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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
突然の別れは奇跡の出会いの始まり
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第29話 セントリック・アカデミーの消滅(1)

 ヴァージン・グランフィールドが、ついにセントリック・アカデミーを出る。それは、決してマゼラウスからも、ましてはヴァージンからも直接多言したわけではない。ここで大騒ぎになれば、ヴァージン自身の世界競技会の成績にも響いてしまうので、まだ正式に「結果」を残すまでは、言わないつもりだった。

 しかし、その噂はわずか二日で、アカデミー生側の先導とも言うべきグラティシモの耳に伝わってしまった。

「ヴァージンから、嫌な噂が流れてきたみたいだけど、それって本当のこと……?」

 決起集会やストを行った後も、ロッカールームでグラティシモとは頻繁に顔を合わせている。だが、ヴァージンは普段と全く違うトーンのグラティシモの声に、戸惑いを隠すしかなかった。

「私は流してなんかないです……。少しいろいろ考えてはいるんですが……」

「移籍でしょ。セントリック・アカデミーからの」

 グラティシモが、真っ先に真実を口にした。その表情は、薄笑いを浮かべているかのようだった。

「グラティシモさん。まだ、心は決めかねています……。ここを出なきゃいけないって……思いたくないです」

「でも、もしトップブランドに移るとしたら、もうこことはお別れじゃない……。あれだけ平和的な解決を望んでいたはずのヴァージンが、まさかいなくなる道を選ぶなんて思わなかった……」

「その件はすいません……。私だって、こんな形でここを去りたくないし、できればアカデミーの問題が解決するまでは、残っていたいんです。それに、出たいって気持ちと、残りたいって気持ちが、まだ半分ずつ居座っている感じなんです……。コーチから、出るということを問いただされてから……」

「ヴァージン。コーチは、ヴァージンに何てアドバイスしたの?」

 グラティシモは、ロッカーを閉めると、ベンチに座りヴァージンを見上げていた。それを見て、ヴァージンは咄嗟に膝をかがめ、グラティシモに目線を合わせた。

「私がここを出るのは……、難しいかも知れないって言ってました。壁が、あるんです……」

「ヴァージンにとっては、エクスパフォーマなんて最高の舞台なのにね」

「……そうですね。でも、まだそこが本当に、私にとってどういうことをしてくれるのかも分からないうちから、そんな最高の舞台かなんて決められないんです……」


(最高の舞台……か。たしかに、飛ぶ鳥を落とすようなスポーツメーカーだから……、ここにいるのと比べたら、ものすごくいい舞台になってくれるのかもしれない……)


 心と言葉で、ヴァージンは全く相反する言葉を言っていた。そのことに気付いた瞬間、ヴァージンは軽く肩をすぼめて、グラティシモに作り笑いを浮かべた。

「そうなんだ……。でも、私はこんな形でアカデミーの問題に幕を下ろして欲しくなかったな……」

「幕を下ろす……。それって、私がいなくなったら……、解決するような問題ですか……?」

「解決はしない」

 グラティシモが、小さくため息をついてヴァージンに告げた。その目は、半分沈んでいるようだった。

「グラティシモさんの言いたいこと、なんとなく分かったような気がします……。私だって、それでアカデミーが終わってしまうの、受け入れたくないし……、一人一人がここを立て直せると思うんです」

 ヴァージンは、そう言ってロッカールームの床を強く踏みしめた。心はまだ、ここにあった。

「そう言ってくれると、私は助かる……。ヴァージンがここを離れるって聞いて、とても心細かったから」

 そこまで言うと、グラティシモはそっと立ち上がり、ヴァージンの肩を両手で掴んだ。

「今だから言うけど、同じ組織のコーチに嫌がらせを受けたと分かって時点で……、ヴァージンがアカデミーに背を向けてしまうかもしれない事件だった……。その中でも、まだ平静さを失っていないヴァージンは、大人ね」

「ありがとうございます」

 ヴァージンは、そう言いながら力強くうなずいた。

 その時、グラティシモの口が「On Your Marks……」と小さく言ったように、ヴァージンには思えた。


 しかし、それから数分も経たないうちに、コーチ控室でウィナーの前に立たされるマゼラウスの姿を、ヴァージンは目にしてしまうのだった。

「分かってるだろうな。いま消えてもらっては、ここのレベルにも響いてしまうだろ!マゼラウス!」

「私は、それは承知の上で、本人と話をしました。前向きに移籍を考えている以上、支えるのが指導者です」

「それは、建前だ。いや、たわ言だ。ここはビジネスだ。一人、有力選手がいなくなれば……、今度こそ、本社がここを見限ってしまう。そうなれば、多くのアカデミー生が、夢を……絶たれてしまう」

