第33話 ブランドの力 己の力(1)
「エンブレイム選手権は、どうやらエクスパフォーマ対決になりそうだ。気を緩めないほうがいい」
4月、エンブレイム選手権が迫ったヴァージンに、マゼラウスは声を掛ける。エクスパフォーマのトレーニングセンターでのワークアウトも2ヵ月目に入り、最初は踏むだけで本番さながらの踏み心地を感じたこのグラウンドにも、ヴァージンはすっかり慣れていたのだった。
「はい……。この前、トレーニングの前にばったりメリアムさんに会って、そう言われました」
「まだブランドが立ち上がったばかりだというのに、同じブランドにお前と肩を並べるトップ選手が二人も集まって、指導するほうも本気になってしょうがない」
「コーチは、いつも本気です。コーチの一言で、私はまた強くなれているんですから」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは軽く笑った。そして、すぐに顔の表情を元に戻した。
「それにしても、ここで言うのも変かも知れないが、今年に入ってものすごくタイムが伸びてきているのは、ブランドの力なのか、それともお前自身の実力なのか……、私には気になってくるんだ」
「ブランドの力……。つまり、このシューズでタイムを縮めているとか……、ですか」
「お前も、そう思っているのか?」
「思っています。トラックの上を走っていて、足が軽くなるんです。これがシューズの力だと思うんです」
ヴァージンは膝を上げ、エクスパフォーマから少なくとも週に1足は送られてくるトレーニングシューズをその目に焼き付けた。ヴァージン自身も、シューズのおかげで好調なタイムを出し続けていると確信していた。
「なら、それが懸念材料になる……。エクスパフォーマの力で速くなるのは、お前だけではないということだ」
「そう……、なりますね……」
少なくとも、エクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいるメリアムやヒーストンは、同じようにエアーと反発力の両方を兼ね備えた「マックスチャレンジャー」を履いてレースに出るだろう。
(私は……、ヒルトップさんから、私のために作ったと言われているような気がする……)
たしかに、ヴァージンの履いているような「高性能」なシューズは、一般に市販されていないかもしれない。だが、汎用モデルであったとしても、いまヴァージンの履いているトレーニング用よりもほんの少ししか性能が変わらなければ、いくらシューズにパワーが宿っていると思っても、そのアドバンテージはわずかだった。
そこまでヴァージンが気が付いたとき、マゼラウスは一度うなずいて、ヴァージンに告げた。
「ようやく気付いたようだな……。シューズの力だけでは、本当に強くなったと言えないことを」
「はい」
すると、マゼラウスは中腰になり、ヴァージンのシューズに右の人差し指を触れた。
「ただ、お前がそこまで言うということは……、お前自身もシューズと一緒に成長しているのかもしれない」
「成長……。走っているうちに、どんどんスピードアップしていくってことですか」
「いや、そうじゃない。ヴァージンが、最近よく言っている言葉があるはずだ。それがヒントだ」
「私が……、よく言っている言葉……。もしかして、もっと走りたくなるとか、そういう言葉ですか」
ヴァージンは、ほとんど考えることなく、すぐにそう言い当てた。マゼラウスが大きくうなずく。
「そういうことだ。このシューズを履いて、どこまでタイムが伸びるのか、と足が冒険をしたがっている。少しずつだが、そのシューズを使って限界を超えようとしている。ラップタイムが、途中から1秒くらい早くなることが多いのは、そのせいだと思うが、違うか」
「はい……。たしかに私、そう思いながら走っています……。コーチにはあまり言わなかったですけど」
「長いこと、お前の足を見ていたら、足やシューズに何と語りかけているかくらい、私には分かる」
(コーチが……、なんか超能力者に見える……)
マゼラウスの言葉に、ヴァージンは思わず苦笑いする。これまで数多くのレースを戦ってきたヴァージンも、言われるほど足やシューズに語り掛けているわけではなかった。せいぜい、ラップタイムを決めたり、前にいるライバルを追い抜きたいと強く誓ったりといった時だけのように思えた。
「私は……、もっとシューズと一緒に強くならなきゃいけないかもしれないです」
