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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第4話 アカデミーの仲間入り(4)

(見返してやりたい……)

 次の日、普段よりも1時間早くワンルームマンションを出たヴァージンの目は、限りない闘志に溢れていた。自宅周辺で軽くランニングをしてからアカデミーに向かおうとする彼女の脳裏には、前日に一度でも自分を見下したフェルナンドと、彼を専属のコーチとしている世界的に有名なライバル、グラティシモのことだけがあった。アメジスタの出ではそこまで追いつけない、という彼の常識を自分の足で打ち砕きたい。ヴァージンの密かな決意は、この時既に固まっていた。


「コーチ、おはようございます」

 マゼラウスは、ヴァージンがアカデミーに入るのを待ちわびていたかのように、普段とは違いロビーで出迎えていた。マゼラウスと目が合うと、ヴァージンは反省の表情よりも、むしろその顔を少し笑わせてみせた。

「おはよう、ヴァージン。頭は冷やしてきたか?」

「えぇ。……ちょっと考え直しました」

「考え直した?どういうふうにだい?」

 首を軽く動かすマゼラウスに、ヴァージンは少し顔を前に突き出した。

「もう一度、あの時の熱い気持ちを思い出しました。アメジスタじゃ絶対無理、っていうのを、私が変えられるかもしれないって」

「ほほぉ……」

「それに、あぁ言われるということは、まだ周りがそう思っているだけだと思うんです。私が、ライバルたちの中で頂点になれば、きっと誰もそんなことは言わないはずです。だから、……私は、まだ努力が足りないのです」

「よく言った……!」

 マゼラウスは、レースが終わったわけでもないのに、思わずヴァージンを抱きしめた。アカデミーのロビーという、いつ誰に見られてもおかしくない空間で、世界的に名高い一人のコーチは、今まさに翼を懸命に羽ばたかせようとしている一人の少女を懸命に褒め称えた。少なくとも、前日に同じ場所で鬼の形相で彼女に接したコーチではなかった。


 ヴァージンは、その時マゼラウスの奥に、一人のライバルの姿を見た。

 ヘレン・グラティシモだ。

 彼女は、今日は既にトラックの中で走り込みを始めている。グラティシモに檄を飛ばしているフェルナンドの姿も、かすかに映った。

(負けてられない……)


 だが、アカデミー入会わずか1週間の身で、練習を始める段階のヴァージンが、今日でもいいからグラティシモと一緒に走りたい、という言葉だけはさすがに伝えられなかった。せめて、今日グラティシモが走るタイムよりも上回る成果を残したい、とだけロッカールームの中で自分に言い聞かせていた。

「ヴァージン、今日は足首と膝を鍛えるぞ」

 朱に彩られた、燃えるようなウェアを着たヴァージンは、ロッカールームから出るなりマゼラウスに声を掛けられた。

「え……?足首……ですか?」

「そうだ。なるべくなら、足に負担をかけずに走る方がいいからな」

「……ですね」

 ヴァージンは、そう言葉を返すものの、コーチが何をしたいのかいまいち分からなかった。これまで「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の特集記事でも、ライバルたちのランニングフォームについての特集はあったものの、グラビアで出ているトップアスリートの表情ばかりに目が行き、足元までじっくり見ることがなかった。

 そもそも、ヴァージン自身が自分のランニングフォームを意識してこなかった。走る時に、自分の足首や膝がどのような動きをしているのか、レース中に下を向くわけにもいかないので、気にも留めてこなかった。

「……あれ?」

 ヴァージンは、トレーニングルームの手前で左に曲がったマゼラウスに、思わず口を開いた。そこで曲がったということは、二階に上がって会議室みたいなところに入れられる、ということになる。

「ちょっと、モニターの見えるところに座れ」

「はい」

 二階に上がってすぐのところにある、人が5人入ればいっぱいになってしまうような小会議室にヴァージンは通された。奥に真っ黒な景色しか映さない窓ガラスのようなものがあり、ヴァージンは思わず「これですか?」と尋ねかけてしまった。

 そもそも、アメジスタにテレビすらなく、この窓ガラスのようなものに映像が映し出されるとは全く思ってもいなかったのだが、さすがにそれはマゼラウスの前で口にすることはできなかった。


