第32話 アメイジング・スター(1)
「ヴァージン、おかえりなさい。傷が見えるけど……、大丈夫ですか……?」
ヴァージンがグリンシュタイン中心部から歩いて実家に戻ると、偶然勤務から戻ってきた姉、フローラに玄関の前で追いついた。フローラは、血の流れていた跡がはっきりと見える左膝をじっと見つめていた。
「さっき……、ちょっと転んじゃって……」
ヴァージンは、そう笑ってみせた。いずれにしても、病院勤務の姉に手持ちの救急セットで治療してもらうことには変わりなかった。だが、すぐにその裏をフローラに読み取られてしまうのだった。
「そんな感じの転び方じゃないようですね……。ヴァージンの足は、いつも前に向かって進んでいるんですもの」
(たしかに……、膝と言っても脇をすりむいちゃったから、お姉ちゃんにはバレるんだ……)
ヴァージンはそう悟って、フローラに後で真実を話すことにした。
「さっきのは嘘。ちょっとショックなことがあって……、ケガしちゃった……。治療……できるよね」
「もちろんです。ヴァージンに、そんな足のケガは似合わないですから」
フローラがそう言うと、実家の引き戸が音を立てて開き、中から黒い髪を揺らして、父ジョージが出てきた。
「父さん……!ただいま……!」
「手紙に書いてあったぞ……。世界競技会で……、金メダル取ったんだってな!」
「はい……。10000mですが……、表彰台の真ん中に立ててよかった……!」
そう言うと、ヴァージンはバッグに手を伸ばし、ジョージに最も見せてあげたいものを取り出した。
「その金メダルが……、これです……!初めてのことだったんで……、ものすごく重く感じました!」
「そうか……。これはすごい。どこからどう見ても金色だし……、ヴァージンのように輝いているよ」
ジョージは、金メダルを手に取って目の前にそれを近づけた。ヴァージンの目には、ジョージが金メダルに描かれた文字や絵の全てを確かめているように見えた。
そして、ジョージはその「栄光の形」をじっくりと眺めた後、ヴァージンにそれを返してこう言った。
「ヴァージンよ。ものすごく名誉ある金メダルだと思う。アメジスタが世界一になったんだ。ただ、なかなかアメジスタにそれが伝わらないのが、アスリートの娘を持つ親としても……、心苦しいんだ……」
(父さん……)
できれば言いたくなかったことを、ヴァージンはその一言で思い出してしまった。アメジスタに自らの活躍が伝わらないこと、そしてねたまれ、バカにされ、そして違う人種との疑いをかけられ殴られもした。
「父さん。あの街を歩いて思った。今のアメジスタ人は……、絶望しか抱えていないのかも……」
そう言って、ヴァージンはタイルに叩きつけられた左膝をジョージに見せた。ジョージは唖然とした表情だ。「このケガ……、もしかしてグリンシュタインの革命勢力に……、やられたのか?」
「革命勢力……?そんな人だとは思わなかった。ただ、悪い青年だったかな……」
「そうか……。あのデフォルトの後、アメジスタの権力を勝ち取ったのは、自分たちと違うことを認めない奴らだ。国のために何もしない奴らが消される、そんな世の中になってしまったもんでな……」
「たしかに、変わってしまったグリンシュタインに、私はすごくショックを受けた。でも……、私はアメジスタを背負って戦わなきゃいけない。それを……、ちょっと知っちゃったかな」
ヴァージンは、極端に落ち込むことなく、二人にそう言った。フローラは一度首を横に振り、変わり果てたアメジスタを嘆いているようだった。そして、ジョージはヴァージンの言葉に、何かを考えているようだった。
「ヴァージン、それでもこの国に、その姿を応援してくれる人はきっといると思う。少なくとも、この家はな」
「ありがとう……」
ヴァージンは、ジョージとフローラの手を取り、笑みを浮かべながら礼を言った。
今回ヴァージンはセスナでアメジスタに入ったため、次の飛行機が飛ぶまでの三日ほどしか実家に滞在しない予定だ。その日の夜は、ヴァージンの金メダルを祝して七面鳥の丸焼きが食卓に並び、ジョージが執筆の傍らに作った、鉄製のティアラがヴァージンにプレゼントされた。アメジスタでもめったにお目にかかれない出来事の数々に、ヴァージンの滞在期間はあっという間に過ぎていきそうだった。
