第30話 異次元のランニングシューズ(5)
ガラス張りのモニタリングルームで5000mを走り切った後、ヴァージンは先程送信機をつけた女性の助手に案内され、個別にシューズ着用時の体の動き方などをモニターで見ることになった。途中から無我夢中で走っていたため、ヴァージンはこの目的が何であるか少しばかり忘れかけていた。
「以前、例えば世界記録を更新した時のレースを分析したのですが、グランフィールド選手は着地してから踏み込むまでの時間が、周りの長距離選手よりやや短めに取る傾向にあります。人間の足に自然のうちに係っているはずの重力を、あまり使ってらっしゃらないようです。これは、自覚されていますか?」
「いえ……。女子5000mだと、ウォーレットさんとか、メリアムさんとか……、レース序盤に飛び出していくライバルのほうが、トラックを叩きつける間隔が短いので、てっきり私のほうが長いと思っていました」
ヴァージンは、マゼラウスから走り方のフォームを映し出されるとき、そこまで着地から踏み込むまでの間隔について言われたことがなかった。逆に、ストライドの長さやその時間的な間隔ばかり言われていたのだった。
「そうですか……。そうすると、グランフィールド選手は、後半ペースを上げるために、ある程度のスピードを維持したら、そこからしばらくはゆったりとした……、いわば様子見の走りをしているわけですね」
「そうなります……。最初のうちは、ペースを上げないように意識しています」
「それで、今日の本題に入るんですが……、履いてみてどうでしたか?」
「はい。ものすごく衝撃が少なくて、それでも力強く踏み出すことができて……、今まで私が履いてきたシューズの中で、一番私に合っていると思いました」
ヴァージンは、ヒルトップに走り終えた後の感触を告げたときと全く同じような表情で、その女助手に告げた。助手のほうは、いかにも研究者とも言うような冷静な表情で、ヴァージンの言葉に耳を傾ける。
「そうでしたか……。今日の走り方は、いつも走っているときと同じペース配分を意識されましたか?」
「そうですね。できる限り本番に近いレース展開を心掛けました」
「ただ、このデータを見る限り、足の衝撃がかなり小さくなっているように思えます。勿論、人間の感覚なので、本当のところはグランフィールド選手にしか分からないところがありますが……。そのあたり、今日走ってみてまだまだペースを上げられると思いましたか?」
「言う通り、まだまだ足だけは元気なような気がします……。全然疲れません」
ヴァージンは、右足を軽く上げて、「マックスチャレンジャー」の靴底を軽く叩いた。つい10分前に5000mを走り終えたはずのその足には、まだ力が残っていると改めて感じた。
「そうですね……。もしそうだとすれば、こちらから二つの方法でアドバイスできると思いますよ」
「お願いします」
「まず、シューズのクッションをより使ったほうが、踏み込むときのパワーは上げられると思います。とにかく、今までと同じ衝撃になるまで踏み込むのです。で、同じストライドでも、グランフィールド選手のように気持ちゆったり走るのではなく、完全に地面につけてから踏み込み、今までよりも滞空時間を短くできれば、そのシューズで推進力が生まれてくるかもしれません」
「分かりました。でも……、このエアーが強すぎて、極限まで踏み込みすぎたら、思うように足が上げられなくなりそうです。シューズを軽くトラックにつけるのをやめたら、足だけでなく膝とかの負担も増えてしまうかもしれません」
「そうですか……、ではもう一つの方法がお勧めですね」
そう言うと、女助手は何やらモニター上でファイルを開いた。そこには、「シューズの滞空時間と重力」と書かれたグラフが表示されていた。
「こちらをご覧ください。これは、グランフィールド選手ではなく、開発スタッフで長距離を走ってみたときの結果なのですが……、どのくらいの滞空時間でシューズを着地させれば衝撃がどれくらいになるか、というのを現したグラフです。滞空時間が長ければ運動も大きくなりますので、叩きつける間隔が長ければ長いほど負担がかからないことには、実はならないんですよ」
「そうだったんですか……」
ヴァージンは、軽く息を飲み込んで言葉を返した。完全にグラフに見入っていたのだった。
「もし、グランフィールド選手のストライドが変わらないとすれば、もう少し短い間隔で足を叩きつけたほうが……、つまりスピードを上げたほうが、シューズにかかる負担はある程度のところまで軽減できます」
「つまり、スピードを上げたほうが楽に走れるってことですか……?」
