第29話 セントリック・アカデミーの消滅(4)
世界競技会の日程は順調に進み、5日目に女子5000mの予選が行われた。10000mの一発決勝のときと同じくらいの気温だが、夏の眩しい光が照り付ける分だけ、体力に気を使わなければならなかった。
その中でヴァージンは予選2組トップで通過、そしてヴァージンがこの大会で絶対に勝たなければならない相手、ヒーストンは予選1組トップで決勝に進んだのだった。だが、トップ選手がメドゥ以外に出ていない予選2組と違い、予選1組ではウォーレットやメリアムとヒーストンとが終始デッドヒートを繰り広げる展開になっていた。その分だけ、予選ながらハイレベルな争いになったのだ。
「待ってたわ、グランフィールド。いよいよ、明後日じゃない」
予選を14分41秒37と、自己ベストからすればスローペースで走り終えたヴァージンがロッカールームに戻ると、ヒーストンが待っていたようにロッカールームを出るところだった。
「はい……。なんか、ものすごく楽しみです。10000mでも勝ったわけですし……、きっと勝てると思うんです」
「それはどうかしら。私に火をつけたわけだから、ただじゃすまないわよ」
ヴァージンの目に映るヒーストンの姿は、トラックの上に立っていないにも関わらず本気そうに見えた。その姿を前に、女子5000mの世界記録を持つヴァージンは、その目を細めながらヒーストンを見つめた。
「それに、グランフィールド。得意の10000mで負けて、5000mでやり返したら、エクスパフォーマの評価だって私のほうが上がるに決まっている。もともと、私には最初から声がかかったわけだし、有利なのは私ね」
「それは、走ってみないと分からないと思います。私だって、本気ですから」
ヴァージンは、はっきりとそう言い切った。ヒーストンは、ヴァージンを横目で見ながらその場を後にした。
そして、二日後。女子5000m決勝の日が訪れた。この日のルーキャピタルの空は、青空の中を雲が飛ぶように流れており、暑さを和らげる以上に、誰の身にもこたえるような印象の風が吹き荒れていた。
(風速にすると何mだろう……。ここまで強い風の中でレースをするの、久しぶりかもしれない)
そんな中、ヴァージンはスタジアムに入るなりいくつもの取材陣に囲まれた。10000mの日や、5000mでも予選の日とは雰囲気がまるで違った。まるで、何かが始まりそうな予感さえしていた。
(いよいよ……、私がヒーストンさんや……、他のライバルを前にその力を発揮する日……)
ヴァージンの脚は、1年半ぶりに世界記録を叩き出した、先日のサウザンドシティでの走りをはっきりと覚えていた。調子は上向いている。ヒーストンも、10000mで自己ベストを出すなど調子を上げているものの、5000mを何度も走り抜けてきたヴァージンにとって、ここで負けることは許されなかった。
(私は、ヒーストンさんに絶対勝つ。そして、エクスパフォーマとの専属契約を、絶対に勝ち取る!)
受付へと向かうだけなのに、ヴァージンは今にも走り出しそうな勢いだった。今すぐ、5000m先のゴールに向かって、その体を動かしたい気分だった。
ロッカールームに入ると、そこにはウォーレットがいた。一瞬、ヒーストンの赤い髪が見えたかと思ったが、光の反射でウォーレットのダークブラウンの髪が赤く見えてしまっただけだった。
「グランフィールドとは、よくロッカーで一緒になるのね……」
「私だって、いつもそう思ってます。ロッカールームに入ると、一緒に走る誰かがいるようで……」
「不思議な力を、グランフィールドは持っているのね……」
そう言うと、ウォーレットは軽くジャンプして、再び口を開いた。
「ちょうど、去年の世界競技会でも、こんな強い風が吹いていた。その中で、私はレースを制したの」
「去年……。もしかして、私が出ることのできなかったレデスネスでの世界競技会ですか?」
「そう……。そのレデスネス、ものすごい風が吹いていたの」
昨年の世界競技会の会場、イルシア共和国のレデスネスは、俗に「気まぐれな悪魔」と呼ばれる風が、一年のうちで半分は吹く。世界競技会の行われる夏場はほとんど吹かないものの、女子5000m決勝の行われる日だけは、まるで牙を剥いたかのように強い風で選手たちを苦しめたのだった。
短距離などでは追い風参考記録が続出したほどだった。勿論、トラックを1周以上する競技も例外ではなく、強い向かい風と強い追い風が選手を交互に襲う中でペースを維持するのは、容易ではなかった。
「そんな中で、ウォーレットさんがあのタイムで優勝できたんだから、すごいです……」
