第29話 セントリック・アカデミーの消滅(7)
「私が、エクスパフォーマの契約選手になる……ということですか?」
「そう。『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』のモデルアスリートとして、グランフィールド選手にぜひ力になってもらえないかと思いまして……、今日はここまでやってきたのです」
ヴァージンは、開発準備室長のヒルトップがそこまで言っても、置かれている状況が呑み込めなかった。可能性が限りなく0に近いところから、かつてヴァージンが興味を示したプロジェクトに入ることができるのだから。
数秒考えた後、ヴァージンははやる気持ちを抑えながら、そっと口を開いた。
「私じゃ……ないと……、思っていたんです……。新しいブランドのモデルとして選ばれるのは……」
そう言うと、ヒルトップの隣に座る、書記官と思われる黒髪の男性が小さくうなずいた。だが、ヒルトップはその様子を横目で見た後、やや前かがみになってヴァージンに告げた。
「グランフィールド選手が、そう思うのも無理はないでしょう……。最初は99%、いやそれ以上の確率で、女子のモデルにヒーストン選手を選ぼうとしていたのです。君も、いろんなところから情報を聞いているでしょう」
「はい……。本人から、何度かエクスパフォーマのモデルはヒーストンさんになる、と聞いてました」
「なるほどね。でも、それがどうして変わったか……。どうしてグランフィールド選手になったのか、あえて今ここで言ったほうがいいでしょう。簡単に言えば、グランフィールド選手こそがエクスパフォーマにふさわしいということです」
「私が……、エクスパフォーマに……、ふさわしい……」
ヴァージンは、頭の片隅にエクスパフォーマの躍動的なロゴを思い浮かべた。バスケットボール、テニス、それにサッカー。常にトップ選手や常勝チームをよりたくましく見せてきたブランドだ。そして、ヒルトップが持っている資料にも、ところどころそのロゴが見られる。もはや、それは夢の話ではなかった。
「エクスパフォーマのエクスという言葉、それは限界を超えるという意味を持っています。言葉を変えれば、アスリートの極限を見せるということなのです」
「だから、あの動きのあるようなXの文字をロゴにしているんですね」
「そういうことです。そして、ブランドが生まれたときから受け継がれてきたこの理念に対し、グランフィールド選手は、まさにその鏡だと言える存在です。いくつもの壁を超えてきた方だと……、誰もが思っているはずなのですから……」
(いくつもの……、限界……)
ヴァージンは、ヒルトップの目の前で思いつくだけ、その壁を思い出してみた。まず、アメジスタから世界を目指すということの壁、たった一度の勝負で勝てなければアスリートの夢を捨てるという壁、プロとして生き残れるかどうかの壁、世界記録という壁……、他にもたくさんの壁が、走るということの裏側にあった。それらを全てクリアしてきたのが、ヴァージンだった。
(時には……、全く勝てずにもがいたこともあった……。道が閉ざされ、挫折しかけたこともあった……。でも私は……、夢だけは捨てなかった……。それが、今の自分につながっている……)
ヴァージンは、わずかな時間でここまで振り返られたことに、思わず震え上がった。そのヒントを、目の前にいる「新たな夢を託される存在」が教えてくれたのだった。
「たしかに……、私は誰よりも多くの壁を乗り越えてきました。みんなそう思っているはずです」
「グランフィールド選手は、どんな壁に当たっても、レースになったら本気になれるし、世界記録も塗り替えられる力があるんですよ。それで、スタジアムで見る人が不思議な魔法にかかった感じになるんです」
「魔法……」
まるで空想の世界に出てくるような言葉を、ヴァージンはそっと口にした。すると、ヒルトップとそのすぐ横に座る書記官が、ほぼ同時に首を縦に振ったのだった。
「本当に、グランフィールド選手がトラックに立つと、スタジアムに魔法がかかるんですよ。特に、女子5000mでは、その魔法がより輝きを増していきます。トラックに立ったグランフィールド選手が、どんな走りを見せてくれるんだろうと。そして、どんなタイムを見せてくれるんだろうと……」
(たしかに……。最近レース前によく、「New World Record」とか「Go」とか、そんな力強い言葉が書かれた応援を見ているような気がする……。魔法って……、そういうことなのかもしれない……)
ヴァージンは、首を小さく縦に振った。一瞬だけ間をおいて、ヒルトップが再び口を開いた。
「夢に向かい挑戦し続けるアスリートに対し、人は夢や希望を抱きます。でも、そう思わせてくれる選手って、なかなかいないものなんです。目の前でその身体能力を見て……、その場では夢や希望を抱いても、次の日には忘れてしまうでしょう。でも、グランフィールド選手は……、トラックに立つだけで夢や希望を抱くことのできる存在なのですから……」
