第30話 異次元のランニングシューズ(6)
「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のブランド立ち上げイベントのステージに降り立ったヴァージンは、割れんばかりの大歓声に迎えられた。4人が同時に舞台に上がったため、誰に対する声援かは分からない。それでも、それらが全てヴァージンに向けられているような気がしたのだった。
緊張が一気に吹き飛んだヴァージンは、顔も作ることができず、その中に溶け込んでいく。スクリーンでは、巨大なXの文字が迫ってきて、その奥からステージに上がった4人の選手のプロフィールが映し出される。再び司会がマイクを持って、モデルアスリートを一人一人紹介し始めたのだ。
「まずは、男子100mで、世界トップクラスの実力を持つ、10秒切りは当たり前、ザック・オルブライト選手!」
ステージに現れた瞬間に沸き上がった歓声は、ここで再び高まった。先日の世界競技会はもちろんのこと、それ以外の大会でも、男子の短距離走こそ「世界最速を決める」と称されることが多いため、人気も高かった。その人気を一気に受けたオルブライトは、右膝を上げて、シューズに描かれたXの文字を見せた。
(やっぱり、反発性を重視したシューズだけあって、オルブライトさんが一番似合ってる……)
オルブライトの履いているシューズは、輝くようなイエロー。肌の色が濃いだけあって、そのパワーの源となる部分に輝いているシューズの色は、レースで多くの陸上選手を見てきたヴァージンから見ても似合っていた。
「続きまして、男子走り高跳びではもはや神、跳躍1回でバーを乗り越えるスーパージャンパー、フレッド・ジョンソン選手!」
ジョンソンもまた、公式戦10連勝を記録したあたりから一気にファンが増え始めた選手だった。司会の声に誘われるようにステージの前に出てきたジョンソンは、そのままステージの端から走り始めた。踏み込みこそしなかったが、ストライドの大きいその走り方は、まさに走り高跳びだった。
(シューズやウェアをそこまで見せていないのに、ジョンソンさんが走り出すとどこか輝いて見える……)
ジョンソンの履いているシューズは青。そしてウェアの上下が赤と黒という、どこかの国旗にありそうな――もう少しでアメジスタの国旗の配色に揃ってしまうような――配色だった。
続いて3人目。ヴァージンはスクリーンに注目した。だが、出てきた選手は違う顔だった。
「3人目は、やり投げで世界競技会金メダリスト、甘いマスクという槍で女性のハートをも射貫く、ルイス・カルキュレイム選手!」
カルキュレイムは、黒いシューズを履いたまま、右足を軸にしてステージの上で1周回ってみせた。やり投げというより、砲丸投げの選手が見せるしぐさで、力強く回っていた。そして、回り終えた後には口に右手を近づけ、やり投げのような放物線を描くように客席に右手を振りまいてみせた。
(黒はまた重厚な感じがする……。力強く大地を踏むような感じ……)
同じ「マックスチャレンジャー」を履いているはずなのに、カルキュレイムの色から受ける印象は前の二人と雰囲気が異なっていた。本番で走ることがないので、動きよりも軸を重視した感じになっている。白のトレーニングシャツが、その黒と異様なほどマッチしていたのだった。
(そして、私……)
もう、残されているのはヴァージンしかいなかった。次で、確実に呼ばれる。
ヴァージンは、一瞬だけ自分の足元を見た。燃えるようなレッドのシューズが、その時を今か今かと待っているようだった。その力強いデザインのシューズを見て、ヴァージンは一度うなずいた。
「最後は、女子5000mの世界記録を塗り替え、その足で数々の奇跡をものにしてきた、ヴァージン・グランフィールド選手!」
ヴァージンは、そう呼ばれたと同時に前に出た。その瞬間、やはり歓声が沸き上がった。一歩前に出て聞く歓声は、これまで聞いていた他の選手のものと比べてひときわ大きく聞こえた。
――ヴァージン・グランフィールド!陸上長距離で今や世界最強女子じゃん!
――その赤いシューズ、激走するヴァージンにはとっても似合ってるよ!
