第32話 アメイジング・スター(6)
本番さながらの踏み心地がする、薄青のトラック。ゴールへと続く白い直線。何もかもがヴァージンを本気にさせてくれる新しいグラウンドで、CMの撮影が始まった。エクスパフォーマのトレーニングシャツと、アメジスタカラーのレーシングウェア、それに本番用のシューズを着て、初めてとなる「自分自身をエクスパフォーマのモデルとして売り込む」時間だった。
「では、グランフィールド選手、まずは5000mのスタートラインに立ってください」
ヒルトップの声で、ヴァージンとスタッフ全員がフィールドを横切りスタート地点へと向かう。ヴァージンだけはこのトラックを少しでも走りたかったが、余計な汗や呼吸もいけないようで、事前にストップされていた。
(この角度……。いつも見ている、勝負の始まりの時……)
フィニッシュラインとは正反対の、スタートライン。ヴァージンはその手前に立った。勝負はおろか、タイムトライアルでもないはずなのに、胸の鼓動が高まってくる。少なくとも、CMの撮影といういつもと違ったイベントに対する緊張感は、まるで日常を見ているかのように消えていた。
「では、スタートの時のように構えてください。それを下からと前からで撮ります」
「分かりました」
そう言ったときには、ヴァージンの足は自然にスタートの体形になっていた。左足をやや後ろに引き、体の重心を前に出す。次に何か号令がかかれば、そのまま力の限り走り出していけそうな姿勢になっていた。
その姿勢を、2台のカメラがそれぞれ下から前から撮っている。1台はシューズから膝にかけてズームするように、そしてもう1台はヴァージンのスタートを正面から撮っていた。
(これが……、どうつながっていくんだろう……。企画書よりも細かい動きを見せてくれるのかもしれない……)
ヴァージンが20秒ほどスタートの姿勢を続けていると、ヒルトップがようやくOKを出した。2台のカメラの動画がパソコンに取り込まれ、すぐに撮影した動画の出来栄えを、ヴァージンを交えて確かめることになった。
「『マックスチャレンジャー』が力強く映ってていいじゃないですか。この、強く踏み込んでいるわけでもないのに、鍛えられた足にマッチする強さを見せているのは素晴らしいと思いますよ」
「そうですか……。そう言ってくれると、嬉しいです……」
ヴァージンは、1台目のカメラの画像を見て、改めて新しいシューズの力強さを感じた。ヴァージンとしては軽く地面につけたにも関わらず、ここから前に進んでいくようなフォームを自然と作っていたからだった。
だが、その数秒後、ヴァージンはヒルトップが少し首をかしげる様子が見えた。
「これは……、同時に撮らないほうが良かったのか……、それとも角度がまずかったのか……」
「ヒルトップさん……。もう一つのカメラアングルのほうですか……?」
パソコンの画面には、正面から撮影されたヴァージンの姿が映っていたが、ヴァージンの本番さながらのフォームが、かえってその奥行きを消してしまっているかのように、ヴァージンの目には見えた。
「そうなんですよ。これだと……、その体の持つ力が感じられないように見えますね……。グランフィールド選手は、長距離選手なので、瞬発力が全ての鍵になる他の種目の選手に比べれば、そこまで力強い体を見せなくてもいいんですが……、これはちょっと、角度を変えてスタートシーンを撮りましょうか」
「分かりました」
ヴァージンは、再びスタートラインに立ち、今度はカメラ1台での撮影に臨んだ。今度は正面ではなく、足を撮影した時と反対側からカメラが迫ってきた。スタートラインで構えるヴァージンを、その目がはっきりと見えるように真横から撮影するようだ。
(じっと前を見つめ、私が勝負に挑もうとしている闘志を見せればいい……)
ヴァージンは、過度に気を遣うことなく、じっと前を見つめながらスタートの姿勢を保った。やがて、ヒルトップがOKを出すと、すぐにまたパソコンに向かった。
「これ、いいですね。体全体が引き締まって見えますよ」
「そうですか……。ありがとうございます……!」
「それでは、少しだけ休んで、今度は走るグランフィールド選手を撮りましょうか。この後は、一人で走るフォームを撮影した後、エキストラを使って実際のレースのスタートシーンを撮ります」
(えっ……、エキストラ……?)
