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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アスリートになるためのスタートライン
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第1話 世界を夢見るアメジスタの少女(1)

 心地よい緑色の風が大地を抜ける自然に満ちた国、アメジスタ。

 ある人は羊たちを放牧しては国中を転々とし、またある人は小麦畑で毎年の収穫を心待ちにしている。

 機械と言えるものはほとんどなく、衣類や農工具などを作る人々は、多くの国がその道を辿ってきたように手作業で作ってきた。

 首都グリンシュタインには職のない人々が溢れ、公共工事の求人が行われる時などたくさんの人々が労働省前に列を作る。


 アメジスタ。

 ここは、世界一貧しいと言われる国。

 統計を見るまでもなく、世界から見れば最も遅れた国であった。


「ただいまー」

 左開きのスライドドアを勢いよくこじ開け、13歳の少女、ヴァージン・グランフィールドが可愛らしい笑顔とともに家に帰ってきた。

「あぁ。お帰り、ヴァージン」

 文筆業で生計を立てるヴァージンの父親、ジョージ・グランフィールドは思い浮かばなかった小説の下書きの紙を丸めてゴミ箱に捨て、帰ってくる次女をその両腕で抱きしめた。ジョージの身長は165cmだが、彼女の身長は既にそれを上回っていた。

 ジョージは黒い前髪を指で除けながら、ヴァージンの嬉しそうな表情を見て思わずはにかんだ。

「なんか学校でいいことあったのか?」

「あのね、……数学のテストで15点も取れたの!やっとクラスでビリじゃなくなった!」

「15点……。よく取れたな、……ってバカ!お前はどこまで体育以外の成績が酷いんだ!」

 ジョージは、ヴァージンのスラリとした両肩のラインに両手を当て、祈るように訴えかけた。

「父さん。得意分野を伸ばせって、父さんが言ってたんじゃない!」

「ま、まぁ……そうは言ってたが、他の科目もできなきゃ、生きてはいけないぞ」

「はい」

 本人は全く反省の色がない。だが、ジョージはそれに怒ることができなかった。

 何しろ、ヴァージンのテストの成績が酷いのは何年も前からの話だ。歴史のテスト25点、アメジスタ語は45点。もはや授業を聞いていないと言わざるを得ない状況だ。

 そして、放課後のクラブ活動になると燃え上がるのが、ヴァージンなのである。

「父さん、今日はクラブで二つ先輩のフェンリスに半周差をつけて勝ったの!」

「また5000m走の話か?」

「うん。私、100mよりずっとこっちの方が好きだから!」

 ジョージはそう言われて、改めてヴァージンの体つきを見たが、どこが長距離に向いていてどこが短距離に向かないのかさっぱりわからなかった。

「あのね、フェンリスは先輩たちの中では今までダントツのタイムだったじゃない。それが、中等二年生の私に毎日負けてるから、今日なんかもう頭抱えちゃってて」

「やりすぎだろ、ヴァージン。それは」

「いいの。だって、せっかく同じトラックを走るんだから、どんな相手でも打ち負かしてみたいの。それが、私が陸上部に入った理由だから」

「そうか……。分かった。じゃあ、今日もヴァージンのために温かい仔牛のスープでも作ろうかな」

「やった!」

 ヴァージンは、久しぶりに父親に褒められスキップしながら彼女の部屋へと消えていった。


 この日、学校の壁時計で計測した彼女のタイムは約16分。

 その彼女が世界記録という厚い壁を突破することは、決して夢ではなかった。


 ワールド・ウィメンズ・アスリート。

 アメジスタから直線距離でおよそ15000km離れた大国、オメガ国で出版されている女性アスリート専門の雑誌で、ヴァージンは事あるごとにこの雑誌を見るのを楽しみにしていた。

(すごいな、メドゥって選手。世界競技会女子5000m二連覇って……)

 ヴァージンは、巻頭特集に写真つきで紹介されていたオメガ国の選手、クリスティナ・メドゥの体つきや、彼女のこれまで残してきたタイムの軌跡などを食い入るように見た。

 アメジスタでは新聞すら発行されないため、ニュースは政府発行の機関紙か輸入された雑誌に頼るしかない。「ワールド・ウィメンズ・アスリート」も毎月入荷があるわけではなく、最近では入荷のない月のない方が多い。ヴァージンは、自転車でグリンシュタインに遊びに行ったときにこの雑誌を見つけると、どんなに手持ちの金銭が寂しくなろうと真っ先に購入する。

