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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第29話 セントリック・アカデミーの消滅(5)

 スタジアムの中にまで吹き荒れる風に、号砲が空を舞った。それと同時に、ヴァージンは力強く右足を前に出す。ペースを安定させることは難しくても、普段から意識するラップ70秒のペースまで上げながら、最初のコーナーを駆け抜ける。一方、すぐ真横でスタートしたウォーレットやヒーストンは、普段のようにヴァージンを上回るペースで前に出るのではなく、その真後ろにぴったり付いていたのだった。

(みんな、ラップ69秒とか68秒とかで出ていかない……。この風だから、様子を見ているのかもしれない)

 そう思いながら、ヴァージンは200mを通過し、次のコーナーを回った。その瞬間、ヴァージンはレーシングトップスで胸を軽く押されるような衝撃を感じた。レース用に着るのは軽めの素材だが、本番のペースではここまでの強い衝撃になってしまう。これが、レース前からヴァージンの気にしていた、向かい風の力だ。

(強い……)

 直線に入ると、ヴァージンは真正面からその風に立ち向かわなければならなかった。ラップ70秒のペースを維持するのもやっとだ。ストライドと足を叩きつける間隔で決まる、ヴァージンのペース。それだけは安定させようと、ヴァージンは400mまでの直線を走り切る。そして、コーナーへと入った。

(……あれ?)

 ヴァージンは、コーナーに入った瞬間に後ろから聞こえるはずの足音が途絶えるのを感じた。いや、5mほど後ろを走る2位集団の足音が、風に乱されている。一瞬静かになったと思えば、すぐにまたヴァージンの左から足音が聞こえてくる。

(風一つで、いろいろと変わってくる……。作戦も変えないといけないのかもしれない……)

 先頭に立つと、必ず強い風を全て受け止めないといけない。その分、ウォーレットやヒーストン、メリアムといった他のライバルは、ヴァージンのすぐ後ろで様子を伺う分、有利に働いている可能性があった。

(私も、様子を見ないといけないか……。それとも……)

 3周目に突入し、1000mを過ぎた。ヴァージンにとって、3度目の向かい風が襲ってくる。そこでヴァージンは、後ろを見た。ウォーレットが、ほとんどその真後ろに付いていた。そこでヴァージンは、向かい風に任せてほんの少しだけペースを落とした。ギアを上げなければ、ここで自然とペースが落ちていく。

 しかし、その時に前に出たのはウォーレットではなかった。先頭がペースを落としたのを受けて、メリアムがウォーレットを抜き、ヴァージンの真横にぴったりと付いたのだった。

(メリアムさんは、中距離で培ったスタミナがある……。少しなら先頭に立ってもいいと思ったのかも……)

 ヴァージンがそう思ったとき、次に追い風に変わった瞬間、やはりメリアムがヴァージンの前に出た。そして、追い風に任せてほんの少しだけペースを上げていく。見る感じ、メリアムはラップ69秒ほどのペースだ。

(やっぱり、メリアムさんはこのペースで走り始めた……)

 先頭を譲り、いつものようにその背後から追いかけ、最後に抜き返す。それが普段からヴァージンが意識する「勝負」だった。この風の中でも、その作戦で行くことにした。


 だが、2000mを過ぎたあたりから、ヴァージンは先頭のメリアムのペースに違和感を覚えた。

(メリアムさん、追い風の直線ではラップ69秒で走っているのに、向かい風ではそんな加速していない……)

 ストライドが、追い風と向かい風で全く違う。それが、意識的ではなく無意識のうちに行われていることに、ヴァージンは戸惑った。ヴァージンは、そのメリアムのペースについて行こうと、懸命にペースをラップ70秒を意識しているが、向かい風ではその足を強く前に出し、追い風でも半ばそれを意識してしまうのだった。

(意識と無意識の差……。落ち着いたほうが、ここはいいかも知れない……)

 そこまで意識しなくても、自分は5000mを誰よりも速く走ることができる。この向かい風の中でも。ヴァージンは、そう気持ちを落ち着かせ、メリアムのように自然と向かい風でペースを落とすようにした。


 しかし、その時にはもう、ヴァージン自身のペースは、無意識のうちに少しずつ狂い始めていたのだった。

 それは、3400mのラインを通過したときに、ようやく気付くのだった。

(ペースが……、少しずつ遅くなっているような気がする……)