ヴァージンは、ヒルトップの言葉を聞いて思わず息を飲み込んだ。たしかに、企画書には「本番のトラックに立つヴァージン」という項目こそあったが、そこまで大掛かりなレース形式になるとは思わなかった。
(たぶん、本番でタイムを争うようなライバルは呼んでないと思う……。でも、どうしてここまでエキストラの話を言わなかったのだろう……)
ヴァージンは、ヒルトップが目を離した隙に左右を見渡した。エキストラらしき女子選手の気配はなかった。
「では、グランフィールド選手。もし準備よければ、トレーニングウェアのまま、5000mを走り切ってください」
「はい。撮影は、どうやって行われるんですか?」
「そうですね……。あそこに立っているカメラマンが、トラックを踏んだ瞬間の足を撮影し、そしてその左にいるカメラマンがグランフィールド選手を後ろから流していく動画を撮ります。あとは、スタートラインで1歩目を踏み込む姿と、トラックの外から力強く迫ってくるグランフィールド選手の姿を撮ります」
「全部で4人のカメラマンがいるんですね……」
「そうですね……。それでも、グランフィールド選手は、特にカメラを意識しないで走っていただければと思います。変にカメラ目線になってしまっては、CMの雰囲気全体が壊れてしまいますからね」
ヒルトップの声にヴァージンはうなずき、その右足をゆっくりとスタートラインの手前まで進めた。そして、先程と同様、まっすぐ前を向くように構え、スタートの瞬間を待った。
「スタートの瞬間だけは、もしかしたらもう一度撮る可能性がありますが、後はこちらから止めるようなことはしません。グランフィールド選手の、いつも通りの本気走りを見せてください」
そう言って、ヒルトップ自ら号砲を構えた。ヴァージンの目が、少し細くなった。
(このシューズを履いて、このトラックを走るのは、これが最初……)
CM撮影であることを忘れかけるような、この新しいトラックに対する期待感が高まった。これまで足を踏み続けてきたセントリックのトラックよりも、はるかに本番の競技場に近い材質になっている。強く踏めば、ほんの少しだけトラックが沈み、そしてすぐに元に戻っていく。
「On Your Marks……」
ヒルトップの声が、ヴァージンと4人のカメラマンを刺激する。そして号砲が鳴った。
(やっぱりトラックも軽い……。シューズも軽いのに、それを踏むトラックまで軽くなっていて……、空気の上を走っているように思える……)
本番さながらの材質、と思ったヴァージンは、最初のコーナーを曲がり切ったときにはそれをはるかに上回るような感触を足の裏で感じていた。ここまで硬さを意識すらしないトラックは、ヴァージンがこれまで走り抜けてきた競技場でも、ほとんどなかった。シューズのエアーと、トラックの材質が奇妙なほどにマッチしている。
(もう少しペースを上げようか……)
最初の2周ほどは、CM撮影ということもあって、ラップ70秒より少し遅いペースで進んでいたが、1000mを過ぎたあたりからラップ70秒をしっかり測っているようなストライドに変えた。その間にも、横から、正面から、そして後ろからカメラがヴァージンを撮影していたが、もはやヴァージンはそれがCM撮影ではないかのように、トラックとシューズの感触を確かめながら走り続けていたのだった。
そして、5000mを走り抜けた。ストップウォッチすら使えなかったので体感でのタイムになるが、序盤緩やかなペースで走ったにもかかわらず、5000mを14分28秒か29秒くらいで走ったように思えた。
すると、ヴァージンを後ろから撮影していた、男性のカメラマンがゆっくりと近づいてきて、声を掛けた。
「グランフィールド選手……、速すぎます……。追いつけないくらいでしたよ……」
そう言いながら、カメラで撮影した動画をヴァージンに見せた。
「そうですか……。でも、この動画……、私が流れていくような感じで好きです……」
ヴァージンがそう言ったとき、ヒルトップと残りのカメラマンが近づき、手を叩きながらヴァージンを褒めた。
「見た感じ、どのアングルからでも、グランフィールド選手は力強かったですよ。では、1時間ぐらい休んで、エキストラを使った撮影に入りますが、トラックではカルキュレイム選手のCMを撮影しますので、ちょっとスタジアムの外にいてもらえませんか」
「分かりました」
ヴァージンがそう言ったと同時に、スタジアムに甘いマスクを浮かべ、ルイス・カルキュレイムが入ってきた。
「グランフィールドも、個人CM作ってもらえるんじゃん。頑張って」
「カルキュレイムさんこそ……、すごく魅力的なCMになりそうですね」
(やはり、他の専属契約選手もヴァージンのようにCMを作るんだ……)
そうヴァージンが思いながら、スタジアムの外に出たときだった。駐車場から、陸上選手には見えなさそうな、たくさんのアスリートがやってきた。その中に一人、ヴァージンが見覚えのある顔が映ったのだ。
(アルデモードさん……?どうして、こんなところに……!)