第33話 ブランドの力 己の力(4)
5月、リングフォレストのスタジアムに入ろうとしたとき、ヴァージンはヒーストンと目が合った。ヒーストンが先に気付いたようで、ヴァージンの目にヒーストンの姿が飛び込んだ時には、既に10mも離れていなかった。
「ヒーストンさん……。トレーニングセンターで全然合わないと思ったら、今日レースに出るんですね」
「そうね。グランフィールドが、この時間に来るということは……、もしかして10000でしょ」
「はい。オリンピックで、5000と10000両方で金メダル取りたいんで、10000も試さないといけないです」
ヴァージンは、自信たっぷりとも受け取れる口調で、ヒーストンに笑顔を見せた。すると、ヒーストンは何度か小刻みに首を縦に振って、落ち着いた表情に戻してからヴァージンに言う。
「グランフィールドは、きっと女子10000mでも世界女王みたいな存在になるのかもしれない。世界競技会であれだけのタイムを出したわけだし、あれでみんなの見る目が変わった」
「そんなことないですよ……。世界記録だって破れなかったんだし、5000mの時とは、全然違います。それに、10000mだとヒーストンさんのほうが格上に見えて、私はまだその下にいる挑戦者だと思うんです」
「そう思ってるのね……、グランフィールドは。でも、私は今日、世界競技会のリベンジに来たと思っているの。今の時点では、私のほうが格下。だから、ひっくり返すの」
「分かりました……。レースが、ますます楽しくなってきました」
ヴァージンは、ヒーストンに大きくうなずいて、勝負に勝つことを誓った。「マックスチャレンジャー」を履く、どちらの「挑戦者」が、リングフォレストのトラックを早く25周駆け抜けるか、二人は夢を見ていた。
ヴァージンとヒーストン、それに世界競技会ではヴァージンが1分以上の差をつけて勝利したエクスタリアらが、スタートラインに並んだ。それでも、ヴァージンの目には、もはやヒーストンしか映っていなかった。
そして、5000mの時ほどではないにしても、ちらほら見える世界記録への期待を込めたプラカードも見える。
「On Your Marks……」
号砲とともに、ヴァージンは軽いストライドでトラックへと踏みだした。新しいシューズを履くようになって、トレーニングで何度も意識してきたはずのラップ75秒では、ヴァージンにとってやや遅い。そこで、ヴァージンは最初からラップ73秒で飛び出し、様子を見ることにしたのだった。
(73秒だったら……、たぶん最後世界記録まで届きそうな気がする……!)
ラップ73秒とは言え、普段からそれよりも少し速いペースでスタートする5000mに比べればゆったり走っているように、ヴァージンは感じた。25周のレースの組み立ても、トラックに足を叩きつけながらできるほどだ。
(全然、足が余裕を感じている……。シューズの力だと思っていたけど、これが私の走り続けてきた力……)
そう思いながら、ヴァージンは1周、2周とトラックを駆け、2位集団の足音を聞く。ところが、世界競技会の時には積極的に前に出たヒーストンやエクスタリアが、この日は全くと言っていいほど序盤から振り切らない。まるで、レースを引っ張っていくのがヴァージンであると、暗黙の了解でそう教えているかのようだ。
(この前は、ヒーストンさんに追いつこうと思って、6000mから無理をしたんだっけ……)
追う相手がいないことに気付き、ヴァージンはかすかに首を横に振った。それでも、シューズの持っている力に逆らってまで、ペースは落としたくなかった。
(このまま73秒で行こう……。私がこのペースで走り続ければ、後ろだってきっと食らいついてくる)
3周を過ぎ、ヴァージンはコーナーから後ろをわずかに見る。案の定、その二人だけが背後についていた。
(この二人は……、どこで出ようとしているんだろう……)
ヴァージンは、その後6000mまでほぼラップ73秒のペースを貫きながら走った。だが、序盤はシューズに強いパワーを感じていたヴァージンも、歩数を重ねるにつれ、少しずつそのパワーがしぼみはじめるのに気付いた。
(足に……少しだけ衝撃が走るようになった……。でも、ここから限界に向かっていけるのが、私のはず……)
ラップ73秒でここまで走り続けたことは、ヴァージンはトレーニングでも一度ぐらいしかない。エアーがそこまで足に感じられなくなり、トラックを踏むとわずかながら衝撃を覚える、その瞬間がこれまでよりも早く訪れようとしていた。
(このシューズを履く前は、6000mでこんな感じになっていた……。だから、まだいけるはず……)
16周目に突入したヴァージンは、体を傾けながらカーブを曲がった。そして、体を戻した時だった。
(エクスタリアさん……!)