(夢を……、絶たれてしまう……)

 ヴァージンが、その危機を何度も跳ね返してきただけあって、この言葉に立ち止まざるを得なかった。ウィナーからもマゼラウスからも死角になるような場所にヴァージンは立ち、耳を傾けるのだった。

 それからの数秒の沈黙が、ヴァージンには長く感じた。

「CEO。セントリック・アカデミーで、トップ選手を育て上げてきた身として、これだけは言いたくありませんでした……。だが、これを言う機会も限られている以上、言わせていただきます」

「マゼラウス。まだ私に逆らうつもりか」

「逆らうわけではありません。アカデミー生のためを思って……、私は言いたいのです」

「ほう……。アカデミー生のためか。聞かせてもらおうじゃないか」

 ウィナーが、やや低い声でそう言うと、マゼラウスは小さくうなずき、それから叫ぶような声で言った。


「今の、このセントリック・アカデミーに、未来を感じているアスリートは、たぶん一人もいません。年会費の値上げや、切り捨てに怯えながら、夢や記録を追い続けられるほど、そこまで人間は……タフじゃない!」

 最後は乱暴な声になったマゼラウスは、そこでウィナーに背を向けた。

「おい、マゼラウス。ここで本音を口にするな!……誰が聞いているか分からないだろ!」

「おそらく……、一番聞くべき選手は、遠くでも私の声は聞いているはずです」

「もしかして、ヴァージンのことか。なら、余計にまずいだろ。本人の耳に触れたら」

 ヴァージンは、いよいよ身の危険を感じ、腰をかがめながら急いで出て行った。幸い、その間にコーチ控室からマゼラウスが出てくることはなかった。だが、そうして逃げる間も、ヴァージンはずっと考えていた。

(マゼラウスさんの言っていることは……正しいのかもしれない。グラティシモさんと、考え方は同じように見えるのに、どうしてこれほどまで……、その言葉が違って見えるのだろう……)

 ヴァージンは、すぐに道路に出て、何事もなかったようにワンルームマンションへと戻った。

 ヴァージンの進むべき道は、もう決まっていた。


 8月。ヴァージンが昨年出ることができなかった世界競技会が、ルーランド共和国の首都ルーキャピタルで幕を開けた。ヴァージンの出場する女子10000mは決勝のみ2日目、そして世界記録を持つ女子5000mは予選が5日目、決勝が7日目と、大会の行われるほぼ全ての期間をルーキャピタルで過ごすことになった。

 スタジアムに着くと、地元・ルーランドから生まれたやり投げのスーパースター、ルイス・カルキュレイムを中心に、何人もの選手が載っている大会のポスターが、何枚も飾られていた。そして、そのポスターの右側にヒーストンとヴァージンの、先日デッドヒートを繰り広げたときの画像があった。

(メリアムさんやウォーレットさんじゃなくて……、私のライバルはもうヒーストンさんだと思われている……)

 ポスターの前でほんの数秒止まったヴァージンは、すぐに遠くからカメラが近づいてくるのに気が付いた。それは、世界記録を出すようになってから毎回変わらない光景だった。だが、そのすぐ横からもう一人、メモを一生懸命書いている、スーツ姿の茶髪の男性の姿がヴァージンの目に留まった。

(あの人……、取材の腕章をつけていないのに、どうして私のことを見ているのだろう……)

 そう思って、ヴァージンはその男性の足元を見た。スーツ姿にも似合うような、黒いスニーカーを履いていた。そのスニーカーは、ここ最近ヴァージンがネットでやたら目にしているものだった。

(エクスパフォーマ……)

 もはや、スタジアム入りした時からずっと見られているのだった。勿論、専属契約を目指す「最有力候補」のヒーストンにも別のスタッフがメモを取っているのだろう。

(誰が見ていてもいい。私は、5000mでも10000mでも、勝つ……)

 夏の眩しい光が、トレーニングシャツに身を包んだヴァージンを照らしていた。その光の先に、ヴァージンの目には二つの頂点を感じていたのだった。



 だが、ヴァージンの目はその時、もう一つ異常な光景を目にしていた。

 普段なら、スタジアムの目立つところに大会のためにショップを出しているはずの、セントリックのロゴがどこを探しても見当たらなかった。

 それが、ドラマのクライマックスになると、ヴァージンにさえ感じていた。

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