第31話 私はアメジスタの恥なんですか(2)
出発の日が近づくにつれ、ヴァージンにはしなければならないことがあった。まず、その科学者との商談が終わった後に戻ると、実家のジョージに手紙を出すこと。現地で必要な普段着とトレーニングウェアの用意。そして、家族に見せる新しいシューズと、この夏世界競技会の女子10000mで獲得した輝かしい金メダルを、最初からバッグに詰めることだった。
(4年ぶりのアメジスタか……。なんか、とてもとても懐かしく覚えるなぁ……)
ヴァージンは、出発の準備をする間に、何度も故郷アメジスタの景色を思い出していた。16歳まで過ごしていたアメジスタののどかな景色を、ヴァージンは決して忘れることができなかった。出発の日が近づいてくると、いよいよヴァージンは、夢にまでアメジスタの思い出の場所が出てくるようになってきた。
(トレイルランニングに使っていたあの場所、今も誰かが使っているはず……。聖堂には、相変わらず多くの人が集まって、日曜日には夢語りの広場で夢を掴む人が出てくる……。そして……)
ヴァージンはそこまで思い浮かべると、最後にどうしても忘れることのできない画像を思った。
(立ち入り禁止の陸上競技場……。少しだけ、整備されているのかな……)
一度その全てを没収されたものの、ヴァージンは自分用の銀行口座とは別に「アメジスタ・ドリーム」という祖国支援のための基金を持っている。まだ、そこから具体的に引き出すようなことはしていないが、ヴァージンはいつも、アメジスタのあの場所を元通りにしたいという想いがあった。
(4年できっと、うまくいってるはず……)
たしかに、その4年の間に、ヴァージン自身も巻き込まれた債務問題があり、それはアメジスタに暗い影を落としていた。だが、最近はネットのニュースでアメジスタという言葉を聞くこともなくなり、世界から注目されない国へと戻ったように、ヴァージンには思えた。
そして、出発の日。ヴァージンは早朝4時という真っ暗な時間帯に、エクスパフォーマの本社に向かった。この時間は正面玄関が開いていないため、ヒルトップが通用口の前で待っており、彼のカードキーで中に入ることができた。そして、ヴァージンとヒルトップ以外誰も乗るはずのないエレベーターは、一気に上昇した。
「さぁ、屋上のヘリポートへと向かいますよ」
ヴァージンがヒルトップの表情を見ると、ヒルトップのほうがむしろ夢の世界に向かっていきそうな目をしていた。ヴァージンはというと、普段飛行機で帰郷しているだけあり、飛行場ではないこの場所に困惑している。
そして、二人が50階に着くと、目の前に鉄製の扉がそびえ立っていた。
「何もない空間に鉄扉……。ヒルトップさん、ここで行き止まりじゃないですか……」
「大丈夫ですよ。既に、操縦者がこのドアを開けてますから。このカードで開けたら、すぐ閉まりますよ」
ヴァージンは、ヒルトップに背中を押されるままに鉄扉を通り抜けた。わずか5秒で扉が閉まった途端、ヴァージンは強い風で髪が揺れるのを感じた。外、つまりビルの屋上に出たのだ。
しばらく夜の屋上の景色を眺めているうちに、ヴァージンは右側にセスナ機が止まっているのが見えた。
「もしかして……、あれがヒルトップさんの言ってたセスナですか……?」
「そうですよ。グランフィールド選手、もしかしてセスナに乗ったことがないとかですか?」
「見たこともないです……。空も海も、私には全く分からない世界です」
ヴァージンの目に映ったセスナは、機体後部にプロペラがついており、ヴァージンがこれまでアメジスタに行くために乗ってきた中型の飛行機とは、全く違うサイズだった。普通の飛行機よりも助走に距離を要しないため、こうやってビルの屋上でも止められるし、通常の飛行場ではないところに降り立つこともできるのだった。
「じゃあ、行きますよ。乗ってください」
「はい!」
ヴァージンがヒルトップと並んで後部座席に乗り込むと同時に、プロペラが勢いよく回り始めた。その音に、ヴァージンは耳に強い衝撃を覚えたが、すぐに衝撃は収まった。そして、まるでジャンプするかのようにセスナがビルの屋上を離れると、オメガ国の明け方の空に向かってその翼を羽ばたかせた。
ある程度の高度まで上がり、アメジスタの方角へ飛行を始めたとき、ようやくヒルトップが口を開いた。
「グランフィールド選手にとって初めてのセスナは、大丈夫ですか?」
