第4話 アカデミーの仲間入り(3)
ヴァージンがアカデミーの門をくぐってから1週間が経った。これまで中等学校の校庭で走ることが練習のメインになっていたヴァージンにとっては、ある意味で信じられないような量のメニューをこなしていった。
日にもよるが、ウエイトトレーニングだけでほぼ半日を費やすこともあった。ロッカーでいつもの朱色のウェアに着替えると、マゼラウスにトレーニングルームに案内され、軽い準備運動の後、バーベル、ダンベル、そして短い間隔で様々なフォームで膝などを伸ばしていく筋トレ……。
「はぁ……」
「だいぶ疲れてきたようだな。ヴァージン、ちょっと早いが10分休んでいいぞ」
筋トレだけで、いつの間にか全身の力を使い切ったヴァージンは、言葉も返す間もなく木でできた長椅子に腰かけた。5000mを3本走るよりも、膝にかかる負担の重さを感じていた。
ヴァージンはこれまでと全く違う練習メニューに文句言わずに食らいついて来た。それでも、そろそろ限界に近くなってきた。思う存分自分の力を出し切って走りたい。
「……っ」
ヴァージンは、突然尿意を感じ、トレーニング時間中の休憩では初めてとなるトイレへと駆けていった。幸いにして、トレーニングルームを出たところに女性用のトイレがあり、彼女は大急ぎで一番左の個室に駆けこんだ。
「ふぅ……」
アメジスタではほとんど経験したことのない、全自動ウォッシュレット式のトイレの使い方に、ヴァージンはようやく慣れてきた。用が終わると、ゆっくりと便座から立ち上がり、横のレバーを回すことなく水を流す。この間、わずか5秒のタイムラグがあり、ヴァージンは水の流れる音が聞こえてきてから個室の鍵を開けようとしていた。
だが、その時を待つほんのわずかな時間に、ヴァージンの耳に入ってきた言葉はあまりにも重すぎた。
「どうして、あんな奴を指導するんだよ」
「ヴァージン・グランフィールドのことか」
片方はマゼラウスの声で、しかも自分の名が呼ばれていることが分かると、ヴァージンは大慌てで個室を出て、その場で立ち止まった。幸い二人とも男性なので、女子トイレに入ることはないはずだが、それだけに見えない場所で何を話しているかが限りなく気になった。
「あの国だぞ。本気で、あんな奴が世界のトップを狙えると思っているのか」
「実力は本物だと思う。ジュニア大会は、まぐれではないと思うが」
(あぁ……)
よく思われていない。ヴァージンは、二人の会話からかすかにそう呟き、少しずつ遠ざかっていく二人の声にもう一度耳を傾けてみた。
「あのな……。これまで、うちの特待生はみなオメガの選手だっただろ。とくに、マゼラウスが育ててきたのは、一人残らずオメガの人間だったんじゃないのか」
「それは分かってる」
「それがなんだ!またマゼラウスが新しく強化選手をもらったと思ったら、世界で最も貧しい国の」
(何よ……)
ヴァージンは、その瞬間に頭に血が上った気さえしていた。感情を抑えるどころか、足の方が先に出ていた。大股でドアのほうに駆けより、激しい音を立てて女子トイレのドアを力いっぱい引く。そして、マゼラウスとその隣にいた、同じくセントリック・アカデミーのコーチ、ポールマン・フェルナンドの前まで駆け寄り、二人を睨みつけた。
「あ、ヴァージン。今の話を聞いてしまったのか」
マゼラウスが思わず息を飲み込む。その様子を見るなり、ヴァージンの怒りの矛先はフェルナンドに向けられた。だが、初めて間近で目を合わせたフェルナンドは、特に慌てる様子もなく、軽く笑って言った。
「あぁ、別に君のことを悪く思っていったんじゃないよ。君はさ、ジュニア……」
「私のこと、何か言ってたでしょ。アメジスタ生まれだから、どうとか……」
「あ、あぁ。それね、ほら、少なくとも10年以上は、女子の長距離走のトップってみんなオメガ国の選手ばっかりだったから、さ。珍しいと思って」
「そんなこと、言ってないわよ……。私が、アメジスタの出だからと言って、バカにしてたわ」
ヴァージンは、ひたすらフェルナンドの顔ばかり見ていた。隣でマゼラウスが両手を広げてお互いの感情を押さえつけているように見えたが、少なくともヴァージンがそれで止まることはなかった。
「侮辱よ。私に対する侮辱じゃない!」
そう言うと、ヴァージンは首を勢いよく横に振り、トレーニングルームとは真逆の、アカデミーの入口の方にスタスタと歩き出してしまった。練習を続けなければいけないことなど、全く眼中になかった。自らの感情に任せて、受付近くのロビーまで歩き、そこにあったふかふかのソファにボスンと腰をおろし、ガックリと首を垂れた。
(私は、何をやってるんだろう……)
これまで、どんなトレーニングも楽しんでこなしてきたヴァージンは、ソファに腰を下ろしてから石のように動けなくなってしまった。感情をコントロールできなかったことに対する、自分への怒りさえ出てくる。時折、右の拳をソファに叩き付け、自分のしたことに腹を立てた。
