第32話 アメイジング・スター(3)
このレースには、ヒーストン以外上位に食い込みそうな選手は、ヴァージンの目から見ていなかった。そうなると、序盤から先頭に立ってレースを進めていくような展開にはならない可能性のほうが高い。そうなれば、ヴァージンが自ら先頭に立って、そのまま自分なりの走りで突っ走ったほうが気持ちは楽だ。
(室内記録を争っているウォーレットさんがいてくれたほうが、タイムは伸びる。けど……)
「On Your Marks……」
スポーツブランド・エクスパフォーマにとっての最初の一歩が、次の号砲で始まろうとしている。ヴァージンはスタート位置に着き、一度足を立てた。本番1週間前になってようやく足を通した、真っ赤に染まった新しいレース用シューズが、ヴァージンのスタートを今か今かと待っていた。
(最低でも、今までの最高は狙える……。少なくとも、このシューズで本気を出したら、ここ最近14分25秒より悪いタイムにはなってなかったはず……。だから、今日は絶対にいける!)
そうヴァージンが心に誓ったとき、フランデーベフ室内競技場に号砲が響いた。
ヴァージンは、スタートからわずか5歩で400m70秒までスピードまで高めるが、この室内競技場でもその足は軽かった。次の一歩を簡単に踏み出すことができそうだ。室内競技場の一周200mを、設定の半分の35秒で走ることも、今のヴァージンには余裕だった。
(まだ無理はしないほうがいいけど……、少ししたらペースを上げたほうがいいかも知れない……)
加速できるうちにスピードを上げ、ストレスを後半にまで残したくない。ヴァージンは1周駆け抜けると同時にその作戦でいくことをはっきりと心に決めた。1周35秒ほどで走るヴァージンの背後には、ヒーストンとほか数人のライバルの足音しかなかった。2周目を終えようとするカーブから、早くも10人近くの集団がヴァージンの目に映った。それだけ、室内にしてはヴァージンのペースが速いということだった。
(どこで、スピードを上げていくか……)
トレーニングでは、自分のペースを意識するあまり、4000mまで1周35秒で進んだこともあった。それでは、レースの後に足がまだ走れるような感触を受けた。そうかと言って、シューズの素材を変えただけでペースを極端に上げるわけにもいかない。履き心地のよさを感じながらも、ヴァージンには新しいペース配分をはっきりと確立できておらず、場数を踏んでそれを確かめるしかなかった。
5周、1000mのラインをヴァージンは駆け抜けた。その時にはもう、ヴァージンはヒーストン以外の全てのライバルの足音を振り切っていた。10000mで身につけてきた実力を持ったヒーストンだけは、そんな簡単に振り切れる相手ではないことは、ヴァージンにもはっきりと分かっていた。
するとここで、次の直線に差し掛かったヴァージンの横にヒーストンが躍り出た。
(ペースを保ち続けてきたから……、こんな早くだけどヒーストンさんが勝負に出てきた……!)
ヴァージンより前に出ようとするヒーストンの、その力強い右足がヴァージンの目に映った。これもまた有名なメーカーであるディーラのロゴが、ラベンダーの色に包まれたその右足に刻まれていた。ヴァージンは履いたことこそないが、エクスパフォーマの本社に足を通わせるうちに、ライバルメーカーの顔ぶれも少しずつ意識するようになった。
(私の脚で……、まだ、「マックスチャレンジャー」が走り足りないと言っている……。それなのに、ここでヒーストンさんに先を越されるなんて、ありえない……)
ヴァージンは、ヒーストンの表情を真横で見ながら、足をトラックにつける間隔を心なしか短くしてみた。1周34秒とは言わないものの、400mに換算すると69秒ほどのペースにまで上げていく。ややスピードを上げたヴァージンに、ヒーストンの右足がヴァージンの後ろへと退き、そのままカーブに突入した。
(それでも、ヒーストンさんはいつ仕掛けてくるか分からない。あまりペースを上げすぎて、最後の勝負で負けるようなことがあっちゃいけない……。このペースで行くか……)
再びヒーストンを体の後ろに追いやったヴァージンだったが、足音の変化だけは何度も気にしていた。この時のヴァージンは、とにかく一度上げたペースを維持することしか頭になかった。シューズのエアーが、着地のたびにヴァージンの足を包み込む。その足はまだ、重くなったという感触はなかった。
(まだ……、最後の勝負に持ち込めないなんてことはない……!)
