第33話 ブランドの力 己の力(3)
「よくやったけど、惜しかったな……」
スタジアムの外で待っていたマゼラウスは、ヴァージンに一言こう言った。その表情は決して喜んでいるわけでも、また落胆しているわけでもなかった。その目だけは、じっとヴァージンを見ていた。
「はい……。目標に届かなかった原因は分かっています……」
「ヴァージンも自覚しているんだな……」
「はい。シューズが、まだ勝負できるって言ってるのに……、トレーニングで意識するようなラップ70秒を、かたくなに守り続けてしまったことだと思うんです……。あそこで躊躇しなければ、と思っています」
ヴァージンは、短めにそう言った。すると、マゼラウスが一度、二度唸り、それから言った。
「ヴァージンよ。おそらく、それはシューズがそう言ってるんじゃないと思う」
「シューズが言ってるわけじゃ……、ないんですか……」
このときヴァージンは、レーシング用のシューズではなく、トレーニング用の「マックスチャレンジャー」を履いていた。レースを終えて1時間も経っていないのに、その足に力が宿っているような気がした。
「今まで何度か、お前がエクスパフォーマのシューズを絶賛しているのを見て、薄々気にはしていた。シューズの力でタイムが良くなったとか、シューズの力で足が軽くなったとか……。だが、本当にそうなのか」
マゼラウスは、腕を組みそう綴った。ヴァージンは、首を横に振ることもできず、じっと話を聞くだけだった。
「何度も話してきたと思うが、お前には実力がある。その足で、世界記録を塗り替えてしまうくらいの実力だ。だからこそ、本当に力が湧いてくるようになったのは、お前がこれまでずっと鍛えられているせいだと思う」
「鍛えられている……」
「そうだ。たしかに、このシューズを履くことによって、トラックを踏む感触が変わるとか、次の一歩に多少の力を与えるのは、間違っていないと思う。それはエクスパフォーマが、お前のためにパワーのあるシューズを作ったのだから、ある意味当然のことだと思う。それは、お前だって分かっているはずだ」
マゼラウスは、小さくうなずきながら、ヴァージンに同意を求める。戸惑いの表情になりかけていたヴァージンは、その表情を崩すように、首を小さく縦に振った。
「だが、結局走るのはお前の足なんだ。シューズがひとりでに走っていくわけじゃない。こんなにいいシューズを作ってくれたのだから、それをどう自分の足に生かしていくのか。それが、お前の務めだと思う」
「そうですね……。なんか、パワーを感じるとか、もっと走ってみたいとか……、このシューズを履いてから思うようになってきましたが……、もっともっとシューズと一心同体にならないといけないんですよね……」
「そうだ。だからお前に言っておく。……シューズに、頼りすぎるなと。頼りすぎていると、いつか限界が来る」
「分かりました」
そう言うと、マゼラウスはヴァージンの肩をポンと叩き、大きくうなずいた。
「オリンピックまで、まだ時間はある。少しずつでもいいから、前に進め」
マゼラウスは、ゆっくりと歩き出した。ヴァージンも、やや遅れて歩きだし、ホテルへと向かうタクシーにマゼラウスと一緒に飛び乗った。
(私には、次があるんだから……。それにたった0秒29だから……)
ヴァージンは、最後にもう一度「マックスチャレンジャー」を見た。そして、誓った。
8月のオリンピック本番までに、ヴァージンに残されたレースは、10000mを含めてあと3回。帰宅後、代理人ガルディエールからそう告げられた。5月にオメガ国内のリングフォレストで10000m、6月にアフラリに行ってスタイン選手権、そして7月にはオリンピック前哨戦とも言える、ケトルランドでのケトルシティ選手権。ヴァージンに用意されていたのは、オリンピックで5000mと10000mの2冠を取るための道だった。
(私は、6月のスタインを一つの目標にしたい……。4年間の進化を、ウォーレットさんに見せたいから)
スタインという名前を聞いたとき、ヴァージンは心の中ではっきりとそう誓った、この、たった一度の勝負でウォーレットをあと少しのところで追い抜けなかったことで、その年のオリンピックを逃したからだ。
(あの時は、今までで一、二を争うくらい悔しかった……。でも、すぐに4年後に見返してやろうと思った……。その間、いろんなことがあったけど、もう一度オリンピック前のスタインで、ウォーレットさんと勝負できる)