(涙出そう……)
ステージに立つ選手の中で、ヴァージンはただ一人の女子選手だった。そして、紹介も最後だった。それでも、どの選手にも劣らない期待が、集まった人々の中にもあった。そして、その期待はヴァージンがこれから身につけて宣伝するであろう、エクスパフォーマの未来に対しても。
そのことを思うにつれ、ヴァージンは次に何をすればいいのか分からなくなった。他の3人は、全てステージ上で何かしら製品を大きく見せるようなアピールをしている。だが、ヴァージンにはそれが思いつかなかった。
(でも……、思いつかないなら、普段の自分を見せればいい……)
ヴァージンは、ほぼ無意識に横を向いて、ステージでスタートの姿勢を見せた。次の瞬間、ヴァージンはほんの数歩だけ、普段やっているように力強く走り出した。ステージの幅さえなければ、100m、いや5000mぐらい本気で走ってしまいそうな勢いだった。その走る姿に、客席は再び沸いた。
「ありがとう……、本当ありがとう……。私、エクスパフォーマでこれから頑張ります!」
ヴァージンとエクスパフォーマの未来に期待してくれる人々に、ヴァージンはそう言いながら大きく手を振った。ほんの数十秒という、普段のレースで実力を見せる時間から比べればあまりにも短い時間だが、ヴァージンにとっては、またしても夢のような時間だった。
ヴァージンが再び元の位置に戻ると、ヒルトップからブランドの紹介、そして新しいシューズ「マックスチャレンジャー」の紹介、そしてウェアの紹介と続けられた。その度に、ヴァージンは他の3人のしているようにロゴや製品を見せ、エクスパフォーマの一員としてできる限り振る舞った。
「というわけで、4人にモデルアスリートも夢を追い続けます!もし私どもの挑戦に共感できる方がおりましたら、ぜひ『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』をよろしくお願いします!」
大歓声の中、ブランド立ち上げイベントは終わった。あとは、翌年1月の商品発売を待つばかりだった。
ステージを去るヴァージンの目には、スクリーンに映る、躍動感溢れる「X」の文字がずっと刻まれていた。
「お疲れ様でした。お忙しい中、私どもの最初の宣伝に集まって頂き、ありがとうございました」
控室に戻った4人にヒルトップはそう告げ、ヴァージンはようやく我に返った。そもそもこのようなブランド立ち上げイベントを見たことのないヴァージンにとっては、ここまでの時間がやはり夢のようだった。それが、控室に戻り、止まっていた時間がようやく動き出したかのように思えたのだ。
(でも……、マックスチャレンジャーを履いてステージで見せたことだけは覚えている……)
おそらく、レースとのタイアップイベントや新製品のCMなどで、これから何度もこのような機会が訪れるかも知れない。レースでは全く感じたことのない緊張が気持ちを支配して、ステージ上で固まった反省は、ヴァージンの次なる機会に生きていくものだった。
(私が頑張れば、こういう機会はいくらでも増える。人を引きつける力があると言われて、私はヒルトップさんから……、エクスパフォーマから買われたのだから……)
そうヴァージンが思っているうちに、控室での簡単なミーティングは終わった。これで本当に立ち上げイベントが全て終わった。
その時、それを待っていたかのように、ヴァージンの隣に座っていたルイス・カルキュレイムが声を掛けた。
「せっかく、こんなトップブランドの一員として一緒になれたんだからさ、グランフィールドも飲もうよ」
いち早く立ち上がってスポーツバッグを肩にかけようとしていたヴァージンは、カルキュレイムの言葉で思わずそのバッグを床に降ろした。ヴァージンの目に、カルキュレイムの甘いマスクがはっきりと映った。
すると、その横からオルブライトとジョンソンが、ほぼ同時に手招きしながらヴァージンに近づいてきた。
「僕も誘ってよ!女子1男子1じゃ、仲間はずれになっちゃうし、変な関係だと思われるじゃん!」
「俺も飲みに行かせてください!」
これまで、誰もが緊張のあまり素の自分に戻れなかった、エクスパフォーマの専属契約選手たち。それが、この解き放たれた瞬間で一気に変わったかのように、和やかになり始めたのだ。ヴァージンも、心の中からスーッと解放されるものを感じ、すぐに首を縦に振った。
「イベント楽しかったし、せっかくこうして普段会うことのない違う種目の選手と出会ったのですから、4人で飲みましょう」
ヴァージンがそう言うと、目の前の3人が一気に喜んだ表情に変わったのだった。