第30話 異次元のランニングシューズ(4)
(この部屋、なんか……、吸い込まれそう……)
エクスパフォーマと専属契約を結んだ4人の中で最後にガラス張りの部屋に入ったヴァージンは、右足を一歩踏み入れた途端息を飲み込みかけた。これから、実際にヴァージンのメイン種目である5000mを走るはずなのに、目の前のスケールに圧倒されて、そこから先に足が進まない。
モニターには、既に陸上競技場の薄青のトラックが映し出されており、しかもゴールとは反対側のコーナーがはっきりと映っている。ちょうどスタートの時に選手の目から見えるアングルだった。
「驚かれましたか……。これが、私どもの最新の技術ですよ」
ヒルトップは、ヴァージンの表情を見つつ、モニターを指差した。ヴァージンの想像した通り、この人工的に作り出された陸上競技場を見ながら、走るということのようだ。
「本当にすごいです……、これなら、トラックがなくたってトレーニングができるかも知れませんね」
ヴァージンがそう言ったとき、部屋の外からもう一人、助手と思われる女性が入ってきた。これまで3人のモニタリングでは本人とヒルトップしか入らなかったが、ヴァージンは女性と言うこともあってか、モニタリングの前にもう一人入るようだ。
ヴァージンは、その女性が手に持っているものを見た。何やら、小さなビーズのように見える。すると、その女性がヴァージンにそれを差し出し、ゆっくりとこう告げたのだった。
「これは、体の動きを遠隔でチェックできる送信機なんですよ」
「送信機……ですか。全然そういうように見えないし……、何を送信するんですか?」
「筋肉や関節の動きを送るのです。グランフィールド選手が、実際にどのように動いているのか、そしてエクスパフォーマの製品を着用して、どれだけ体への負担が変わっていったのか。そういうことが分かるんです」
ヴァージンは、体の動き方を測定する機械があるということは、話には聞いていた。だが、それでは全身にいくつものコードを繋がれて、とても激しいレースができないような環境の下で測定するしかなかった。だが、今回用意されたものは、コードは全くなく、裏面のシールで測定部分につけていくだけの軽いものだった。
「これ、とっても軽いんです。送信機一つの重さが、だいたい0.1gです。それでいて、体の動きを正確に記録できる、優れものなのです」
助手の女性は、やや得意げになってヴァージンにそう返すと、トレーニングシャツをまくし上げて、両側の腰にシールをつけた。次いで肩、膝と続き、本題のシューズの部分にシールをつけたのだった。
(これ、走っているうちに踏んじゃうかも……って思ったけど、薄くて全く気にならない……)
全部で20個ほどの送信機がヴァージンに取り付けられた。そのうちの半数以上が、新しいシューズ「マックスチャレンジャー」の中でモニターの時を待っていた。
「では、そろそろ参りましょうか。5000mの、バーチャルレースを」
「はい!」
ヒルトップの言葉に、ヴァージンは素早く首を縦に振る。もうやることは決まった。後は、このルームランナーの上で走り続けるうちに、体の動きがデータとして送られるのだ。
「とりあえず、このルームランナーは、走るスピードを上げれば速くなりますし、逆にスピードを落とせば自動的に遅くなります。グランフィールド選手のほうでマシンを操作することはありませんから、この人工的なスタジアムで、ぜひベストな走りを見せてください。開発チーム、祈ってますよ」
「分かりました」
ヴァージンがそう言うと、ヒルトップは一度うなずいてガラス張りの部屋を出た。そして、天井が青空の色へと変わり、この異質な空間の中でヴァージンが力を見せる、その時がやってきた。
「On Your Marks……」
CGで作っているとは思えないほど繊細なスターターが、号砲を高く上げる。ヴァージンはうなずいた。
号砲とともに、ヴァージンの未知のレースが幕を開けた。
スタートしてすぐ、目の前のスクリーンにカーブが現れる。それと同時に、わずかながらルームランナーも左側に傾く。ちょうど、ヴァージンが体を傾けようとするところで、強制的に体が傾くようになっている。
(この動き……、まるで私がレースでやっているときのようみたい……!)
