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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第29話 セントリック・アカデミーの消滅(3)

 29分59秒76。電光掲示板には、そうヴァージンのタイムを輝かせていた。29分という文字を見た瞬間だけは、ヴァージンはほんのわずかの確信を持っていたが、最後までタイムを読んだときにはその期待が消え失せていた。サウスベストの持つ、女子10000mの世界記録29分57秒29にあと一歩及ばなかった。

(世界記録、いけると思ったのに……)

 だが、すぐに電光掲示板の表示が変わり、その瞬間スタジアムが沸き上がったのだ。

「ヴァージン・グランフィールド、史上二人目の10000m29分台達成!」

(そうだ……。私、たしかに30分を切っていた……)

 そう思ったヴァージンは、もう一度記録に目をやった。世界記録に及ばなかったとはいえ、自己ベストどころか、世界歴代2位のタイムだった。沸き上がる声援を受け、ヴァージンの目にもようやく笑顔が浮かんだ。

「おめでとう、グランフィールド。29分台じゃない……!」

 その数秒後、ヴァージンは背後に赤い髪が揺れるのを感じた。振り返ると、そこにはヒーストンが両手を広げてヴァージンを抱こうとしていた。

「ありがとうございます……。夢中になって走ったら……、30分切ってました……」

「それが、グランフィールドの実力だと思う。10000mでは、私の負けね……」

 ヒーストンのタイムは、30分12秒83。ヒーストンもまた、10000mの自己ベストを更新していた。だが、最後の2周であっさり抜かれたことを悔しがっているような表情を浮かべたようにも、ヴァージンには見えた。

 そして、ヴァージンに離されること1分ちょっと、4位でサウスベストがゴールラインを通過した。優勝タイムを横目で見ながら、サウスベストはかすかに震えながら立ち止まった。ちょうど、2ヵ月前のアロンゾ選手権で、ヴァージンがウォーレットに世界記録を奪われそうになった時のような、それを持つ者だけが感じ、そして体で表現することのできる恐怖感だった。

「サウスベストさん……。ちょっとだけ、私の力が足りなかったです」

「あと少しね……。今回ばかりは、あまりにも二人が速かったから、記録が生まれるかと思っていた」

「そこまでは無理でした。でも、必ず次につながるような、そんな感じがしました」

「そう……。私だって……、そろそろ新しい記録を出したいから、手ごたえを掴みたい……」

 そう言ったサウスベストは、やや目を下に落としていた。悔しさと本気が入り混じった世界だった。


「ヴァージン、やったじゃないか!初めて、ビッグタイトルを取った……だろ!」

 ヴァージンが観客席にいるマゼラウスのもとに走ると、マゼラウスは大声でヴァージンを出迎えた。その言葉を聞くまでは、この場所が世界競技会の舞台であることを、ヴァージンは忘れかけていた。

「そう言えば……、私、オリンピックでも世界競技会でも、金メダルを取ったことがなかったんですね……」

「私も、それだけは気にしていた。だが、今日の優勝でお前自身が新たな1ページを刻んだな。お前の故郷、アメジスタにとっても、初めてとなる金メダルだ」

「アメジスタ……、初の金メダル……。それは、本当に素晴らしいことだと思います!」

「お前自身がそう言うくらいだから、きっと素晴らしいんだよ。さぁ、堂々と表彰台の中央に上がりなさい」

 そう言って、マゼラウスは再びヴァージンを見送った。


 表彰式の真ん中に、初めてアメジスタのアスリートが立った。メダルを受け取る瞬間、真ん中にアメジスタの国旗が掲げられる瞬間、学校で聞き慣れた国歌がスタジアムに流れた瞬間……どのシーンを取っても、ヴァージンはこみ上げる涙をこらえることができなかった。

(5000mでは……、何度世界記録を出しても、大きな大会でここには届かなかった……。でも、私の脚で世界の頂点に立ったということには変わらない……。しかも、アメジスタ人として、初めて……)

 もしかしたら、今回もそのニュースが報じられないかもしれない。けれど、この大きな10000mで世界の頂点に立ったアメジスタ人のことを報じる可能性は、ほんの少しだけ大きくなった。そうヴァージンは思った。

(本当に、素晴らしい瞬間を、いま私は過ごしている……)


