第30話 異次元のランニングシューズ(1)
ヴァージンが、スポーツブランド・エクスパフォーマのヒルトップ開発準備室長よりモデルアスリートになることを告げられてから2ヵ月が経った。この年ヴァージンは、短い間隔で5000mや10000mのレースに出続けたこともあり、世界競技会が終わってからレースの場に姿を見せることはなかった。
(次は、年明けのフランデーベフ室内選手権。初めての場所だけど、今の私なら室内世界記録を出せるはず)
周りのライバルが10月頃までアウトドアシーズンを戦う中、ヴァージンは一人、週3日はオメガセントラル総合室内競技場に入りトレーニングをしていた。有名選手がインドアの競技場に通い詰めてトレーニングすることはあまりないが、ただでさえ専用練習場ではなくなったセントリック・アカデミーの跡地が改修工事に入ってしまい、工事が終わるまで完全に使えない。ヴァージンは、近隣の施設を転々と回り、練習をするしかなかった。
また、エクスパフォーマとの専属契約が決まったことで、週に1回はヒルトップのもとに向かい、ブランド立ち上げに向けて打ち合わせを繰り返した。これまで使用したシューズのクッション性やウェアの通気性、それにヴァージン自身のレースパフォーマンスのことなど、担当者にありのままを伝えたのだった。
しかし、ヴァージンにとって何よりも忙しかったのは、ワンルームマンションからの引っ越しだった。セントリックが倒産したことでマンションにもいられなくなり、ガルディエールの手配で、都心のマンション密集地が遠くに見渡せる40階建て高層マンションの28階に移ることとなった。部屋の大きさとしてはこれまでより少し広めだが、高いところにあることで、最初のうちは見た目以上の狭さを感じてしまうのだった。
勿論、28階まで階段を上ったこともあったが、ヴァージンですらかなりの負担になったことは言うまでもない。
夕方になって急に北風が強くなってきたある日のこと、ヴァージンは高層マンションのメールボックスに、初めてとなる郵便物が入っていることに気が付き、急いで手を伸ばす。そして、エレベーターを待つ間に、いそいそとその封を開いた。
(エクスパフォーマ・トラック&フィールド、立ち上げイベントへのご招待……)
これまで、電話でのやり取りやエクスパフォーマ本社でのやり取りは何度も行っていたヴァージンだったが、向こうから郵便物が送られてきたのはこの時が初めてだった。手紙には、2週間後の水曜日の夜に、オメガセントラルのウエストアリーナで記念のイベントが行われること、そしてその前の土日にはエクスパフォーマの本社にモデルアスリートが一堂に集い、取扱商品のフィッティングが行われることの2点が書かれてあった。勿論、ガルディエールには事前に了承を取って、そこのスケジュールは空けてもらっているようだ。
(そう言えば、モデルは何人かいるんだっけ……)
何度も本社に通っている割には、ブランド立ち上げで選ばれたモデル選手の名前がヒルトップの口から一切明かされていない。ヒーストンとヴァージンの両方を選ばなかった時点で、女子長距離、いや女子のトラック競技からは出ることがないだろう。だとすれば、男子の短距離走やフィールド競技からモデルが選ばれるのだろうか。
(誰が選ばれるにしても、私と同じように知名度や魅力のある人ばかりが集まっているような気がする)
ヴァージンは、フィッティングの日が来るのが待ち遠しくして仕方がなかった。ヒルトップに選ばれる前からずっと眺めていた、エクスパフォーマの他競技のカタログをこの日も開き、新しいブランドのアイテムを、ヴァージンは勝手に予想するのだった。
そして、フィッティング当日がやってきた。エクスパフォーマの本社に、集合時間30分前にたどり着いたヴァージンは、これまでとは異なり少し緊張した面持ちでエントランスホールに入った。
(やっぱり、ここは一流ブランド……)
これまで何度か足を運んでいるが、そのまま開発準備室へと向かってしまうことの多かったヴァージンにとって、エントランスホールに刻まれた様々な「記録」を見るのは初めてだった。特に、ブランドの始まりであったバスケットでは、ヴァージンですらその名を知るような偉大なプレイヤーの等身大のタペストリーが並び、その下にそれぞれが着用していたウェアやスパイクなどのショーケースがあった。