 ここまでラップ70秒を意識しつつ、駆け抜けてきたはずだった。2000mを過ぎたあたりから、未だに先頭でレースを引っ張っているメリアムのように、追い風と向かい風で力の入れ方を変えている。それでも平均的にはラップ70秒で走っていると思っていた。

 だが、3000mと3400mでゴール横のタイムをかすかに見たとき、その時間は74秒も先に進んでいるのだった。

(10分15秒……。ラップ70秒で走っているはずなのに……)

 たしか1周前にタイムを見たとき、9分01秒だったはずだ。目の前で走っているメリアムも、今のところほぼラップ70秒で走っているように見えて、実際には74秒までペースを落としていたのだった。そして、何よりヴァージンが恐怖に思えたのは、自身が決してラップ74秒のペースで走っているような感覚を覚えていなかったことだ。

(この風で、私のペース感覚が狂い始めている……。何とかしないと……)

 次の向かい風に入ったとき、ヴァージンは一気に右足に力を入れ、向かい風でもラップ70秒で駆け抜けようと、普段から意識しているはずのペースを作り出した。だが、そこでヴァージンは異変に気付いた。

(ストライドが、思っているところよりも短くなっている)

 膝はストライドを少しずつ大きく取ろうと動いているにもかかわらず、風を受けるうちに足がやや手前に着地してしまう。ヴァージンが、その風と懸命に闘おうとしているにもかかわらず、度重なる向かい風にヴァージンの力強いはずの脚は、怯えていた。そのことに、ヴァージンは気付いてしまったのだ。

(ここまで、私は何度も……ペースを意識できていたじゃない……!)

 レース中から、ヴァージンに悔しさがこみ上げてきそうだった。しかし、それが分かった瞬間、その悔しさ以上に体全体から悲鳴が上がっていた。残り3周半、本来ならそろそろスパートに向けてパワーを高めるはずが、風を意識しすぎたために、ヴァージンにはほとんど余力がなくなっていた。

(受ける風も、だんだん強くなっていくような気がする……。でも、これはみんな同じはず……)


 しかし、ようやく向かい風から解放されたヴァージンが見たのは、コーナーで一気に横に出たウォーレットと、そして絶対に負けてはいけないヒーストンだった。さらに、それまでヴァージンの後ろにいるとは思わなかったメドゥの金色の髪まで、ヴァージンは横目に映るようになった。

(みんなが、ペースを上げた……!)

 残り1200mと少し。追い風に変わった直線で、先頭のメリアムがペースアップするのを見計らって、ライバルたちは追い風にその足を乗せた。その直線で、一人だけ取り残されたのがヴァージンだった。ライバルたちは、そのままのペースで向かい風に突入すると無意識のうちにペースを落とし、吹き荒れる風に耐えていくが、ヴァージンに残された道は、そのペースに「意識的に」付いて行くことだった。


(こんなの、私の走りじゃない……。でも、こんな荒れたレースで、そうするのは仕方ないのかもしれない……)


 残り2周。ヴァージンにとって遅すぎる決断だった。気持ちがペースを上げようとしているのに、体では全くペースが上がっていかない。ラップ65秒まで高めようと懸命にその足を出すが、向かい風では押し返され、追い風に変わっても思うように体を前に出せない。

 5000mを誰よりも速く走る女子が、一人トラックの上でもがいていた。

(思い通り走れない……)

 最後の1周を告げる鐘を、ヴァージンは50m手前から聞いた。ヴァージンを抜いていったヒーストンがメリアムをかわし、メリアムとウォーレットを20mの差をつけて引き離している。それよりヴァージンは30mも引き離されていた。

 もはや、勝利を確信したとしか思えない、ヒーストンの力強い走りが、スタジアムを歓声に包んだ。

(やるしかない……)

 ヴァージンは、追い風のうちからペースを上げた。ターゲットは、普段から見せる、ラップ60秒を切るペースだ。追い風にようやく乗ったように思えたヴァージンは、最後の向かい風に挑む。

(もう少し、ギアを上げる……!)

 向かい風の中、ヴァージンは懸命にその足を叩きつけ、前を行く3人を猛追した。だが、ヴァージンのスパートは、すべての「挑戦者」を何度も苦しめてきた風に、少しずつしぼんでいく。ヒーストンとの差が、ほとんど縮まらない。それどころか、追い風に変わってペースを上げたウォーレットとメリアムを、ヴァージンは手の届く距離まで追い詰めたところから、抜くことができない。


 歓声と悲鳴が同時に上がり、ヒーストンがゴールラインを駆け抜けていった。

 世界女王は、それを悔しい表情で見ることしかできなかった。

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