第32話 アメイジング・スター(4)
室内世界記録を更新した熱狂の冷めやらぬ中、ヴァージンはフランデーベフ室内競技場を後にした。すると、出口のところで待っていたと言わんばかりに、エクスパフォーマの開発本部長、ヒルトップが立っていた。
「ヒルトップさんも、私の走りを見に来てくださったんですね……」
「今日は、ブランドの実質的なデビューの日でもありますから、もちろんですよ。間近で姿を見て、私は鳥肌まで立ちました。やっぱりグランフィールド選手の実力は……、本物でしたね」
「ありがとうございます……。今日がエクスパフォーマのデビュー戦だと、心に決めて走りました」
「すごいじゃないですか。なかなか、自分や生まれた故郷以外に、ブランドやスポンサーのことまでずっと気にしてくれながら走る人、私は他の競技でもほとんど見かけたことがありませんよ」
「せっかく、素晴らしいシューズを頂いたんですから……、それを売り出さないわけにはいかないです!」
ヴァージンは、一度バッグにしまったレース用のシューズをゆっくりと取り出し、右の人差し指で靴底を押す。あれだけ本気でトラックを叩きつけたにもかかわらず、シューズのエアーは全く抜けていなかった。
「もしかして……、そのシューズで5000mを本気走りして……、全くダメージを受けていない……のですね」
「ほぼそれに近いと思います。このシューズ、教えてくださった以上にパワーがあって、走る私を、もっと前へと押してくれるような気がしたんです。とくに、トラックじゃなくて坂道だと」
「たしかに、坂道での安定性を意識しましたが……、ここまで気に入っていただけるとは思いませんでしたよ」
開発本部長という立場でありながら、ヒルトップは新しい商品のあまりの出来に、驚かざるを得なかった。そして、しばらく驚いた表情を浮かべた後、軽く息をつき、再びヴァージンに声を掛けたのだった。
「グランフィールド選手に……、この会社で初めてマーケティングを教えてもらったときの感触を、私は改めて教えてもらったような気がします」
「マーケティング……ですか……」
大学の講義でもまず出てこないその言葉に、ヴァージンはやや戸惑った。何となく、物を売り買いするようなところで使われそうな言葉だとばかり思った。貧困学を専攻し始めた身として、全く真逆のイメージのするその言葉には、全くなじみがないとヴァージンは思うしかなかった。
ところが、ヴァージンの目の前でヒルトップが小さく首を横に振った。
「いやいや、グランフィールド選手。マーケティングというのは、みんなが欲しいと思っているものを作って、宣伝して、そしてみんなを満足させる。そういった一連の行動を指すんですよ。物を作って売るだけでも、一応見た目はマーケティングですが、実際はお客さんの心に響かないといけないんです」
「みんなの心に響く……。つまり、ヒルトップさん。そのためにいろんなことをするということですか……」
「そういうことですよ。そのイメージを、グランフィールド選手は分かっているように……見えましたよ」
ヴァージンは、ヒルトップがそう言い終わった瞬間、赤面した。ただシューズやウェアを身に纏って室内競技場のトラックを25周しただけではない、ということだけは意識していたが、そこまで大それたことをやっていたつもりはなかった。
それでも、そのように言われたヴァージンは、ほんの1時間前に走っていたときの自身を思い出した。
(こんな力が余っているのに……、新しいシューズがライバルに負けるなんて考えたくなかった……)
ヴァージンは、そのことを思い出した瞬間、ふと空を見上げた。ヴァージンの走りを、その高い空はそのわずかな動きまで見ているような気がした。
「そうですね……。たぶん、ヒルトップさんの言っているマーケティングは、もっと気持ちのいいランニングシューズが欲しいとみんなが思っていて、走っているだけでもっと走りたくなるようなシューズを作って、そして長距離を本気で走る私がそれを着て、圧倒的な力を見せつけたことだと……、思うんです」
「そうですね。きっと、グランフィールド選手がこれまでの記録を打ち破ったことで、これを見ているみんなが、『マックスチャレンジャー』はみんなの欲しいシューズの一つとして選ぶようになったと思いますよ」
「そうですね……」
最後は、消費者側の視点に戻ってこなければいけないことを、それを初めて学んだヴァージンは忘れていた。それでも、ヒルトップは決してそれを悪く思わず、むしろヴァージンを感心したような表情で見ていた。