ヴァージンは、右手をグッと握りしめた。
その後1ヵ月、ヴァージンはイーストブリッジ大学とエクスパフォーマのトレーニングセンターを行き来する日々が続いた。セントリックと違い、トレーニングをする時間に制限はないため、専属契約を結ぶヴァージンはいつでもそのトラックに足を踏み入れることができた。
この日、ヴァージンが大学の講義に向かうため、マゼラウスは4時間ほどトレーニングセンターで一人になっていた。もうすぐヴァージンが戻ってくるという時間になったとき、ウォーレットの代理人であるストレームが、トレーニングセンターの外周道路に立っているのが、マゼラウスの目に見えた。
「ヴァージン・グランフィールドは、トレーニングしていないのか」
「ヴァージンなら、大学に行っている。ストレームよ、どうしてここに来た」
すると、ストレームがその言葉にはっきりとした口調で返す。
「絶対に追い抜けるはずのライバルのフォームを、遠くからでも見たいからな」
「そんなの、レースでいくらでも見れるだろう。だいいち、エクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいないウォーレットが、ここに入ってくることもできないはずだ」
「分かってるさ。だが、それを覚悟で、このトレーニングセンターを時折視察に着ている。そもそも、これは自分の意志でも、ウォーレットの要望でもない。ウォーレットが専属契約を結ぶ、フラップの上層部からの命令だ」
「フラップの上層部……、だと……」
フラップとは、新規参入したエクスパフォーマとは違い、もう20年以上も陸上のシューズを製造し、今もなお陸上シューズでは世界のトップシェアを誇るスポーツメーカーだ。フラップが、ウォーレットと専属契約を結んだのは約3年前だが、ヴァージンがそれに立ち向かうスポーツメーカーと契約を結ぶまでは、マゼラウスを含めてそれを意識することがなかった。
それが、この一言で一気に対抗心を剥き出しにしてきたように、マゼラウスには思えた。
「どういうことだ……。私と、エクスパフォーマの選手を、レースの外で徹底マークされるのは心外だな」
「ブランドとして勝つためには仕方がない。徹底研究して、積み重ねたデータをもとにウォーレットだけのモデルを作り……、それでヴァージン・グランフィールドに勝つ。それも、大差でな」
「それはない。今、ヴァージンはどんどんタイムを伸ばしていける。そう信じている」
「それは、こっちのセリフだ。そっちの戦術は、デビュー以来全く変わっていない。こっちは……、完成した」
(ストレームさん……!)
その時、大学から早足で戻ってきたヴァージンが、二人の姿を遠くに見た。それどころか、最後にストレームが何と話したかまで、はっきりとではなかったが聞いてしまったのだ。
「来たようだな……。フラップが、絶対に追い抜かなければいけない選手がな」
「トレーニングを、勝手に覗かれては困る。出てってくれないか。勝負は、スタジアムで行うものだ」
(コーチの言う通りだと思う……)
マゼラウスが、かたくなにそう断ると、ストレームは首を横に振って、その後後ろを振り向き、もと来た道を歩き出した。それを待って、ヴァージンがマゼラウスのところに駆け寄った。
「ストレームさんと、何かあったんですか……」
「特に何もない。ただ、事細かに話せば話すほど、お前がショックを受けるような愚痴を、残していった」
「愚痴……、ですか……」
ヴァージンの目には、最後ストレームが愚痴を吐き捨てたようには見えなかった。その上で、マゼラウスの表情を伺うも、どこかショックを受けているような雰囲気は変わらなかった。
「まぁ、私にとってみれば愚痴だ。ただの捨て台詞だ。しかも、ブランドがブランドに負けたと言っている」
「もしかして、ウォーレットさんが履いているフラップが、エクスパフォーマに負けるとかいうことですか」
「そういうことだ。だが、前も言ったと思うが、ブランドの力で勝負は決まらないからな」
「はい」
マゼラウスは力強くそう言い、ヴァージンに同意を求めた。そして、その後数秒の間を置いて、告げた。
「最後に言っておく。ウォーレットの……、中距離走を意識したフォームが完成した。お前の、力強い足は、それとの勝負になる」
「分かりました」
ヴァージンは、静かにうなずいた。ウォーレットに対する対抗心が、その表情にはっきりと映し出された。