま、ウォーレットさんが契約しているところだ……)
その名を聞いて、ヴァージンはメドゥに見えないように肩を上げた。それでも、驚いているヴァージンに気付くことなく、メドゥは選手モデルの話を続けていた。
「フラップは……、昔から他社の製品で素材のいいものを組み合わせて、新しいシューズやウェアを作るのが得意よ。でも、そんな会社だけど、私モデルのシューズはそんなこと全然意識しないくらい、別物だったのよ」
「そうだったんですか……。メドゥさんのために、しっかりとしたものを作った証拠ですよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ。でも、私がフラップをやめることになって……、当然メドゥモデルの販売も中止になったの。ほとんど売れてないし、オークションでプレミアがつくこともなかった……」
(選手モデルって……、言われているほど売れるものじゃないのかな……)
エクスパフォーマから、選手モデルを作るという話は聞いている。CMでも名を売っているヴァージンも、そう遠くない未来に自身のモデルが発売になるという期待に、これまで溺れていたといっても過言ではない。だが、メドゥの話を聞いている限り、現実は甘くないような気がした。
それでも、メドゥは最後にこう綴った。
「選手モデルの売れ行きって、結局その選手に対する憧れだと思うのよ。たぶん、私なんかよりも何度も世界記録を更新しているヴァージンのほうが、憧れは大きいと思う」
そう言った後、トラックで、と言い残してメドゥはヴァージンから離れていった。
だが、その時にメドゥが言った言葉に、ところどころ重要なキーワードが含まれていたことに、このときのヴァージンは気付かなかった。