第30話 異次元のランニングシューズ(3)
エクスパフォーマが開発した新しいシューズ「マックスチャレンジャー」。そのあまりにもセンセーショナルな感触を右足だけで感じたヴァージンは、今度は左足をゆっくりとその中に入れた。やはり、それまで履いていたイクリプスのシューズと比べ、足に力がかかっているような気がした。
(これ……、とても薄い……。薄いのに……、床に足をつけると気持ちいい……)
ヒルトップはたしかに「反発力を重視」と言った。その言葉を聞いて、足にかかる力がはっきりと表れることはすぐ分かった。だが、ヴァージンが実際に履いてみたものは、想像の斜め上を行くものだった。
(これが……、もしかして、私のために、開発されたシューズ……)
陸上選手に限らず、すべてのシューズには「クッション性」と「反発性」という、相反するような二つの性質があるが、そのバランスを取るのは、シューズメーカーにとってあまりにも難しい。そしてそのバランスを意識し、特殊な素材を入れることで、走り心地のもう一つの要素である「シューズの重さ」を度外視させることにつながりかねない。
ヴァージンは、何度か「ワールド・ウィメンズ・アスリート」の中で読み、その知識を身につけてはいたが、履いた瞬間にそのバランスをそこまで意識することはなかった。これまで履いてきた靴は、全て市販されているイクリプス製品を無償でプレゼントされているだけだったからだ。
「すいません……、ヒルトップさん……、ちょっと聞いていいですか?」
ヴァージンは、一人一人の履き心地を見に回っているヒルトップに声を掛けた。すると、ヒルトップはヴァージンの表情を一度見て、少し笑みを浮かべながらヴァージンのもとにやってきたのだった。
「もしかして、細かいところでグランフィールド選手の足に合わなかったのでしょうか……」
「違います。……最高です!このシューズ、私がずっと待っていたような気がするシューズです!」
ヴァージンは、レースに勝った時のように、思わず体で喜びを表現した。それを見て、ヒルトップはさらに笑みを浮かべながら、ヴァージンにさらに確認した。
「そう言ってもらえるとありがたいですよ。どういったところが、気に入られたのですか?」
「そうですね……。シューズ自体はとても軽いのに……、足を地面につけるとクッションがあって……、それでもそこからパワーを出せるような履き心地です。履いている間、ずっと走りたくなる感じです!」
「なるほどね。実は、グランフィールド選手のは、特に気を遣ったんですよ」
そう言うと、ヒルトップはヴァージンの目の前に置かれていたもう一つの箱を手に取り、中を開いてヴァージンに見せた。見たところ、全く同じもののようだ。
「実は、人間の足には、もともとクッション性も反発性もあるんですよ。だから、私たちが作るシューズは人間の自然の力に逆らいすぎてはいけないんです。足が痛くなったり、履き心地がおかしいと感じたら、それはシューズとして失敗です。だからこそ、私たちの広告塔になってくださる選手には、念入りに足を研究したのです」
「なるほど……」
ヴァージンは、やや大きく首を振った。その間にも、履いているシューズからこみ上げてくる力を、ヴァージンは感じずにはいられなかった。
「グランフィールド選手の走りにとって最も重要な要素は、長い時間常にパワーを分散させることなのです。だからこそ、反発力が売りと言って反発力を強くしすぎると、足の力を早く消耗させてしまうのです。これでは、長距離選手のシューズとしては致命的なんですよ。一瞬で全てを吐き出すようなスプリントレース向けのシューズと違って、長距離選手向けに、適度にパワーを分散させるようにしたのです」
「やっぱり、私のだけ違う素材で作られているわけですね」
「そういうことになりますね。『マックスチャレンジャー』のために開発された、『マックスブースト』という反発素材があるのですが、グランフィールド選手のシューズには、その素材をなるべく薄めに入れ、その下にエアーを入れているんですよ。マラソン向けのシューズ並みのエアーですね」
そう言いながら、ヒルトップはスペアのシューズの底に親指を当て、軽く押してみた。ヴァージンには、シューズが目に見えるようにくぼむのが分かった。
「だから、薄いのに心地よくて、反発性にも優れているわけですね」
「そういうことです。気に入ってくださりましたか?」
「勿論です。これなら、私に合うし……、私が戦えそうな気がします。ありがとうございます!」
履き心地を確認した後、専属契約を結んだ4人の選手は普段のトレーニングウェアに着替えるよう指示され、更衣室から再び戻ると廊下に整列させられた。シューズは履いたままだ。
「こちらの部屋になります」
ヒルトップが、廊下から中を見ることのできない部屋への扉に手をかける。フィッティングルームの正面にあるため、ヴァージンも入るときに気にしていたが、ついにその部屋の扉が開かれたのだった。
「こちらで、足にかかる負担を実際に計測してみましょう。先ほど、皆さんは少しだけ部屋の中を動いて履き心地を確認されたと思いますが、実際にこの『バーチャル競技場』の中で動いて頂くことで、確かめて頂きます」
(バーチャル競技場……?)