直線に戻ると、ルームランナーの傾きも元に戻る。そして、ヴァージンが走るのと全く同じスピードで景色が流れていく。しかも、アウトドアでのレースを意識しているのか、「部屋」の中をほんの少しだけ風が流れているようにヴァージンは感じた。
(なんだろう……。いま、ものすごく夢の世界で5000mのタイムトライアルをしているみたい……)
はじめのうちは違和感こそ覚えたが、2周が終わったころにはここが人工的な空間であることを忘れるほど、ヴァージンはその場に溶け込んでいたのだった。ラップ70秒を意識している走りも、それと全く同じスピードで「逆方向に」流れるランニングマシンのおかげで、普段との違いを意識することなくできているのだった。
そして、何より違う意味で違和感を覚えたのは、ヴァージン自身の足だった。
(全然疲れない……。いつもより強くトラックを踏みそうになるくらい、エアーがきいてる……)
普段、このスピードで走っていれば、トラックに足を叩きつける時に軽い衝撃を感じていた。それが、この「マックスチャレンジャー」を履いたときには、衝撃を通り越して、何かトラックが優しく包み込んでくれるような印象を受けた。これまで履いていたイクリプスのシューズとは、格段にクッション性も高まっていたのだった。
(夢のような世界にいるのに……、足元も全然疲れない……。これは、異次元のシューズかも知れない……)
ヴァージンは、5周を終えたところで少しだけペースを上げてみた。ラップ69秒だ。それでも、足の裏に衝撃を全く感じない。次々と足を前に出していけるような、そんな力さえ働いていた。
(もっと上げられるかもしれないけど……、足以外のところに負担がかかるかも知れない……。いつも通り、残り1000mになったらペースを上げてみるけど、なんか楽しみになってきた!)
流れるような景色の中、ヴァージンはトラックの中で完全に集中していた。
そして、ついにヴァージンの最大の武器を発揮するときがやってきた。
(1000m……!さぁ、足はどこまでついていける……)
ヴァージンは、残り1000mを過ぎたあたりで、一気にこれまでよりも短い間隔でルームランナーを叩きつけた。景色の流れるスピードが、これまでよりも速くなる。ヴァージンの走りに画像も連動していた。
そして、次のカーブが終わったときにはラップ65秒を切るようなペースにまで、ヴァージンのスピードは跳ね上がっていた。ここにきて、ようやく足の裏から軽い衝撃が伝わる程度で、ヴァージンは逆に物足りなさすら感じた。
(足が……、まだいけると言っている……。たしかに足首や膝は疲れてきているのに……、足の裏だけは、まだトラックをより激しく叩きたがっているのかもしれない……)
体感的には、4400mの通過タイムが12分45秒ほど。残された時間を考えれば、このお試しの場で世界記録を塗り替えるのは難しい。だが、より激しい動きができることに気が付いたいま、ヴァージンにとって次の記録はいとも簡単に叩き出せそうな気しかしなかった。
そして、いつもの通りにヴァージンの足がトップスピードの走りを見せた。目まぐるしく流れていくトラックの景色。その中を、出せる限り高めたはずのスピードで駆け抜ける。それでも、最後には多少その気配を感じる足の悲鳴は、この日は全く表に出てこなかった。ここにきて、ようやく普段のスピードで感じているような衝撃が、足から膝に伝わってくるくらいだった。
画面にフィニッシュラインが現れ、ヴァージンは全速力で飛び込んでいった。本物のトラックとは違う、全く異質の空間だが、途中から全くそれを感じなくなっていた。そして、クールダウンでルームランナーの上を歩きだしたとき、後ろを振り返ってようやくそこがガラス張りのモニタールームであることに気が付いたくらいだ。
「お疲れ様です、グランフィールド選手。タイム的に、かなりハイペースで飛ばしていたじゃないですか」
「はい……。私は……、トレーニングでも……、結構無理して……、しまうほうですので……」
ヴァージンは、やや深い呼吸を浮かべながら、中に入ってきたヒルトップにこう告げた。体全体は、普段走り終えたときのように疲れていたが、やはり足の裏は何とも思わなかった。その、あまりの違和感のあまり、ヴァージンはヒルトップのほうを向いて、思わず叫ぶように言った。
「このシューズ、最っ高ですっ!何もかもが、私をもっと走らせてくれる感じでした……!」
「このシューズを広めてくれる選手の口から、そう言ってもらえると嬉しいですよ」
ヒルトップの笑顔が、ヴァージンの体に飛び込んでくるようだった。