少なくとも、せっかく世界のトップアスリートに育ててくれるということで入ったはずのアカデミーで、一人の初対面のコーチといざこざを起こしたことには、ヴァージンのほうに非がある。フェルナンドの不用意な一言でヴァージンの怒りが爆発したという見方もできるが、コーチに酷い言葉を浴びせ、いまこうして練習を放棄していること自体、アカデミーではあってはいけないはずのことだった。
(どうすればいいいんだろう、私……)
ヴァージンは、どこか冷たい風を感じ、ふと顔を上げた。
この時間から練習に入るアカデミー生たちが、自分の前を続々と通過している。
練習を続ける気になれないヴァージンなど全く気に留めず、アカデミー生は自分の思うがままに練習に向かっている。
少なくとも、この人たちには負けているような気さえした。
「悪かった」
何人のアカデミー生が自分の目の前を通過したか分からなくなった頃、ヴァージンはその耳に聞き慣れた声を感じた。その声のする方を振り向くと、マゼラウスとフェルナンドが並んでヴァージンのほうを見つめていた。ヴァージンは、わずか数秒もフェルナンドの表情を見つめることができず、スッと首を元に戻してしまった。
「ヴァージン。君にはすごい失礼なことを言ってしまった。謝るよ」
「もう……いいです……」
フェルナンドが笑ってそう言うも、ヴァージンにはその笑顔の奥に悪魔の表情が見える気さえした。フェルナンドには、裏でもう一人のフェルナンドがいるとさえ思えた。
先にヴァージンの視線の高さまで中腰になったフェルナンドに続き、マゼラウスも膝を折り曲げ、体を前に出して、沈みきってしまった教え子に言葉を投げかける。
「フェルナンドに、さっき私はきつく叱った。そんなの人権侵害だって。それで、許してくれないかの」
「……」
まだ不貞腐れた表情しか見せないヴァージンに、フェルナンドがさらに声を掛ける。
「スポーツの世界に、国籍なんて関係ない。目の色、肌の色、育ってきた環境とか、本当は一人一人違う……。それを忘れてしまったのは、自分が悪い……」
そう言うと、フェルナンドは両手をロビーのタイルの上に力強く叩き付け、うずくまるように首を下に垂れた。
「もうあんなことは言わない。君を傷つけてしまったのは、本当にすまなかった」
「……分かりました」
ヴァージンの口は、はっきりとそう呟いていた。
だが、それと同時に胸の内でどこか熱い想いが込み上げてきていた。
アメジスタ人だからと、一度でもバカにされてしまったアスリートが、世界の頂点に立ってフェルナンドを見返してみたい、と。
「コーチ。おはようございます」
ゆっくりと体を元に戻すフェルナンドに、ヴァージンよりも少し背の高い、やや肌の黒いアカデミー生が話しかけた。ヴァージンは、目の前に現れたツインテールの黒髪の女性を見て、思わず息を飲み込んだ。
(……ヘレン・グラティシモ!)
ヴァージンが雑誌で何度も目にしている、女子長距離走でも一、二を争う女子選手の姿が、いま彼女の目の前に現れていた。ヴァージンが恐る恐るグラティシモの表情を見つめると、グラティシモはソファに腰かけているだけの小さなライバルを軽く見下していた。
(グラティシモには……負けちゃいけない!)
気が付くと、フェルナンドに対する怒りは全うなものへと変質していたようだった。
「ヴァージン」
フェルナンドがグラティシモとともに歩き出すと、ヴァージンはゆっくりと立ち上がった。だが、その瞬間にこれまでなだめるような表情を見せてきたマゼラウスが、鬼のような形相で言った。
「はい」
「今のは、アスリートとしてやっては絶対にいけないことだ」
ヴァージンは、初めて見るマゼラウスの表情に、全身が震え上がった。練習が散漫になり始めたときのマゼラウスの強い声とは一線を画す、凍りついた感じの言葉だ。
「フェルナンドが、君の全てを否定するようなことを言ったのは問題だ。だが、それで感情を爆発させてしまった君の方が、その何倍も問題だ」
「……はい」
「腹の中が煮えくり返った状態で、レースに臨んでも、いい結果は出るはずがない。もちろん、練習もそうだ。今日、一度でも気持ちを壊してしまった君が、今日これから普段通りの練習ができるとは思えない」
(そんな……)
そう思うものの、ヴァージンはフェルナンドに言われたことが頭に残ってしまっていたので、マゼラウスに言い返すこともできなかった。
「もう、帰れ。君が、本当にこのままでいいのか、一晩考えてこい」
マゼラウスは、ゆっくりと後ろを向き、コーチの控室に歩き出してしまった。
「明日、君と会うときもそんな顔をしてたら、その段階で私は明日も面倒を見ない。分かったな」
「……分かりました」
ヴァージンの目の前から、大切なコーチが消え去っていった。ヴァージンは、コーチ控室のドアが完全に閉まると、最後に右足を強く叩き付けて、力なくロッカールームに消えていった。