第29話 セントリック・アカデミーの消滅(6)
14分53秒26。世界記録更新という大きな期待を背負ったヴァージン・グランフィールドが出したタイムは、それに遠く及ばないものだった。一緒に競い合った16人が全く同じ条件だったにもかかわらず、上位陣の中でヴァージン一人だけが強い風に翻弄されてしまった。
そして、10000mではその真ん中に立ったはずの表彰台にも、5000mでは上ることができなかった。
(敗因は分かっている……。そのための対策だって、今日思い知ったような気がする……。それなのに……)
ヴァージンはウォームアップシャツを着たままロッカールームに行く気にもなれず、表彰台の真ん中にいるヒーストンを、メイントラックの入り口からじっと見ていた。ヒーストンも、14分46秒87と、このところのレースとから見れば相当遅めのタイムでの優勝を果たしている。普段のヴァージンなら、多少力を抜いていても出せるようなタイムだった。
(トータルで考えれば、長距離で安定的に勝てるのは、私じゃなくてヒーストンさんなのかも知れない……)
レースは終わり、この瞬間から再び新しい現実が始まる。しかし、それはヒーストンが女子5000mの新たなスターとして君臨する、これまでと全く違う現実のようにヴァージンには思えた。そして、あのスポーツブランドのモデルにも、ヒーストンが選ばれる未来しかないように思えた。
(そんなの違う……。次のレースで抜き返せばいいだけのはず……。自己ベストは、私のほうが上なのだから)
ヴァージンは、小さく首を横に振り、ようやくロッカールームへと退く通路に目をやった。ただ一度の敗北で、アスリートがそこまで気にしてはいけない、と何度も言われたことをようやく頭に思い浮かべた。
(それができるのが、私なんだから……)
ヴァージンは、風の前に力尽きたその足で、通路を歩きだした。一度だけため息をつき、再び首を横に振った。
(考えちゃいけなかったのかな……。エクスパフォーマに行けるってこと)
オメガ国に戻った翌日、ヴァージンはセントリック・アカデミーに誰よりも早く姿を現した。アカデミーのトラックが売却される話は、世界競技会に出場できない選手たちにはCEOの口から伝えられており、心なしかアカデミーの敷地に冷たい風が吹いているかのようだった。
ヴァージンの居場所は、まだそんな場所だった。背伸びして新たなスポーツブランドへの移籍を望んだものの、その年最高の舞台で最有力候補に敗北を喫し、そのブランド名やロゴを思い浮かべることも、空しいように思えた。そして、ヴァージンはグラティシモと同じく、この場所を守らなければならない身に戻ったのだ。
しかし、まだ朝6時前だというのに、コーチ控室にはかつてないほどの数のコーチが集まっていた。あの時と違いドアと窓が頑丈に閉められており、中でウィナーが話している言葉も聞こえなかった。
(中で……、かなり重要なことが話されている……。練習場の売却だけじゃ済まなくなっているのかも……)
ヴァージンは、本当に残り少ないアカデミー生活で、新たなライバルとなったヒーストンを打ち負かす力をつけようと、大きな一歩をロッカールームに向けて踏み出した。
すると、ヴァージンの背後からやや小走りで迫ってくる足音が聞こえた。ヴァージンが振り向こうとすると、その足音がぴたりと止まり、そこにはグラティシモの疲れ切った表情が浮かんでいた。
「グラティシモさん……。この前は余計なこと言ってすいませんでした……」
「ヴァージン、いいのよ。今はそんな呑気なこと言ってられない……。もう、会議始まっちゃったよね……」
「おそらく、中で……、重いことが決められています……」
ヴァージンは、コーチ控室を指差して、小さな声でグラティシモに伝えた。グラティシモの疲れ切った表情から、徐々に血の気が引いていくのをヴァージンは感じた。
「こんな朝早くから、コーチ全員を集めて会議を開くなんて、全く思わなかった……。私も、たまたま友人がメールで情報くれたから気付いただけで、普通はこんな時間に来ないわ」
だがグラティシモは、そう言うと同時に首をかしげた。
「どうしたんですか、グラティシモさん……?」
「でも、ちょっと考えるとおかしい。ドアと窓を閉めてここまでやるくらいなら、2階の小会議室とか大会議室でやればいいじゃない……。あそこなら、意識しない限り私たちが行くことはないんだから」