「いつか、メドゥみたいに世界を相手に戦いたい」

 ヴァージンは、メドゥが金メダルに喜ぶ写真に目を細め、引き出しからハサミを取り出した。ところどころ錆びついてはいるが、雑誌のペラペラした質の紙を一枚だけ切り取るには十分な切れ味だった。

「メドゥみたく……!」

 ヴァージンは、メドゥが大きく紹介されている写真の載ったページにハサミを入れ、力任せにページごと切り取った。そして、工作用に買ったきりしまったままのテープでその全ての紙を部屋の壁に貼った。

 そして、再びメドゥの顔を見つめる。ヴァージンと同じ金髪で、長いことオメガの代表に選ばれていることもあってか、その肉体はヴァージンも想像できないほど鍛えられていた。オメガ国の国旗を持ち上げ、トラックを歩く喜ばしさの溢れる写真と、レース中に真横から撮った真剣そうな顔とが左右に並べると、動と静のギャップを感じずにはいられなかった。

 既に壁に大量に貼りつけた、世界中のどのアスリートの写真より、メドゥの姿は大きく見えた。


「勉強、ちゃんとやってるのか」

(マズい……)

 ヴァージンは、咄嗟に引き出しを開け、くしゃくしゃにしてしまった数学のプリントを広げて机に向かった。ジョージの足音が徐々に大きくなり、その手がヴァージンの部屋のドアに伸びると、彼は力任せにガラッとドアを開いた。

「やっぱりか……」

「父さん、私はちゃんとやってるよ。嘘だと思うなら、机の真横に来てよ」

 ため息をつくジョージを、ヴァージンは右手で手招きした。すると、ジョージは壁に貼られているメドゥの写真を真っ先に指差して、人差し指でメドゥのゼッケンを突いた。

「昨日はなかったはずだぞ、こんな写真」

「ごめんなさい……」

 ジョージは、ヴァージンの机の真横に立ち、腰に手を当てたまま深いため息をついた。その角度からでは、折角数学のプリントで隠したはずの雑誌がタイトル部分だけ丸見えになってしまっていた。

「あのなぁ、ヴァージン。学校で走るのもいいと思うけど、中等学校生がやらなきゃいけないのは、勉強だろ」

「はぁい……」

 明らかに生返事と分かる声で、ヴァージンは返す。それでジョージの怒りに火がついてしまい、しばらくの沈黙を破るように右手の拳でヴァージンの机をドンと叩き付けた。

「何だと思ってるんだ!生きることを!」

「どうして……。私だって、ちゃんと生きてるじゃない」

 反抗期に入って既に三年。怒鳴り出した父親に返すヴァージンの声も回数を重ねるごとに深くなり、遠くに響くようになっていた。キッと目を細め、ヴァージンはジョージに抵抗した。

「それは、陸上部だけの話だろ。まともな成績が残っているのは」

「それでもいいじゃない。私は、走ることを誰よりも得意としてると思うし」

「それで生きていこうって言うんだな」

 ジョージの声は、次第に穏やかにならざるを得なかった。38歳になったジョージに、もはや荒げた声を出し続ける元気もなかった。

 ヴァージンは、声のトーンの落ちた父親に付け入るように、きっぱりとした口調で返す。

「私は、それで生きていく。一人のアスリートとして」

「……はぁ?頭がおかしくなったんじゃないのか!雑誌を見て」

「おかしくなってないわよ」

 腰に手を当てたままの父に、目を細めたままの娘。その間に漆黒の闇でも入り込んだかのような、不穏な空気が漂っていた。

 ほどなくして、ジョージは深いため息をつき、ヴァージンに告げた。

「ヴァージン。一生懸命頑張ろうとしているお前に、こんなことを言いたくなかった。だが、今日はこれを言わなければならない」

「父さん……」

 ジョージは、数学のプリントの下に隠されていた「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を静かに右手に取って、左の人差し指で表紙を軽く叩いた。

「今まで、この雑誌にアメジスタの選手の顔が載ったことがあるのか」

「……ないよ。だって、ほとんどオメガの選手だもん」

「だろ……」

 そこまで言うと、ジョージは雑誌を机に置いて、一度ヴァージンにうなずいた。そして息を溜めこんでから、残念そうな表情を彼女に浮かべた。

「アメジスタから、アスリートは出ない。絶対に出ない!」

「えっ……、そんな……」

「いいから、それで生きてくことを夢見るんじゃない!」


(そんな……)

 父親が言い切った理由も分からず、再び一人ぼっちになった部屋の中でヴァージンは目に涙を浮かべた。淀んだ視界に、メドゥの写真もほとんど映らなくなっていた。

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