ヒルトップがヴァージンの出待ちをしていたのには、他にも理由があった。この日の走りをほめたたえた後、ヴァージンはヒルトップに、軽い打ち上げへと誘われたのだった。そこにどうやら、コーチのマゼラウスと、代理人のガルディエールを誘っているとのことだった。
(ここまで私を支えてくれるみんなを呼んだということは……、もしかしたら何かあるのかもしれない……)
そう思いながら、ヴァージンはヒルトップの後をついて行った。そして、大通りに面したビルの1階にある洒落たカフェへと入っていった。
「待ってたぞ。今日はもう、ブランドデビュー戦の勝利を、私も祝いたいからな」
「マゼラウスさん……。それに、ガルディエールさんも一緒に……」
ヴァージンが表彰式に出たり着替えたりしている間に、二人はいち早くカフェに移動していたようだ。マゼラウスの隣の椅子に、小さな羽根のようなものがついており、ヴァージンの予約席もそこと決められていたようだ。
「このカフェによく似合うような、とてもかわいい羽根ですね……」
「それは、君がエクスパフォーマで大きく羽ばたいて欲しいからだ。店員さんに10リアで作ってもらった」
「そ……、そこまでしていただけるなんて思わなかったです!」
ヴァージンは、レースの規模としては世界競技会やオリンピックに遠く及ばないにも関わらず、ここまで破格の対応をされたことに戸惑いを隠せない。その戸惑うヴァージンの横で、温かいエスプレッソを店員が注ぐ。
「改めて……、『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』の門出を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
4人の中で、ヴァージンが最も高い声を出してその場の空気を作り上げた。さすがにこの場でシューズを出すことはなかったが、盛り上がった場の雰囲気を背負いながらもっと速く走ろうと、ヴァージンは真っ先に思った。
すると、エスプレッソを一口飲んだヒルトップが、カップをソーサーに戻し、ネクタイを正した。どうやら、ここで打ち上げをすることになった本当の理由が、他の3人に伝えられるようだ。
「今日、グランフィールド選手本人と、コーチと代理人に、こうして集まっていただいたのは他でもありません。グランフィールド選手を、本気で売り込むために、無理のない範囲内で、彼女だけのCMを作ろうと思います」
「CM……?」
たしかに、ガルディエールからエクスパフォーマとの契約の話を聞いたとき、CMの話も聞いていた。ヴァージン・グランフィールドというアスリートの全てが宣伝になるとさえ言われたこの契約で、ヴァージンが自らを売りこまない手はなかった。
「先日、私がアメジスタの土を踏んで、感じたことがあります……。グランフィールド選手もすぐ横にいたので、感じているかもしれませんが……、アメジスタにはいくつもの輝く原石が眠っていると思うんです。少なくとも、世界一貧しいなんて言わせないくらいの……、そんなものがいくつもあるように思えました。そのうちの、たった一つかもしれませんが、グランフィールド選手が輝きを放ったように思えるんです」
(輝く……、原石……)
ヴァージンは、この前故郷に訪れたときのことを、わずかの時間で思い出そうとした。何もかもを失ったようにも見えるアメジスタは、変わり果てていた。けれど、その中でもほんの小さな希望が輝いているのも、また事実だった。
ヴァージンが走ることによって、この小さな国を少しでも感動させることができる。それが、ヴァージンの持っている輝きだった。
「もし間違えていたら、グランフィールド選手には申し訳ないかも知れませんが……、私はこう思っています。アメジスタは、おそらく”Amazing Star“、つまり、驚くようなスターのいる国、という言葉を短くしたものだと思うんです」
アメジスタ出身のヴァージンは、ヒルトップの言葉にはっとなった。アメジスタという国名をそう言い換えた人は、国の内外問わずこれまで一人もいなかった。だが、その意味だったという説は、あながち間違っていないようにヴァージンには思えた。
(アメイジング・スター……。それは、つまり今でいう私のこと……)
ヴァージンは、ヒルトップに見えないよう、少しだけ涙を浮かべていた。