(みんな、こういう一流選手の姿を見て選手に憧れる……。ここに来るだけで、それが伝わりそう……)
製品に手を触れることこそできないが、ヴァージンは展示されているものをじっと見つめる。どれも、その選手だけのためにエクスパフォーマが作った、いわば「そのアスリートの活躍した証」になっていた。次いで、テニスやサッカーの展示スペースも眺め、最後にヴァージンは首を縦に振った。
(もうすぐ、ここに私の生きた証が展示されるかもしれない……。それは、エクスパフォーマだけじゃなくて、世界中でここの製品を使ってくれる人に支持されたとき……)
ヴァージンの心の中で、いつかそのようになりたいという熱い気持ちが芽生えた。
そして、ヴァージンが時間をつぶしているうちに、集合時間の10分前になっていた。ヴァージンは手紙に書いてあった集合場所、18階のフィッティングルームに向かった。フィッティングルームと言っても、店にあるような小さなフィッティングルームではなく、人が5人くらいは入れそうなブースがいくつもあって、どのブースも3面が鏡になっていて、着心地や動きを見るには最適な、まさにスタジオと言っても過言ではなかった。だが、そのだだっ広い部屋の中には、ヒルトップしかいなかった。
「おはようございます」
「あぁ、グランフィールド選手、早いですね。おはようございます」
「えっと……、ヒルトップさん……。フィッティングルームってここで、いいんですよね……」
「大丈夫です。ここでいいですよ。もうすぐ、他の3人がやってきますから……」
「分かりました。ということは、私を入れてモデルアスリートは4人ということなんですね」
ヒルトップが首を静かに降ると、すぐにフィッティングルームのドアをノックする音がその場に響いた。ヴァージンはその音に振り返ることこそなかったが、床を歩くときの音の大きさに筋肉の硬さを感じるほどだった。
その人物が、ヴァージンの目から見える位置までやってきた途端、ヴァージンは息を飲み込んだ。
「初めまして。エクスパフォーマのアスリートモデル、フレッド・ジョンソンと言います。よろしく」
「初めまして。ヴァージン・グランフィールドと言います。よろしくお願いします」
ヴァージンは、ジョンソンからやや遅れて右手を差し出した。目の前に立ったのは、ここ数年男子走り高跳びで負けたことのない、後ろで茶髪を縛った背の高いメガ国の選手だった。重力に逆らって飛ばなければならないため、抗重力筋群という直立するための筋力が、ヴァージンのこれまで見た誰よりも発達していた。
(一人目がジョンソンさん……。もしかしたら、金メダル級の選手しかモデルになっていないのかも……)
ヴァージンは、やや下を向きながらそう思いかけた。だが、そう思う間もなく、再びドアをノックする音がヴァージンの耳に響いたのだった。
「どうぞ」
ヴァージンの耳には、二人同時にフィッティングルームに入ってきたように思えた。今度は、かすかにドアのほうに振り返った。
(あ……、あの方は……)
入ってくる男2人の姿を見た瞬間、ヴァージンは心臓の動きがかすか早くなり、大きく息を吸い込んで、気持ちを落ち着かせなければならなかった。
一人は世界競技会のときにポスターで見たことのある、ルーランドのやり投げ選手、ルイス・カルキュレイム。その引き締まった小さな顔で、ヴァージンに笑顔を見せていた。アルデモードとはまた違ったイケメンだった。
そして、もう一人、ヴァージンの目に飛び込んできたのは、男子100mで常にトップ争いに食い込むオメガの選手、ザック・オルブライトだった、濃い肌に溶け込むような黒い髪と、その下にはいかにも全身のパワーを使っていると思わせるような、ところどころ膨らんだ筋肉が、トレーニングウェアを着ていても見え隠れする。
そして、その二人が席に着くと、ヒルトップが4人の前に立ち、息を吸い込みながら話しだした。
「以上、この4人がエクスパフォーマ・トラック&フィールドのモデルアスリートになります。今まで、個別に要望を聞いてきましたが、これからは全員が、この生まれたてのブランドの広告塔になります」
「はい!」
全員の声が、ほぼ同時にフィッティングルームに響く。その中で、ただ一人の女性となったヴァージンは、ひときわ高い声でそう誓ったのだった。