「はい……。なんか飛行機とは全然違う衝撃がにじみ出ています……」
「なるほどね……。こっちは、ビジネスで世界中を飛び回りますから、専用のセスナにいつも乗ってますよ」
ヒルトップは、そこまで言うと座席の背もたれに頭をつけた。ヴァージンにとっては慣れないセスナを、いかにも毎日のように使いこなしているかのように、ヒルトップが気持ちよさそうに乗っていた。
「私にとって、知らない世界がまだまだあるんですね……。この明け方の空を、操縦士入れてたった3人で飛んでいくなんて、ある意味ロマンだと思うんです」
「ロマン……。たしかに、それは言えますね。人間は、ずっと空を追い続けてきたんですから」
ヴァージンは、ヒルトップのその言葉に、何の躊躇もなく首を縦に振った。
人類が空を追い続けることが、ちょうどヴァージンが世界のライバルを追い続ける姿に重なったからだ。
(私は、自分の今をこうして掴んできたわけだし……。これからも道なき道を進んでいく存在なのかも知れない)
ヴァージンは、ヒルトップが隣で寝始めても、目を開けてアメジスタへの空路を目で追い続けた。朝日が空や雲を照らし、そしてヴァージン自身も明るく照らしていたのだった。
「そろそろアメジスタに着きますよ、グランフィールド選手」
どれくらい時間が経っただろうか。気が付くと、ヴァージンも目を閉じて、セスナの中で眠ってしまっていた。ヒルトップの声に我に返ったヴァージンは、思わずセスナの窓に顔を近づけた。そして、すぐに息を飲み込んだ。
(あれ……?ここ、アメジスタの中でも最も南にある半島じゃ……)
ヴァージンは、頭の中にアメジスタの地図を思い浮かべた。内陸の方にある首都グリンシュタインから、およそ300kmは離れている。海に面しているとは言え、港は見えず、牧場も耕作地もない。その国で生まれ育ったヴァージンの目から見ても、アメジスタの中で特に荒れ果てた地としか思えなかった。
(その中に、特殊な繊維を作ってきた人がいる……。どういう人なんだろう……)
そうヴァージンが思っているうちに、操縦士がモニタで目的地を確認してからゆっくりとセスナの高度を下げた。本当に海岸からほど近いところに着地するようだ。それでもヴァージンの目には、目的となる研究者がいるような建物が見当たらない。
やがて、ヴァージンは地上に吹く潮風を感じ、セスナは何もない草原に降り立った。その瞬間、ヒルトップがやや困惑したような表情を浮かべ、セスナのドアを小さく開く。
「ここで……、大丈夫なはずですよね……。たしか、検索だと……、ここって出るんですが……」
ヴァージンも、ヒルトップの持っていたメモ用紙を遠目で見る。地名としては南部にありそうな場所で、底に書いてあった村の名前と、今いるこの場所にたまたまあった古い立て札に書いてある名前が同じだった。そうであるにもかかわらず、目当ての研究者がいそうな建物は見当たらなかった。いや、建物そのものが遠くにしか見えなかった。
ヴァージンは、ヒルトップの横に立って尋ねた。
「ヒルトップさん。研究者との手紙は、問題なくやりとりできてるんですよね」
「勿論です。グランフィールド選手が言ってたように、週に1便しか飛行機がありませんから、何回かに分けて向こうが出した手紙がいっぺんに届きますが、それでも問題はありません」
そう言って、ヒルトップは海岸にほど近い草原を歩きだした。膝の高さまである草を左右に分けながら、いち早く主要道路を見つける作戦だった。その後から、ヴァージンも追っていく。
「あれ……」
ヴァージンは、草原からたまたま目を離したとき、草が5m四方でぽっかりなくなっている場所が目に飛び込んできた。草原の中で人が暮らすことはできないが、そこなら誰かいる可能性がある。ヴァージンは、この貧しい国アメジスタで、そういう人を何人も見てきたのだった。
ヒルトップの作ってくれた道とは違う道を、ヴァージンは歩み出した。そして、最後の草を割った。
(……っ!)
そこには、一人の老人が、明らかに数日分はありそうな食料と、そして何枚ものシャツに囲まれながら、ただ座禅のような姿勢で座っていたのだった。
「ヒルトップさん!もしかしたら、この方が……」
ヴァージンが力強くそう言ったとき、その男性の目が開いた。突然訪れた人間に、その男性は戸惑いの表情を浮かべるしかなかった。