ヴァージンは、わずかな時間戸惑いながらもそう返した。単純に考えればありえない話だった。だが、ここまでシューズにかかる衝撃が少なかったからこそできるアドバイスであるように、ヴァージンには思えた。
「そういうことになります。なかなか、序盤からペースを上げるというシフトが難しいと思いますが、シューズの履き心地を研究する観点からすれば、そのアドバイスもできます」
「コーチに確認してみますが、できれば、やってみたいです。今まで、得意のスパートがしぼむ恐怖に怯えて、なかなかラップ70秒をコンスタントに切る走り方ができませんでしたから」
ヴァージンは、女助手の表情を見ながら、ある程度の確信と覚悟を誓った。
(エクスパフォーマから授かった新しいシューズが、ヴァージンの走りに足元からパワーをくれる。それに応えることができると思われているからこそ、私は、エクスパフォーマのモデルアスリートになれた……)
ヴァージンは、頭の中でそう思い浮かべ、この新しいブランドを背負った。
その翌日の日曜日には、速乾性のトレーニングウェア、そしてレーシングウェアの試作品のフィッティングが行われ、シューズの時と同じようにモニタリングテストが行われた。ヴァージンも前日と同じように5000mを走るかと思いきや、1000mを全力で走るという指示になり、新しいシューズで走り方を変えようとしたヴァージンにとっては肩透かしを食らった形になった。
そして、その数日後の夜には、4人の専属契約選手とエクスパフォーマの幹部、そして新ブランド「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のスタッフたちが、オメガセントラルのウエストアリーナに会し、ブランド立ち上げのイベントが行われた。CEOのランドスケープの挨拶、開発準備室長から正式に開発本部長に肩書が変わったヒルトップの挨拶、それにエクスパフォーマの各競技のブランドの代表が挨拶を交わした後、いよいよモデルアスリートのお披露目の時間がやってきた。
「皆さん、まだ私たちは、誰がモデルアスリートに選ばれたか、公表はしていません。なので、会場がどよめくかもしれませんが、シューズやウェアをまるでファッションショーのように見せるよう心掛けてください」
「はいっ!」
控室に集まった4人に、ヒルトップが真剣そうな表情で言う。そのまますぐ、4人は舞台裏に案内された。そのような中、出演時間が近づくにつれてひときわ震えていたのが、ヴァージンだった。
「緊張する……」
控室に入るまでは平気だったはずのヴァージンが、舞台袖に立ったまま周りのものが見えなくなり始めていた。フィッティングの時と違い、いま履いているシューズは色のついた「製品」で、もはや本番そのものだった。レースが始まるわけでもないのに、心臓の打つ音が少しずつ早くなるのを感じた。
「どうしたんだい、グランフィールド。いつも大胆にトラックを駆けるグランフィールドらしくないぞ」
ヴァージンは、そう言われた瞬間、肩を軽く叩かれたような感触を覚えた。その声は、決してヒルトップのものではなかった。振り向くと、そこには小さな顔で微笑むルイス・カルキュレイムの姿があった。
(なんか……、私を包んでくれそうな声……)
ヴァージンは、先程の緊張とは全く異質の身震いを覚え、カルキュレイムの表情を見た。ダークブラウンのショートヘアの下で、彼はヴァージンに向けてずっとにこりと笑っていたのだった。
「あ、ありがとうございます」
「礼を言われるほどじゃないよ。きっと、まだ発表されていないモデルが出てきて、ここは興奮する。そうなったら、興奮を味方につければいいじゃん」
「そう……、ですね……!」
そうヴァージンが言った瞬間、ドアの隙間から見える景色が真っ暗になった。同時に、スクリーンにエクスパフォーマのロゴ――躍動感のある大きなXのロゴに、PAFOMAの文字が重なる。
(私は、いまエクスパフォーマと専属契約を結んだ……)
ここに集う誰にとっても、初めてのブランド。その誕生の瞬間を見ようと、ヴァージンは会場の人々と同じようにスクリーンに見入った。その映像に、力強い言葉が重なる。
「バスケットボール、テニス、そしてサッカー。そのたびに選手や、その動きを見る誰もを魅了し、そしてそれを着てみたいと思わせてきた、我がエクスパフォーマ。ついに、陸上競技というステージに降り立った」
その時、ヴァージンの背後で係員が「あと10秒」と告げた。舞台袖のカーテンから見える景色が広がる。
「そのブランドをまとい、世界に挑戦し続ける超人4人、ここに集う……!」
大きな歓声が、その場を包み込んだ。ヴァージンは、それに後押しされるように、いま始まりの舞台に飛び出した。