第31話 私はアメジスタの恥なんですか(5)
ヴァージンは、ドクタール博士の運転で、アメジスタの首都グリンシュタインに向かう。アメジスタではほとんど車が走っておらず、車を所有しているのもたいていはある程度所得のある、ほんの一握りの人だけだった。だが、特許を認められただけで今まで止まってしまい、こうして人里離れた場所で過ごす博士が、車を持っているというのは何頭の理由があるのかもしれない。
「ドクタール博士、普段は車運転されることってあるんですか?」
「あるな。歩いて1時間以上かかるなら……、できる限り車を使うようにしているよ」
アメジスタではよく見かけ、オメガ国ではまず見ないような、古めかしいデザインの車が、ゴトゴト音を立てて砂利道を走っていく。オメガをはじめ、ヴァージンがレースに出向くほとんどの国で排ガス規制の看板を見かけるが、ここではその規制値をはるかに超える煙が車から出ているように思えた。
「私も、実家に自転車があるんですが……、なるべくなら走るようにしています。10000mは絶対に走ってます」
「走る……。もしかして、さっきアスリートって言ってたの……、もしかして陸上選手じゃな?」
「はい。私は、長距離走をメインで走っています。5000mとか、10000mとか……」
「なるほどな……。そのたくましい足を見て、わしもそう思った……。で、世界ではうまくやってるのかね」
車を運転しながら、ドクタール博士は助手席に座るヴァージンの顔に何度も振り向く。目の前に見える、グリンシュタインまでのありふれた道と、アメジスタ人とは言え滅多に見ることのできない選手の表情。いまこの瞬間、どちらを選ぶかは自明だった。
何もかもが気になって仕方なさそうなドクタール博士の目を見ながら、ヴァージンは返事した。
「はい。世界で、相当名前を残してます。だって、いま、世界で誰よりも速く、5000mを走れる女子ですもの」
「世界記録……、かね。惜しい人材じゃよ」
「惜しい人材ですか……?今まで、そんな言われたことなかったです」
ヴァージンは、一度深い息をついたドクタール博士に向けて首をかしげた。
「惜しい人材じゃ……、もしアメジスタなんて国に生まれなかったら……、もっと有名になってたんじゃろう」
「そんなこと……」
ヴァージンは、そこまで言いかけて、そこから何も言えなかった。ドクタール博士の言っていることも、決して間違いではなかった。ヴァージンが世界に飛び出した時こそ、5000mでは上位のほとんどオメガ人だったが、今じゃ表彰台にアメジスタ含め様々な国の選手が上がっている。どこにいてもチャンスはあるのだった。
ただ、生まれてくる場所を変えることだけは、どの選手にもできなかった。
「私……、アメジスタに生まれて……、とか、そんなこと思ってないです。たしかに、例えばオメガ国に生まれていたら、もっと早い段階でトップ選手を育てるアカデミーに入っていたかもしれません……。でも、アメジスタに生まれて、そこから世界を目指すのですから、アメジスタ人として私は走るんです」
答えになっていないように、ヴァージンには思えた。この言葉を跳ね返すには、いろいろな言葉が用意されているのも、ヴァージンの23年近い人生の中から見ても、また確かだった。その言葉の引き出しの中から、どれだけ説得力のある返事ができるか、ヴァージンは試行錯誤していた。
「それに……、世界の頂点を目指すのは、どこに生まれたって同じです。生まれた国を背負って戦い続けるのも、どこに生まれたって同じです。私は、この国で生まれたことを、決して恥じてはいません」
「そうじゃな……。やはり、アスリートらしい強い言葉じゃ……。感心するよ」
そう言って、ドクタール博士は正面に向き直った。ちょうど正面から、この日初めてとなる対向車が来て、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
(やっぱり……、私は有名じゃないのかもしれない……。ここ、アメジスタでは……)
これまでに、世界記録を7回、室内世界記録を2回打ち破ってきたこと。女子10000mでは初めて世界競技会の表彰台の中央に立ったこと。それは、世界中にリアルタイムの画像で届けられる、はずだった。
ヴァージンは、改めてアメジスタの現実を思い知った。そして、嫌な予感がした。