だが、滞在期間が短くても、実家の近くを走るためのトレーニングは欠かさなかった。翌日の朝には、ヴァージンは早くもトレーニングウェアをバッグから取り出し、かつて様々なライバルのポスターを貼っていた部屋の中でそれを広げた。そして、この時のために一つだけ箱を開けていなかった、エクスパフォーマからの新しいシューズ「マックスチャレンジャー」も、その下から取り出した。
(トラック専用とは特に言われてないし……、走り慣れたトレイルランニングのコースで試してみよう……)
シューズをゆっくりと取り出すと、箱からまるでバネのようなエアーの匂いが部屋に飛び出した。その匂いを嗅ぎつけたのか、フローラが少し小走りにヴァージンの部屋に入ってきた。
「ヴァージン、そのシューズとてもカッコいいじゃないですか……!」
「お姉ちゃん……。このシューズ、まだ発売されてないものだよ。ここでしか見れないレアもの」
「それだったら、ますます気になります……」
燃えるような赤のシューズに、フローラのほうが鳥肌立ってしまったようだ。白いスカートを地面すれすれにつけながら中腰になり、いろいろな角度から眺めていた。
「お姉ちゃん……、もしかして、仕事のない日はこういう靴を履いて、外に出ようと思ってる……?」
「できれば、履きたいですね……。でも、アメジスタの街中に、こういった輝くような靴は似合わないかもしれませんね……。ダメージシューズのほうが、よほど似合っています」
「お姉ちゃんの言う通り……。でも、トレーニングをするならこれを履いたほうがいい。色や見た目というより、このシューズ、とても走りやすいんだもの!」
ヴァージンは、「マックスチャレンジャー」を手で持ち上げ、部屋の床にそっと置いた。置いたときですら、軽さと力強さがヴァージンの手にはっきりと伝わってきた。
「私は、このシューズで、家の裏庭を走るトレイルランニングのタイムを、軽く2分以上は縮められる」
「それは間違いないです。ただでさえ、4年前よりもヴァージンは強くなっているはずですから……」
フローラがそう言うと、ヴァージンは大きくうなずいて、再び「マックスチャレンジャー」に目をやった。
その数分後、ヴァージンとフローラは実家の前に立った。持ってきたストップウォッチをフローラに渡し、真剣な表情で、これから進むべき道をヴァージンは眺めていた。
「ヴァージンの走るコース、今は草も生えてなくて、ものすごく走りやすいですね……」
「お姉ちゃん、ここを走るんだったら、あえてその時期を選んでるの。前もそうだったけど、夏に少しでも草が生えていると、このコースの走り心地がメチャクチャ変わってくるから」
ヴァージンがプロのアスリートになってからは数回しか記録がないものの、これまでヴァージンが出した、約10kmのトレイルランニングの最高タイムが33分52秒。トラックとロードでは走る感触や風向きなどが何もかも違うが、今のヴァージンに10000m走を同じタイムで走れと言われれば、ものすごくスローペースだった。
(2分縮めるの……、有言実行してみるか……)
数日しか滞在しないと決めたときには、ヴァージンは実家でのトレーニングは肩慣らし程度にしようと思っていた。だが、実家で新しいシューズを取り出した瞬間、初めてとなるロードレースは本気で走ろうと思ったのだ。
フローラが、ヴァージンに向けて手を出した。
「いい、ヴァージン?」
「もちろん」
フローラの合図で、ヴァージンは「マックスチャレンジャー」でアメジスタの大地を蹴り上げた。普段の10000mのレースと同じストライドで地面を叩きつけるが、アメジスタの土を前にしても、シューズのエアーはヴァージンの足を優しく、そして力強く包み込んだ。
(全然軽い……。まだスピード上げられるかもしれない!)
10000mで常に意識する、ラップ75秒ほどのペースで、ヴァージンは雑木林へと続くなだらかな坂を駆け降りる。途中で上り坂に変わることは分かっているのに、そのシューズはそこをも軽々と超えていきそうだ。
そして、全く足に疲れを感じないまま、ヴァージンは上り坂でギアを上げた。それでも、足は軽かった。
(やっぱり……、上り下りのある土のコースでも、このシューズすごく力を発揮する!)
ヴァージンは、走り慣れたランニングコースを、少しずつペースを上げながら突き進む。中等学校の頃と比べると、アメジスタにそよぐ風が格段に速く感じ、それはヴァージンに気持ちよさをも与えていた。