ヴァージンは、グラティシモの疑問にうなずいた。ヴァージンも6年間のアカデミー生活の中で、会議室の周辺に足を運んだのは、フォームを研究したり、ヴァージン自身に重要な話があったりしたときなど、両手で数えられるほどだった。そういうような場所があるにもかかわらず、トレーニングにやってきたどのアカデミー生からも見えてしまうこの場所で、重要な会議を始める理由が二人には分からなかった。
しばらく考えた後、ヴァージンは静かに答えた。
「理由は分からないですが……、アカデミーのピンチを、アカデミー生にも見てほしいからじゃないですか」
「たしかに、そうなのかもしれない……。だから、それだけ重い話が行われている……」
グラティシモはそこまで言うと、力なくロッカールームへと向かった。
しかし、コーチ控室のドアと窓が開かれ、いつも通りのアカデミーの生活が始まっても、室内で自主トレを始めた二人にあのことが伝えられなかった。マゼラウスも、普段通りヴァージンのもとにやってきて、トレーニングのメニューを指示したのだった。
「あの風は仕方ない。けれど、その中でもスピードを意識できるようにしないといかんな……」
そう言うと、マゼラウスはこれまでよりも大きい重りを取り出し、ヴァージンの腰に付けた。これまで、重りをにつけてトラックを1周するメニューを何度となく繰り返しているが、ここまで重いものは、ヴァージンが見るのも初めてだった。
「すごい大きな重りですね……」
「そう。あの風に耐えられるような負荷をつけないといけないからな。ちなみに、男性にしか出したことがない」
「そうすると、器具庫の中にはもっと重いものがあったりするわけですね……」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは「さぁ」と一言だけ言って笑った。先が長くないかもしれないアカデミー生活の中で、器具庫にあるトレーニングアイテムを全て使うことは難しそうだが、なるべくならその全てを一度は試したいと、ヴァージンには思えた。
しかし、やはりその日のうちに事件は起きてしまった。
世界競技会明けということもあり、軽めのメニューで午前のトレーニングを終えたヴァージンとマゼラウスのもとに、アカデミーの職員が小走りにやってきたのだった。
「ヴァージンさんにお会いしたい方が、二人ほどいるそうですが大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です……。ちょうど午前のトレーニングが終わったところなので……」
ヴァージンは、トラックから入口前のロビーに向かうまでの間に、時期が時期だけにいろいろと考えた。メインの種目で4位に終わった段階で、雑誌の取材は来ないだろう。だとすればアカデミーそのものにかかわる問題、つまりセントリック本部の偉い人が姿を現した。そうとしか、ヴァージンには思えなかった。
しかし、ロビーに入った瞬間、そのソファに腰かけていた人物を見てヴァージンは固まった。とてもアカデミーの場には似合わないスーツ姿の男性が、二人で座っていたのだった。
(なんか見覚えがある……。世界競技会の時に、メモを取っていた二人だ……)
ヴァージンは、わずかに固まった後、ゆっくりとソファへと進み、二人に向かい合わせになるように座った。しかし、ヴァージンは緊張のあまり、口から声が出てこなかった。
しばらく沈黙の時間が続いていると、ヴァージンから見て左側に座った茶髪の男性が一度うなずいて、ゆっくりと口を開いた。
「グランフィールド選手に、お伝えしたいことがあり、トレーニングセンターにやってまいりました。私、『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』の開発準備室長、ジェームス・ヒルトップと申します」
ヒルトップはそう言うと、ソファから立ち上がりヴァージンに名刺を渡す。ヴァージンは、やや戸惑いの表情を浮かべながらそれを両手で受け取り、左手で持った。
(エクスパフォーマ……。どうして、今そのブランドが出てくるんだろう……)
モデルとなるべき人物は、あのレースで決まったはずだ。内定しているはずのライバルに、数日前勝負を挑んだが、ヴァージンは遠く及ばなかった。それでも、ここで話があるということは、何か情報を持ってきているかもしれない。そう思って、ヴァージンは耳を傾けた。
しばらくして、ヒルトップが口を開いた。
「私どもが、陸上競技用のウェアやシューズの開発をするというお話は、おそらくグランフィールド選手もご存知かと思いますが、今日はその……、私どものブランドと専属契約を結んでいただけないかと思いまして……」
「えっ……」
ヴァージンは、思わず声が裏返った。その手が思わず震え上がった。