 だが、その日のうちに、もう一つのドラマは大きく動き出した。

 着替えを済ませ、バッグを抱えてスタジアムを出るヴァージンの目に、黒のツインテールをなびかせたグラティシモの姿が目に飛び込んだ。

(あれ……、グラティシモさんは、アカデミーを守りたいから、今年の世界競技会をやめたって言ってた……)

 不思議に思ったヴァージンが、グラティシモのもとに近づこうとすると、グラティシモは逆に手招きした。

「どうしたんですか、急にここに現れて……」

「本当に、まずいことになった……。というより、アカデミーから逃げてきた……」

 グラティシモの表情は、ヴァージンと同じ女子5000mを走っているとは思えないほどやつれていた。アカデミーを守るために立ち上がってからずっと動き続けてきて、ついに疲労がピークに達したかのような、元気のない表情だった。だが、その目からはもはや、アカデミーを守ろうという意思すら消えていた。

「今が一番、アカデミーにとって大事な時期なのに……、どうして逃げてしまうんですか……」

「私たちに、話があったのよ。アカデミーの敷地が、運動公園として売り飛ばされることが……」

「売り飛ばされる……。って、もしかして、本当にアカデミーがなくなってしまうってことですか……?」

 グラティシモは、静かにそううなずいた。ヴァージンの目は、その動きをじっと見つめるしかなかった。

「でも、まだ実際に売り飛ばされたわけじゃ……ないじゃないですか。まだ、望みはあると思うんです」

 ヴァージンは、やや強く言った。しかし、それをも上回る声で、グラティシモが言葉を吐き出す。

「ヴァージン……。どうやったらアカデミーを救えるのか、私にももう分からない……。たぶん、私たち選手がここを見限り始めたから……、セントリックも私たちを見捨て始めた……。そうとしか思えない」

「見捨ててなんかいません……。セントリックだって、そう簡単に私たちやブランドを捨てたりしません!」

 ヴァージンは、ほとんど何も考えることなく、そう言ってしまった。

 その目の前で、グラティシモの体が震え上がった。


「ヴァージンは分かってない!現実がどれだけ深刻なのか……、ヴァージンは分かってない!」


 ヴァージンの耳に、高い声が響いた。キーンとなる音が、その後に続く。

「すいません、グラティシモさん……。ただ、この争いを止めたいだけなんです……」

「ヴァージンは……、結局私たちに背を向けてるだけじゃない。ストにだって参加しないで、争いよりもまず選手としての日常を大事にする。戦わなきゃいけない時に、戦ってない……!」

「私たちにとって、戦う場所はスタジアムのはずです。そこで力を出せば、セントリックだって……」

 ヴァージンも、ついに声を大にして言った。スタジアムに出入りする観客が、二人のアカデミー生の言葉に顔を向けながら、次々と通り過ぎていく。もはや近所迷惑とも言われかねない中、グラティシモが口を開いた。

「ヴァージン……。現実は、そう甘くない。スタジアムの外で戦わなきゃいけない時もある」

 そう言うと、グラティシモは首を右に向け、ヴァージンから目線を反らした。何も言うことのできないヴァージンを置いて、グラティシモはようやく普通のトーンに戻り、最後にこう言い残した。

「まぁ、子供のヴァージンには分からないことね。他に進むべき場所もあるんだし、羨ましい……」

「すいません……」

 グラティシモは、決して振り向くことなく、スタジアムの出口に向かって歩き出した。グラティシモの小さくなる後ろ姿を遠目で見ながら、ヴァージンは力なくうなずいた。


「何か、あったようだな……」

 その後1分も経たないうちに、立ち止まるヴァージンの背中をマゼラウスの温かい手が叩いた。

「はい……。グラティシモさんと、意見のすれ違いがあって……」

「そうか……。アカデミーの存続が危ぶまれている今、意見の食い違いは仕方ないことだ……」

 マゼラウスは、そこまで言うとため息をつく。その息が、ヴァージンにもはっきりと伝わった。

「コーチ。セントリックは……、どうしてこう……、結論を急ぐんでしょう……」

「ストを起こしたりして、トレーニングに背を向けるような人間に、アスリートとして尊敬できるか?それに……、その中で一生懸命頑張る選手を敵視するようなスポーツブランドに、希望を感じられるか?」

「いえ……」

 ヴァージンは、すぐにそう返した。

「残念だが、それが世間の出す答えだ。だから、お前も頑張って……、そうならないようにしてきたつもりが……、一人の力では、どうすることもできないんだ」

 マゼラウスは、重い口調でそう言った。

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