ヴァージンの真横に、エクスタリアが躍り出ていた。それも、ほとんど足音を加速させることなく。エクスタリアが、ペースの上がらないヴァージンに大きなストライドで仕掛けてきたのだった。
オレンジ色の髪が、瞬く間にヴァージンの横を過ぎ、そしてヴァージンの斜め前に映り始めた。そのとき初めて、ヴァージンは足を叩きつける間隔が、最初に飛び出した時よりも緩やかになっていることに気付いた。ちょうど、そのテンポでエクスタリアが駆け抜けていくのだった。
(足にエアーを感じなくなってから……、無意識のうちにペースを落としてしまった……)
このままじゃいけない。ヴァージンはシューズを力強くトラックに叩きつける。しかし、その強い一歩がかえって足の衝撃を増やしてしまう。「マックスチャレンジャー」を履いて、ここまでエアーを感じなかった一歩は、ヴァージンにとっては初めてだった。
(シューズのアドバンテージがなくなり始めている……。なら、ここは私が動き出すしかない……)
ヴァージンは、少しずつ引き離していくエクスタリアを、目を細くしながら見つめた。まだ5mほどしか離れていない。スピードを取り戻せれば、余裕で勝つことができる距離だ。
ヴァージンは、体の重心をやや前に傾け、わずかながらペースを上げた。その時だった。
(ヒーストンさんまで勝負を仕掛けてくる……)
エクスタリアに抜かれた1周で、背後の足音が大きくなっていたことを、ヴァージンはようやく思い知った。同じブランドのシューズが、瞬く間に真横に並ぶ。ラップ73秒を意識しているのにスピードに乗れないヴァージンと、ここにいてラップ73秒を意識し始めたヒーストン。ヴァージンが振り切ろうとしても、ヒーストンよりも前に出る余裕は、ヴァージンの足になくなっていた。
(あと3000m以上ある……。ここから先は、私が二人にどれだけ耐えられるか……)
そうヴァージンが心に言い聞かせたとき、直線に入ったヒーストンが一気にヴァージンの前に割って入った。赤い髪を空の青に輝かせながら、ヒーストンはその後ろ姿をヴァージンに見せた。
(でも、まだ3000mもある……。私の足に、まだパワーが残っているはず……!)
しかし、ヴァージンのスピードは、意識するほどアップしきれなかった。ラップ73秒のペースを取り戻そうとすると、シューズを踏むときに衝撃が走り、そのスピードを持続させられない。それでも無理してペースを上げようとすると、ヴァージンが何度も見せつけてきたスパートまで、足の力がもたなくなってしまうように思えた。
世界競技会のときと違って、ヴァージンは少しずつ離れていくライバルの姿を、苦しい走りで追い続けなければならなかった。29分57秒29の10000m世界記録どころか、体感的には30分台も危なくなり始めていた。
(せめて、スパートで前の二人に追いつけることができれば……!)
最後1000m、トップのエクスタリアにヒーストンが並ぶ。ヴァージンはその段階で100m近く離されていた。そこからようやくペースアップしようと足に力を入れたが、そのスパートもほとんど不完全燃焼だ。ラップ70秒まで上げるのがせいぜいで、差を縮めることなどほとんどできなかった。
「ヒーストンさん……。今日は、私の負けです……」
ヴァージンは、ゴールラインを駆け抜けると、ほとんど言うことの利かないシューズを奮い立たせ、ヒーストンのもとに向かった。最後の最後でエクスタリアを振り切ったヒーストンは、ヴァージンに笑顔を見せた。
「完全に、失速したようね……。グランフィールド、シューズの力を過信しすぎていた?」
「たぶん……、そうです……。ちょっと、最初から無理しすぎたと思います」
ヴァージンが30分52秒78というタイムで終わってしまった原因を、ヴァージンは言われなくても分かっていた。パワーを持っているはずの「マックスチャレンジャー」を、ここまでボロボロにしてしまったのだから。
「でも、グランフィールドは世界記録を取りたいって思いながら、最初走れていたと思う。世界競技会みたいな展開だったら、たぶん私のほうが……負けてた」
そう言うと、ヒーストンはヴァージンの手を取り、握手を交わした。ヒーストンの足を支える「マックスチャレンジャー」が、この時のヴァージンには大きく見えた。