「ヴァージン、今から見てもらうのは、これから君が戦っていくであろう、女子の中距離走選手のランニングフォームだ。速いタイムを出すのに、一番重要なのは、腰から下をどう前に伸ばしていくかにかかっているからな」

「はい」

 ヴァージンは、マゼラウスに言われるままにモニターにじっくり見た。マゼラウスがリモコンのスイッチを入れると、程なくしていつかの大会で多くのアスリートたちがスタートを待っている映像がくっきりと映し出された。

「これから、何人かのアスリートのランニングフォームを見る。それで、君はどう思うか終わった後に聞くから、じっくり見て欲しい」

「分かりました」


(メドゥ……、シェターラさん……)

 ヴァージンは、一斉にスタートした、彼女の将来のライバルたちの姿を見るなり、その名を一人ずつ思い浮かべた。先頭集団に飛び出してきた選手が、みな雑誌などで目にしてきたトップアスリートたちだったのだ。そして、メドゥに見え隠れするようにグラティシモの姿を見つけたとき、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。

(負けてられない……)

 映像では、トラックの直線区間を懸命に走る先頭集団の姿を真横から捉えている。そこで初めて、ヴァージンはマゼラウスの言葉を思い出した。真横から映した映像では、ライバルたちの手の動きや足の動きがはっきりと見せていた。

(動きが……速い)

 ヴァージンは、そのあまりにも速い動きに、少しだけ体を震わせて画面に食い入るだけだった。その間にも映像はどんどん進み、再び正面からの画像に戻った時、マゼラウスはリモコンをもう一度押して、画像を止めた。

「今ので、何か気になったランニングフォームはあったか?」

「……はい」

 突然止まった画像に、ヴァージンは思わず口の動きを止めて静止画像に食い入るように見た。それを見ても、もうマゼラウスの言うようなランニングフォームは映っていなかった。

「本当に分かってるのかな……。手足の動きとか」

「……とても速かったです。世界のトップアスリートたちが、こんな激しく身体を動かしているのかと……」

「君だって、少なくともあの大会では同じくらい激しく動かしているって。……それだけかな?」

「えぇ」

 ヴァージンが口ごもると、マゼラウスはリモコンをモニターに向けて、いまヴァージンが見てきた画像を巻き戻した。そして、ライバルたちを真横から捉えたところで、再び映像を動かした。今度は、ヴァージンの目でも十分追っていけるようなスローモーションだった。

「まず、この二人を比べて欲しい。君がこの前の大会で破ったシェターラと、このアカデミーにもいるグラティシモの走りを」

 マゼラウスは、まずシェターラが右足で力強く地を蹴ったところで、一旦画像を止めた。

「これが、シェターラの走りだ。重心はたしかに前を向いているが、私はどこか物足りなさを感じる」

「物足りなさ……」

 ヴァージンは、やや首をかしげたマゼラウスに代わって、止まったままの画像をじっくりと見た。有名なライバルたちが出ているとか速いとか、そういった感想は既にヴァージンの脳裏から消え失せていた。シェターラのランニングフォームは、膝を懸命に前に出すものの、足もとがそれより手前に引っ込んでいる。左足と右足で作る角度が90度を超えていた。

「膝が、足より前に出てて……、重心がそこだけ後ろに下がっているような気がします」

「そう思ったか」

 ヴァージンは、マゼラウスの一言に突然頭の中が真っ白になった。間違っている、という言葉を恐れていた。だが、マゼラウスは続けてこう言った。

「これは、私からしてみれば長距離には向かないフォームだな。膝がここに来ている以上、足元だけで前に進む力を出さなければならん。その証拠に、着地の時に足はべったりと地面についている」

「……はい」

「ここで君に、何を言いたいか分かるか」

「えっ……」

 ヴァージンは、再び口ごもった。気が付くと、マゼラウスはシェターラのランニングフォームを見せたままモニターの電源を落とし、ヴァージンの視界には、再び暗闇を映す窓だけが広がった。

「君がもっと速くなるために、君がどうしなきゃいけないか。私は、今日フェルナンドに言って、君とグラティシモを勝負させることにした」

「……本当ですか!」

 狭い小会議室の中で、ヴァージンは思わず手を叩いて口を開いた。何も映らないはずのモニターに、先程まで映されていたグラティシモの黒のツインテールが、かすかに映った。

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