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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第4話 アカデミーの仲間入り(2)

 照りつける暑さがアメジスタ人の肌で感じられる8月。

 ヴァージンの力強い右足は、再びオメガ=セントラル空港の地をしっかりと踏みしめた。

 彼女の横には、ベルク・マゼラウス。ヴァージンの生活に最低限必要な普段着その他がいっぱい詰まった、重いスーツケースをしっかりと握りしめていた。

(私は、この場所に希望を繋ぐことができた)

 セントリック・アカデミーでトレーニングをする新たな生活を、自分の足でつかみ取った、アメジスタの一人の少女は、オメガの澄み切った空をじっくりと見た。


 出発前に、ヴァージンに提示された条件は、トップアスリートの常識であり、彼女にとっては非常識とも言える内容だった。

 居住空間は、アカデミーで用意した近くのシャワーバス付のワンルームマンション。部屋の掃除や衣類の洗濯はヴァージンの自前。

 食事は、基本アカデミーで支給される。メニューはアスリートの体力向上を意識した予め決められたものであり、トレーニングオフの日以外は好き勝手食べられないようになっている。

 そして、肝心のトレーニングは、学校を卒業したヴァージンの場合、午前8時から数時間、長い昼休憩を挟んで午後3時から数時間であり、夕食後に自由になる。ただし、予め決められた時間以外のトレーニングはコーチに報告の上で自由である。日中には週3回、オメガ語や自然科学、政治経済学などの講師がやってきて、教養を少しでも身につけたいアカデミー生のために講義をすることになっている。

 そして、ヴァージンだけではなく多くのアカデミー生にとって面倒とも言えるのが、日々コーチに練習日報を提出しなければならないことである。ヴァージンも、マゼラウスが自宅を訪ねてきたときに書類を渡されたが、書こうと思えば事細かく書けそうな、A4サイズの白紙だった。それが彼女にとっての成長の糧になることは確かだが、現時点で何を書けばいいのか分からない怖さがある。

 逆に言えば、トレーニングさえきっちりこなしていれば自由ということだ。アスリートになることを懸念すらしていたジョージもおらず、部屋の中では自由である。


 そんな空間に、ヴァージンは身を投じたのだった。


「……っ!」

 アカデミーでの指導が始まる初日、ヴァージンはロッカールームから出てトラックに向かおうとすると、ドアのところにマゼラウスが立っていた。

「ヴァージン、緊張してないか」

「はい……」

 ヴァージンはマゼラウスに軽く首を振ったが、その瞳の先は決して澄み切っていなかった。いかつい男性が、通路に何人も立っている。全員、黄緑色に染まったセントリック・アカデミーのパーカーを着ている。

「あの……、ここに並んでいる方々は……」

「うちのコーチだ。勿論、君のライバルになるべき人を指導してる人も、中にいる」

「そうなんですか……。雑誌では見ていましたが、かなり大きい組織ですね」

「所属してるアスリートの数が、軽く100は超えるからな」

 そう言いながら、同じく黄緑色のパーカーを羽織るマゼラウスはヴァージンについて来い、と言ってゆっくりとフィールドに向かった。だが、ヴァージンは少しだけ立ち止まり、ずらっと並んだコーチ陣の表情を見た。

 少なくとも、学校の先生と違って、その表情からは優しさは感じられなかった。それどころか、まるで自分自身を睨みつけているかのような気味悪さだけが、滲み出していた。


 本番と全く同じサイズのトラックを軽く踏みしめて、二人は緑の芝生に出る。そこでマゼラウスが先に立ち止まり、ヴァージンの横に回る。

「マゼラウスさん……。よろしくお願いします」

「あぁ」

 ヴァージンは、ジュニア大会直前の練習でも着ていた真っ白のウェアを風に靡かせる。レースに臨むとき用に国旗をデザインした特注品のウェアを着るが、それ以外の時はグリンシュタインにある、ありきたりな仕立て屋で繕ってもらった、見た目だけは軽そうな袖のついたウェアを着る。セントリックというスポーツブランドの提供するアカデミーながら、ウェアはどこのブランドのものを着ても自由なので、慣れ親しんだウェアをヴァージンは引き続き着ることにしたのだった。セントリックのトレーニングウェアのレンタルもあることはあるが、それすら考えなかった。