その後、レースはほとんど拮抗した。時折ヒーストンの足が前に出ようとするが、ヴァージンの横に並ぶようなことはなかった。ヴァージンも、1周34秒にまでは達しないペースで1周、また1周とラップを重ねていく。そして、ヴァージンが普段スピードを上げるまであと1周となった。
(3800m……。そろそろペースを上げたほうがいいのかもしれない……)
ここまで一度もトップを譲らなかったヴァージンは、ようやく足の裏に何かしら力が働いていることを感じた。だがそれは、普段なら序盤で感じるはずのものだ。残り1200mで、出せる限りの力を出す作戦に変わりはない。
すると、ここでヒーストンの足音の響く方向が、突然真後ろから真横に変わった。客席から、わずかながら歓声が上がり、一気にペースを上げたヒーストンがヴァージンの横を駆け抜けようとしていた。
ヴァージンはヒーストンのシューズを、目を細くして見つめた。エクスパフォーマの赤いシューズの少しだけ先に、これまで陸上用シューズを引っ張ってきたと言えるディーラのシューズがあった。
(これを追い越さなければ……、エクスパフォーマは最初の一歩からつまづいてしまう!)
開発本部長のヒルトップは、4人の専属契約選手のスケジュールこそ聞いているが、それを無理やり調整したという事実はない。時期的には、どこのインドアレースでデビューになってもおかしくはなかったし、4人とも常に優勝を狙える位置にあるという共通点で引き抜かれてきたのも、また事実だった。ヴァージンが、ここでエクスパフォーマのデビュー戦を駆け抜けるのは、偶然でしかなかった。
だが、レースの順番は偶然でも、そこで力を発揮することはエクスパフォーマの使命であり、願いであり、そしてヴァージン自身の意欲でもあった。負けるなんてことは、あっていいはずがなかった。
(私は……、もっとペースを上げられる!)
直線で一歩前に出たヒーストンをじっと見つめ、ヴァージンは一度右足の反発力をフルに生かし、一気にペースを上げた。そして、カーブであるにもかかわらず、ヒーストンの真横に出た。
(ラップ65秒……。あとは、いつも通りの走りをしても、足は……、シューズは何とか持ってくれるはず)
これまで、ラスト1000mで見せてきたスピードを、ヴァージンはそのシューズで初めてライバル相手に見せつける。ペースアップも、これまでよりもはるかに急だった。足を上げる時の反発性の高さで、思った通りのスピードにまで上げられるように思えた。
カーブを過ぎ去ったとき、ヴァージンの体はヒーストンよりも半分以上前に出ていた。そのまま抜き去った。
(これが……、エクスパフォーマの力……。そして技術……!)
これまで何年も履き続けてきたイクリプスのシューズでは、全く感じることのなかった加速力の強さ。それは、ここまで足の疲れを和らげてきたエアーでもあれば、飛び出すときにも余計な力を使うことのない反発力でもあった。5000mを、世界最高の走りで駆け抜けるヴァージンにとって、そのスピード、そしてタイムすらも操ることのできる魔法のシューズだった。
(たぶん……、普段の私のトップスピードにも、このシューズは応えてくれるに違いない……)
ヴァージンは、4400mからさらにペースを上げ、残り400mではアウトドアで見せるスパートと同じ速さにまで達していた。カーブの数こそインドアレースのほうが多いものの、そのカーブで気を遣ってもなお、400m57秒ほどのタイムで駆け抜けているように、ヴァージンには思えた。
その足は、まだ限界から少しだけ遠かった。
14分17秒38 IWR
室内競技場が、ヴァージンの出したタイムで大きな歓声を上げた。自らの持つ室内記録の更新を意識して走ったつもりが、その足にまだ余力を残して、3秒以上も室内世界記録を縮めたのだった。
ヒーストンですら、まだ最後の直線に入ったばかりだった。ヴァージンのタイムは、圧倒的だった。
(これが……、私のシューズの力……。そして、私自身の力……)
ヴァージンの足の裏には、まだパワーが宿っていた。「マックスチャレンジャー」に黒く映える「X」の文字が、その強さをはっきりと表していた。