「そこまで……、みんなが思っているなんて……」
ヴァージンは、アメジスタの債務問題でレースへの出場が絶たれたとき、多くの「サポーター」から夢や希望という言葉について考えさせられた。おそらく、いま目の前でヒルトップが一つの見本としての答えを言っているのだろう。人々に夢や希望を与えるプロだからこそ、このようなことを口にできるという見方もあるが、ヴァージンはその言葉一つ一つを、何度も経験したいと決めたのだった。
「エクスパフォーマのモデルアスリートをグランフィールド選手に決めた、最大の理由はそこなんですよ。しかも、それはヒーストン選手も同じことを言っていたんです」
「ヒーストンさんも……、ですか……」
「世界競技会の女子5000mで、スタート前にスタジアムをすごい盛り上がりを見せたのは、グランフィールド選手の姿だったんです。ヒーストン選手も10000mをメインに次々と成績を残していますが、グランフィールド選手のような人を引き付ける力がないって……、本人がレース後に言ってたんです」
(うそ……)
あれだけ、新しいブランドのモデルを目指していたヒーストンが、遠回しに言えば降りたということになる。ヴァージンは、再び震え上がった。
「つまり……、ヒーストンさんも私をモデルと認めたということになるんですね……」
「そういうことです……。それでですね……」
そこまで言うと、ヒルトップがファイルに手を伸ばし、契約書を取り出した。ヴァージンは息を飲み込む。
「グランフィールド選手、私どもと、一緒に夢を作っていただけませんか……」
「こ……、ここで契約ですか……?」
ヴァージンは、突然夢から覚めたような感覚を覚えた。エクスパフォーマからやってきた二人のいる場所は、そのブランドの存続が危ぶまれているとはいえ、ライバル企業のアカデミーだ。しかも、エージェントと契約を結び、代理人ガルディエールがヴァージンのために動くようになってから、アスリートとしてのヴァージン自身がサインを交わすことなどまずなかったのだ。
「そうです。実は、代理人のガルディエールさんにも……、それにこのアカデミーにも……、事前に了承を得ています。こちらに書いてあります契約金も、何度かガルディエールさんとお話をして決定いたしました」
(4年契約で……、1000万リア……!?)
ヴァージンは、契約書に書いてある数字に釘付けになった。0が一つ多く書いてあるようにしか見えなかった。この話を初めてガルディエールから受けたとき、たしかに100万単位になるという話があったが、年250万リアとしても想定を大きく上回っていたのだ。
ヴァージンの「魔法」には、それだけの価値があるということだった。
「本当に……、大丈夫なんですか……?突然のことで、すごく不安でたまらないのですが……」
その時、ヴァージンは背後にマゼラウスの気配を感じ、思わず振り返った。マゼラウスが、ソファの背もたれに両手をつき、やや前かがみになってヴァージンを見ていたのだった。
「もう、ここには未練がないだろう。ここでヴァージンが、夢の舞台を拒んだとしても、今いるこの舞台は、今日限りで閉鎖になるんだからな……」
(閉鎖……。セントリック・アカデミーの……、閉鎖が今日だったなんて……)
早朝から会議を行っていたのは、そのことだった。今日がセントリック・アカデミー最後の日であること……。セントリックそのものも倒産してしまうかもしれないこと……。アカデミーの仲間と、離れ離れになってしまうということ……。ヴァージンの思いは、急速に回転を増す。ヴァージンの思いは、急速に回転を増す。
「コーチは……、どうするんですか……」
「お前について行く。ここまで育て上げたのだから、新しい場所でも見守っていきたい」
マゼラウスが、力強い言葉でヴァージンを後押しした。決意は固まった。
「やってみます!みんなの、新しい夢や希望のために!」
「ありがとうございます……」
ヴァージンが、「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」の専属契約にサインをした瞬間、コーチ控室から多くの関係者が飛び出し、ヴァージンを大きな拍手で見送ったのだった。そして、その中には永遠のライバルとして競い合ったグラティシモの姿もあり、その目は熱く泣いていた。
明日には立ち入ることができないアカデミーの、その最後の日に最も名誉のある「卒業」を目にしたのだった。
(今まで、本当にありがとう……。私、トップブランドでもっと成長するから……!)
ヴァージン以外のアカデミー生には、その直後に非情な全員解雇が伝えられた。さらには、スポーツメーカーとして長く夢を与え続けてきたセントリックの廃業も、その日の夜にニュースで報じられた。
ヴァージンが世界に飛び出し、右も左も分からない時から続いていた一つの時代は終わった。
だが、それは次の時代に新たな一歩を踏み出した瞬間でもあった。