「14分21秒19……、だったような気がする。5000mだと、追い風のときもあるし、向かい風の時もあるから、追い風の時だけペースを早めようとしたら、こんないいタイムが生まれただけ」
「そうなんですね……。でも、できればいま吹いている風が、本番までにやんでくれると嬉しいです」
「私も。グランフィールドの他に、ヒーストンまで強力なライバルになってきてるから……」
そう言うと、ウォーレットは一度首を横に振り、今日は楽しみ、とだけ一言呟いてロッカールームを後にした。
だが、ヴァージンやウォーレットの願いとは裏腹に、風はいっこうにやむ気配がなかった。選手たちの点呼が済み、薄青のトラックに場所を移したヴァージンは、その体に激しい向かい風を感じた。ここで向かい風であれば、ゴール前では追い風になる。だが、時折その風は風というより、突風と言ってもよい強さになっていた。
(この場所で、実力を出せる人が本気だと思う……)
ヴァージンが、風の吹き荒れる中で5000mを走ったことがないと言えば、嘘だった。トレーニングの時に、走り始めてから急に風が強くなり、これから走るレースとは真逆で、追い風の中ゴールに飛び込まなければならなくなった。その時、ヴァージンの自慢のスパートは完全に伸びなかった。また、そこまで強い風出なかったとしても、レースで多少強い風を感じた時もあった。
だが、いずれももう数年前の記憶に過ぎなかった。
(私は、その時から成長した。自己ベストも、はるかに速くなっている。それに……、10000mで信じられないタイムを出せたのだから、5000mだって絶対うまくいく)
そう思ったヴァージンは、そっと風にこう言い聞かせた。
「私は、この風を敵にしない。むしろ、味方につける」
ヴァージンは、風を切るように腕を前に出し、手をギュッと握りしめた。その時、背後から声が聞こえた。
「さぁ、どうかしらね……。どっちを、風が味方してくれるか……」
「ヒーストンさん……。いつの間に集合場所に並んでいたのですか」
「ほとんど同時ね。グランフィールドが気付かなかっただけで、私はほとんどグランフィールドの近くにいたの」
「そうなんですか……」
ヴァージンは、静かにうなずいてヒーストンの表情を見る。予選の後に見たとき以上に、ヒーストンの表情は本気だった。
「とにかく、今日グランフィールドを打ち負かして優勝すれば、エクスパフォーマとの専属契約が待っているの。間違いなく、今日は担当者がトラックの間近で私たちを見ると思う」
「それは、間違いないですね。私か、ヒーストンさんか、最終決断をすると思います」
ヴァージンは、そこまで言って観客席を見渡した。やはり、ゴール前の観客席には、このスタジアムには不釣り合いと言っていいスーツ姿の男性が、数人座っていた。みな、それぞれメモを持っているようだ。
(もう……、私は勝つことしか道が残されていない……)
そう言って、ヴァージンはスタートの時を待った。5000mを一番速く走ることのできるヴァージンが、トラックの最も内側、次いでその横にウォーレット、そしてヒーストンが並んだ。
その時、ヴァージンの目に飛び込んできたのは、ヴァージンの名前が書かれた、かつてないほどの量の横断幕、そしてアメジシタの旗だった。ここ最近は、スタジアム全体の中でヴァージンの応援をする人を見かけるようになったが、世界競技会という大舞台ではそのレベルが違っていた。
(私を応援する……、たくさんの人がいる……)
ヴァージンだけのファンもいれば、世界のトップ選手に会いたいと思って詰めかけたファンもいる。それでも、それらを手に持つ人は、みなヴァージンの走りを期待しているのだった。
そして、その期待はオーロラビジョンにその姿が映し出されたその時、一気に沸き上がるのだった。
AMZ VIRGIN GRANFIELD PB/14:11.94
――ワアアアアッ!
10000mのときは、ヒーストンのほうが何倍も大きかった声援。だが、5000mのトラックに立ったヴァージンには、それをはるかに超える声援が集まった。今や、5000mでは最も世界記録に近い存在となったヴァージンに、10000mでの歴代2位のタイムを出したことも相まって、大きな期待を背負っていた。
ヒーストンや、ウォーレット、メリアムではなく、その声はヴァージンを後押ししていた。
(私は……、必ず勝つ……。2冠と、そしてこの大舞台で世界記録を進めてみせる)
「On Your Marks……」
女子5000m決勝。世界女王のプライドが、スタジアムで燃え上がる。
様々な願いを乗せた決戦が、いま始まる。