 そのことに、ヴァージン自身何の違和感もなかった。しかし、マゼラウスはヴァージンを上から下まで見て、一言こう言った。

「まず、君にはライバルに追いついてもらわなければならない」

「はい」

 そう言いながら、ヴァージンは左足を軽く前に出そうとした。だが、マゼラウスは少し首をかしげて、再びヴァージンの顔を見る。

「君には、確かにそれ相応のスピードを備えている。だが、それだけではライバルに勝つことはできない」

「えぇ」

「そこで、ヴァージン。まずはライバルと対等に戦えるようにならなければならない。例えば、ウェアやシューズとか……な。さっきから、見てて思った」

「えっ……」

 ヴァージンは、首を重く振った。早くもトレーニングを始めている他のライバルたちはみな、風通しの良い軽そうなウェアを着て、雑誌で普通に紹介されているような軽いトレーニングシューズを履いて、トレーニングをしている。安物のファッションで練習をしようとしている人はどこにもいなかった。

 いつの間にか、ヴァージンの首はやや下向きに落ちていた。

「そう気にする必要はない。君のために、特別に貸すことにしたんだ。タダで」

「いいんですか……」

「勿論だ。君の将来性を見込んで、私の独断でウェアとシューズを貸すことにした。ここでは貸していない、セントリックの最高品質のものだ。……ウェアは、ためしに明日着てくるといいよ」

「えっ……、えっ……、ありがとうございます」

 ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは軽く笑みを浮かべて、フィールドに無造作に置かれた段ボールからウェアとシューズをゆっくりと取り出した。ウェアは、肩がむき出しになっている短めのタンクトップで、そのデザインは情熱すら感じさせる朱色に、細さの違う三本の黒いラインが横に描かれたものだった。一方、靴は軽快な白に、これまた軽そうな黄緑色がところどころ彩られたデザインで、トラックを踏みしめる際の弾力性に優れたもの、とマゼラウスは説明した。

「すごい……。なんか、ここで私が変わっていくような、そんな強ささえ見えます」

「そう言ってくれると嬉しい」

 マゼラウスは軽く笑みを浮かべて、新しいウェアを広げるヴァージンにその表情を見せた。軽そう、とヴァージンが呟くなり、マゼラウスも二度、三度うなずいてみせた。

「その代わり……」

「どうしたんですか」

 マゼラウスが突然小声になったので、ヴァージンはウェアを段ボールにしまって、マゼラウスの声に耳を傾けた。

「私が買った、ということは内緒にして欲しい。あくまでも、トレーニングウェアは自分のお金で購入するものだからな」

「……はい」

「大丈夫だ。君の実力が本物であれば、ヴァージンのためにウェアとかシューズを作るってスポンサーが名乗りを上げると思う。その時に、その分のお金だけ返してくれるといい」

「分かりました」


 この2点だけで、1000リアは下らないらしい。ヴァージンがジュニア大会に行って帰って来るのに必要な金額の半分と聞いて、思わず耳を疑わずにはいられなかった。


「それと、話は戻るが、君にはこれから心を鬼にして、みんなに追いついてもらわなければならない」

 やや時間を置いて、マゼラウスはゆっくりと口を開く。

「えぇ。アカデミーに入る以上、それは覚悟してます」

「お前も、そう言ったか」

 そう言うと、マゼラウスはやや首を上に傾けて、ため息とともに元の向きに戻す。

「……君なら、もう少しうまいこと言うと思ったがな。覚悟してます、って言葉は、今までこのアカデミーに入った誰もが言う」

「そうですか……」

「早い人は、10歳になる前から実力を買われて、空いている時間でこのアカデミーに練習に来ている。そういうライバルと、16歳までおそらくプロの指導を受けていない君とは、実力的にかなりの差ができているはずだ」

「えぇ」

「つまり、追いついてほしいというのは、そういうことだ。君がこの歳になるまでヴァージンの本当の実力を見出すことができなかったのは申し訳ないが、それでもここに来た以上は、早くから練習しているライバルに追いつかなければならない」

(みんな……目の色が違う)

 ヴァージンは、軽く周りを眺めた。猛スピードで走り抜けていく短距離走者、力強く大地を蹴る跳躍競技の選手たち。世界を相手に挑もうとするどのアスリートの表情を見ても、真剣そのものだった。

 セントリック・アカデミーはそういう集団だったのだ。

「はい。必ず追いつきます!」

「よぉし!」

 マゼラウスは、声を上げながら芝生に腰を下ろし、両足を広く伸ばして右足を右手で掴むように体を折り曲げた。ヴァージンも軽く首を縦に振り、隣にいるコーチの動きを真似した。

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