「言ったな、ヴァージン。なら、次の目標タイムは、14分10秒を切ることだ」
「分かりました!」
Break the 1410――ヴァージンは、マゼラウスの一言で、この言葉を真っ先に思い浮かべた。これまで、ヴァージンが出してきた世界記録は、全て14分10秒台だった。
異次元とも言えるギアを身に着け、その壁を破る。その思いが、ヴァージンに力を与えていた。
その日からレース本番まで、トレーニングセンターで女子長距離選手どうしが出会うことはなかった。ヴァージンがたまたま大学に行っているときにヒーストンが使っていたり、たまたまジムでワークアウトをしているときにメリアムが使っていたりした。グラウンド自体は、決して予約制ではないため、ヴァージンにとっては偶然としか思えなかった。
その反動がやってきたのか、エクスパフォーマを履いて女子5000mに出場する3人が、エンブレイムのスタジアムの受付でばったり会うことになった。
「ヴァージン・グランフィールドじゃない!こんなに早くスタジアムに来るなんて思わなかった」
「ヒーストンさん……」
メルファナ・ヒーストンが、受付をするヴァージンの真後ろから声を掛ける。ヒーストンは、今シーズンも10000mのエントリー予定も多いが、あえてアウトドアシーズンの最初のレースで5000mにエントリーしたように、ヴァージンには思えて仕方がなかった。
「1月のフランデーベフで、エクスパフォーマを身に纏ったグランフィールドに、その力を見せつけられちゃったから、私も……スポンサー契約を結んだの。シューズのせいとか、ウェアのせいとか言われたくないし」
「たしかに……、ブランドを背負うということは、そんなことも気にしないといけないですよね……」
その時、受付そっちのけで話しだしたヴァージンとヒーストンの前に、ソニア・メリアムが立った。
「エクスパフォーマ話に、心が遊んでいるようね。私は、そんなことしたくないけど」
だが、メリアムの言葉をひっくり返すかのように、ヴァージンはやや声を抑え気味にこう言った。
「メリアムさんは……、どうしてエクスパフォーマを選ぼうとしたんですか?」
「そうね……。特に理由はない。デザインがカッコよくて、これだったら速く走れそうって思っただけ」
「そうだったんですか……」
ヴァージンが軽くうなずくと、ヒーストンが軽く唸りながら、会話に入った。
「グランフィールドも、メリアムも……、このブランドを選んだ理由はバラバラなのかもしれない。そんな女子たちの思いを、一つのシューズの形で表してくれる。それがエクスパフォーマじゃない」
「もっとも、グランフィールドは、エクスパフォーマに選ばれたというのもあるかも知れないけど」
「そ……、そうですね……」
メリアムの的確な突っ込みに、ヴァージンは少しの間笑うしかなかった。
(でも、今は私のほうが本気でエクスパフォーマのことを思っている……)
ロッカールームに入ったヴァージンは、あえてヒーストンやメリアムから見えづらい奥のほうまで進み、多くのレースと違い、一人でレースの展開を頭に思い浮かべた。ヴァージンが天井を見上げると、天井に敷き詰められたガラスから、エンブレア共和国を包む心地よい光が、ヴァージンの目に飛び込んできた。
(今日は、どういうレース展開にしたほうがいいんだろう。メリアムさんもいるし……)
エンブレイムのスタジアムで、ヴァージンは一度も5000mを走ったことがない。10000mのレースが一度あるだけだ。だが、慣れたとは言えないトラックでのレースほど、今のヴァージンに好奇心を与えているのも事実だ。
(まだオリンピックには早いし……、でも、このトラックでどこまで速くなれるのか試してみたい)
おそらく、メリアムがペースメーカーになってくれるはずだ。これまでラップ70秒を強く意識しながら走ってきたが、メリアムとの差を少しでも縮めて、できれば早い段階でメリアムを抜き去りたい。その走りができれば、ヒーストンだって早い段階で振り切れる。
(このシューズで……、そしてウェアで……、私は必ず次の世界記録を出してみせる)
――Break the 1410……。
ヴァージンは、スポーツバッグからレース用のシューズを軽々しく取り出した。燃えるような赤が、天井から差し込む光に映えた。まだ足を通す前にも関わらず、ヴァージンの体から力が溢れていた。
(よし……!)
ヴァージンは、両足に「マックスチャレンジャー」を通し、もう一度空を見上げた。異次元の走りを見せつける時は、迫っていた。