グリンシュタインの聖堂まで5kmほどとなり、右側にヴァージンが何度も目に焼き付けた場所が現れた。
「これが、私たちの現実です……。アスリートに希望を持てない象徴になっている、廃墟の陸上競技場です」
4年ぶりにこの場所に戻ってきても、全く手を加えられた形跡はなく、むしろ荒廃が増しているように見えた。総合公園全体も全く掃除されておらず、ゴミが散乱している。このままでは、公園もまた同じ運命を辿りそうだ。
ドクタール博士は、荒れた陸上競技場を一目見て、残念がった表情を浮かべる。
「普通は……、体を動かすのにあったほうがいいんじゃがな……、国民が……必要ないと望んどる」
「たしかに……、そうですね。うちの周りで厳密な距離が分からないようなトレイルランニングをするよりも、正確に400mが走れて本番に近い踏み心地で走れるような……、ところがいいはずなんですが……」
「だから、惜しい人材なんじゃよ……。これだけの実力があってもな……、ここにはその凄さは伝わらないんじゃ……。じゃがな……、夢を叶えるための意思は……、相当にある……」
「夢を叶える意思……、ですか……」
ヴァージンは、一度はっきりとうなずき、ドクタール博士の表情を見た。はつらつとしていた。
「さっき、わしは変なこと言ったのかもしれんな……。じゃが、その強い意思を感じての……、その意思に答えてあげたいと思ってるんじゃ……。今日、わしの才能を見抜いてくれた……エクスパフォーマにも重なる」
「本当、そうですよ!ドクタール博士。もし博士の素材が……、世界で戦う私を後押ししているってわかったら、今まで関心のなかった人も、希望を持てなかった人も、私たちに目を向けてくれるかもしれません」
「じゃろうな……」
そう、ヴァージンとドクタール博士が最後に笑ったときだった。グリンシュタインの市街地入り口で、道がふさがれていることに二人は気付いた。家のがれき、捨てられた機械、そして砂や土まで、あらゆるもので道路をふさいでいた。
「おかしいの……。わしは、この先にある聖堂周辺に行きたいんじゃが……」
「聖堂に行って、どうされるつもりなんですか……?」
「職を失って困っている人のなかから数人、一緒に働ける人を探すつもりじゃよ……。じゃがな、本当の中心部は相当……荒れているような気がするんじゃ……」
そう言って、ドクタール博士は物理的に直進できない交差点を一度右折し、次の信号を左に曲がろうとした。だが、そこもバリケードが張り巡らされていた。そこで、ヴァージンはようやく確信した。
(私がニュースでアメジスタを見ない間に、状況がもっと悪化しているのか知れない……)
アメジスタの債務問題。それは、一度増税という形で収集を図ろうとしたが、反対派が徹底抗戦して多くの死者が出ている、というニュースで止まっている。ヴァージン自身の力と言ってもいいくらいの方法で、今でこそ債務問題そのものは決着がついているものの、一度分断されてしまった街は、元に戻っていないようだ。
「あの……、大聖堂に車で入るにはどうすればいいんですか……?」
ヴァージンは、車の窓を開けて、道行く人に構わず尋ねてみた。すると、すぐに若い男性からこう帰ってきた。
「ここは、『死んだ街』さ。大聖堂は、反対側から入るしかない……」
(死んだ街……)
世界で最も貧しい国とされるアメジスタでも、ここグリンシュタインだけは活気に溢れていなければならないはずだった。それが、わずか4年間訪れないうちに、街そのものが死んでいると言われている。ヴァージンは、呆然とした表情で礼を言うしかなかった。
「反対側からは入れるんじゃな……。そうなると……、ここは『死んだ街』とそうでない場所で真っ二つか……」
「その可能性……、ありますね……」
不気味な雰囲気が漂う、首都グリンシュタイン。その現実を確かめるまで、ヴァージンは実家に向かう気になれなかった。いくつもの通行止めの道を横目で見て、ようやく左に曲がれるところから、ドクタール博士の運転する車は大聖堂に向かっていった。
そして、聖堂の前の広場に着いた。
(嘘でしょ……!)
車を降りたヴァージンの目に、信じられない光景が飛び込んできた。広場の中央に一直線にゴミの山が並べられており、それが大聖堂の入り口のドア近くまで続いている。そこを境に、街が真っ二つに分断されていたのだった。