部屋の中には、室内のレースで使うような200mトラックすらなかった。あるのは、ガラス張りの部屋と、いくつものモニターだった。ガラス張りの部屋に大きなモニターが付いているが、そのモニターだけは平面ではなく、およそ120°ほどの景色が見えるような、丸みを帯びたものだった。
ヴァージンは、アメジスタでは勿論のこと、先進国オメガ国に入ってからですら一度も見たことがなかった。
「これは、エクスパフォーマをまとう選手全ての身体能力を確かめる、スーパーモニタリングルームです。今まで、どの種目のトップ選手も、この部屋で私どもの製品の使い心地を確かめてきました。今日は、皆さんの履いている『マックスチャレンジャー』で、足にどれほどの負担があるのか確かめてみることにします」
(確かめる……。なんか、ものすごく壮大な実験が始まりそう……)
これまでヴァージンは、イクリプスから履き心地をチェックされたことはなかった。ヴァージン自身で履きやすいシューズを選び続け、それで今まで勝負に挑んできたのだ。だが、目の前に広がるモニタリングルームは、ヴァージンの想像した以上に「未来の部屋」という印象を与えていたのだった。
(まず、トラックもないのにどうやって走るんだろう……)
ヴァージンは、横目でガラス張りの部屋の中を見た。たしかに、床にはルームランナーのようなものはある。だが、通常あるはずの操作盤がどこにもなく、自動でローラーが動いていくようにしか思えなかった。
「で、この中で一人一人、計測して頂きます。まずは、走り高跳びのジョンソン選手からお願いします」
ヒルトップと一緒に、ジョンソンが茶髪を揺らしながらその部屋に吸い込まれる。外に漏れる光で、中の巨大モニターに何か画像が映っているようにヴァージンは感じるものの、それが何であるか全く分からなかった。
そのうち、ヒルトップだけ外に出て、助手と思わしき人がモニターを指でタッチした。
(何が始まるんだろう……)
ヴァージンは、ジョンソンの動きをじっと見つめた。すると、ジョンソンは体の重心を前に傾け、正面にある巨大モニターを見つめた。そして次の瞬間、ジョンソンの右足が地を蹴った。
(えっ……!?)
ジョンソンからモニターまではたった5m。一流選手でなくても、走り高跳びの助走から着地までの距離としてはあまりにも短すぎるようにヴァージンには感じた。しかも、ジョンソンの向かう先にはバーすらなかった。
だが、そこで床が動いた。まるでジョンソンの走りにちょうど合わせるように、ルームランナーと思われたものが動いているのだった。そして、そのままジョンソンは踏み込んだのだ。
(このまま跳んだら、その場に落ちてしまう……!)
たしか、中等学校で慣性の法則と呼ばれるものを習ったはずだ。ジョンソンの位置が全く変わっていないのだから、そこで踏み込めばその場で着地してしまうか、ルームランナーの負荷によっては後ろに飛ばされてしまう。当然、ルームランナーの台に背中から突っ込むことになってしまう。
しかし、ヴァージンが息を飲み込んだとき、ジョンソンの足が離れた床を覆い隠すように、両側からエアバッグのようなものが浮かび上がり、ちょうどマットの高さまで膨らんだのだ。ジョンソンは背筋を駆使して高さを稼ぎ、そしてマットの上へと吸い込まれたのだ。
(すごい……、凄すぎる……!なんて未来的なことをしているんだろう……)
いい意味で、想像とあまりにもかけ離れたことをするエクスパフォーマに、ヴァージンはただ震えるばかりだった。何かが起きそうな胸騒ぎがしそうだった。
そして、そのままカルキュレイム、オルブライトとモニタリングが続き、最後にヴァージンの番になった。